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透明の心臓  作者: 水瀬 悠里
Ⅴ 赦しの環

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第15章 花の気配

花の街は、春がこぼれ続けているかのようだった。

白と桃色の花弁が、風のたびにふわりと舞い上がる。


ノヴァは両手で花を受け止めると、しばらく見つめて──ぽつりと言った。


「……リリカ、どうしてるかな」


慧吾が歩みを緩める。ジャックも驚いたように横目でノヴァを見る。


「さみしいのか?」

とジャック。


ノヴァは少しだけ考えて、首をかしげた。


「さみしい……のかな? ここ、きれいで、たのしいけど…… ときどき、むねが“きゅっ”てなるんだ」


慧吾はその言葉の意味をすぐに理解した。


旅の間、ノヴァはその小さな胸で、どんな困難も受け止めてきた。滅びた村でも、魂を送る時も。

けれど――


“帰る家”を思うのは、まだ幼い証であり、生きている証でもある。


慧吾はノヴァの頭に手を置いた。


「……リリカは、お前が元気にしてるか心配しているだろう」


ノヴァはぱっと顔を上げる。


「ほんと?」


「本当だ。 家族にとって、大切な子が旅に出ているんだ。 心配しないわけがない」


ジャックは腕を組んで、そっぽを向きながら鼻を鳴らした。


「帰ってやったらいいじゃねぇか。 あの先生、坊やのことになるとすぐ涙目になるからな」


ノヴァがくすっと笑う。


「けいごは、かえる?」


慧吾は答えずに、一度空を仰いだ。

風が、花びらを巻き上げる。


「……ああ。 旅はここまででいいだろう。 “きれいにしたい場所”は、もう自分で歩いて確かめた。 あとは──帰る場所で生きればいい」


ノヴァは嬉しそうに跳ねた。


「じゃあ、かえるんだね! リリカに“ただいま”いうんだね!」


慧吾は微笑した。

その横でジャックが「お前がいちばん“おかえり”言われたいんじゃねぇのか」と小声で言ったのを、慧吾は聞かなかったふりをする。


風が、帰路の合図のように三人の外套を揺らしていった。



花の街を抜けると、道は少しずつ整備されたものになっていった。戦いの跡は薄れ、畑を耕す人々の声が風に混じる。


ノヴァは何度も振り返って、嬉しそうに言った。


「ねぇ、なんか“そむにうむ”のにおいがする!」


「気のせいだ」とジャックは笑ったが、慧吾はその言葉に、ほんの少しだけ胸が揺れた。


──帰りたい、という気配。──待っている者たちの気配。


それは、旅の始まりにはなかった感情だった。


ノヴァは小石を蹴りながら、こっそり慧吾に聞いた。


「けいごは、かえるとき、かなしい?」


「……なぜそう思う」


「たび、たのしかったでしょ? たのしいの、おわっちゃうよ?」


慧吾は一瞬だけ言葉を探して、そしてゆっくり答えた。


「旅が終わる寂しさより── 帰る場所があることの方が、今は嬉しい」


ノヴァの顔がぱっと明るくなる。


ジャックはニヤニヤしながら肩をすくめた。


「だとよ坊や。大人は遠回しに言うのが好きだな」


ノヴァが大笑いする。


「ねぇじゃっく! じゃっくは、かえるのうれしい??」


ジャックは少しだけ目をそらし、


「……まあな。 アイツが泣かずに済むなら、帰ってやるのも悪くねぇ」


「じゃっく、やさしいね」


「ちげぇわ!」


慧吾はそのやりとりを背中越しに聞きながら、風の流れを確かめた。


風は、街の方へ向かって吹いていた。まるで──“おかえり”と導いているかのように。


◇


夕暮れが近づく頃、丘の上に差し掛かった。


その向こうに──見慣れた街のシルエットが、薄い光の中に浮かんでいた。


ノヴァは思わず走り出す。


「みえる! そむにうむ、みえる!!」


ジャックが慌てて追いかける。


「おい!転ぶぞ坊や!! ……くそっ、なんであんなに速ぇんだ……!」


慧吾はゆっくりと足を止め、夕日に染まる街を静かに見下ろした。


胸が、かすかに熱くなる。


──ここへ戻る日が来るとは、思っていなかった。


戦いと痛みしか知らなかった頃の自分には想像もつかない未来。


けれど今は──ノヴァがここで生きていく。リリカが待っている。仲間たちが笑っている。


風が慧吾の前髪を揺らした。


「……帰ろう」


その言葉に、風がやさしく応えた。


三人は、静かに歩き出した。


どこか懐かしい土の匂いが、夕空に溶けていく。


もう“旅人の背”ではなく──“帰る者たちの足音”が、丘から街へ続いていった。

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