第14章 眠りの天使
夜は濃く、星はどこにもなかった。
焚き火だけが小さく揺れ、三人を包む円の中で赤い影を投げる。
ノヴァは慧吾の外套にすっぽり埋もれて眠っている。その寝息が一定で、安らかで、それだけで救いだった。
ジャックは火をつつきながら、ふと口を開いた。
「……明日も早ぇぞ。 眠れねぇのか、慧吾」
慧吾は焚き火を見つめたまま答えた。
「……こんな星のない夜は、あの頃を思い出す」
「闇ってやつか」
「……ああ。 あの頃、俺にはそれがすべてだった」
火のはぜる音が、谷の方へ吸い込まれていく。ジャックは焚き火越しに慧吾の横顔をちらりと見た。
「……俺もだ」
慧吾が少しだけ目を細める。
ジャックは続けた。
「あの頃の俺は、誰かを守るなんて考えられなかった。 誰を掴んでも、どこかで失うと本気で思ってた。
……だから、お前の命を拾ったあの日が、マジで怖ぇ日だった」
慧吾は反対側の手でノヴァの頭をそっと撫でた。
「俺を拾わなかったら、いまお前はここにいなかったって言うのか?」
「当たり前だろうが。 お前が死んだら──俺は何を守るかわかんなくなってたろうよ」
慧吾の瞳が揺れた。焚き火の赤が映って、深く、静かな影を落とす。
「……そうだな。 俺たちはあの頃、戦うことしかできなかった」
「そうだよ。 戦いが中心で、痛ぇのが日常で、 死ぬのが“いつかの話”じゃなくて“今日か明日か”って感じでよ」
ジャックは火箸を置き、手を組んで膝に乗せた。
「……だからだ」
「?」
「いま、こうして焚き火の前で、 ガキひとり寝かせて、 お前とくだらねぇ話してんのがさ…… 時々、夢みてぇなんだよ」
慧吾は黙っていた。けれど焚き火の光の奥で、どこか安堵したような色があった。
ジャックは肩をすくめ、ため息をひとつ。
「……お前が死に急がなくなって、本当によかったよ」
慧吾は、火に手をかざす。
「死に急ぐ理由が、もうどこにもないからな」
ジャックは思わず笑った。
「……いい答えだ」
夜風が、焚き火の煙をゆっくり運んでいく。
ノヴァがモゾモゾ動いて寝返りをうった。慧吾がそっと外套を直し、大きな手でその小さな肩を包み込む。
しばらく沈黙が落ち、焚き火だけがぱちぱちと音を立てた。
慧吾は炎を見つめたまま、静かに口を開いた。
「……この子がいる限り、俺たちは戻れない。 あの闇には」
ジャックはわずかに目を見開き、それから苦笑した。
「……だよな。 戻りたくもねぇよ。 だって今の方が──ずっと生きやすいからな」
慧吾の横顔には、焚き火の光が揺れていた。かつての鋭さではなく、淡く、温かい影だった。
「……ああ。 生きるための夜になった」
焚き火が細く揺れたときだった。
ノヴァが小さく息を吸い込み、胸の前でぎゅっと外套を抱えるように丸くなる。
そして──
「……だいすき……」
ほとんど音にならない寝言だった。風が運んできた、ひとかけらの陽だまりみたいな声。
慧吾は手を止め、そっとまぶたを伏せた。
ジャックは鼻で笑いながらも、その目の端に宿る光を隠しきれていなかった。
「……ほんと、 すげぇ破壊力だな、この坊やは」
慧吾は低く答える。
「……ああ。 この言葉だけで……どれだけ救われたか」
ノヴァの寝息は静かで、焚き火の音よりも穏やかだった。
空には星がない。それでも、闇はもう昔の闇じゃなかった。
ノヴァの小さな寝言が、焚き火の赤い光を、そっと“朝”の色に変えていた。




