第12章 はじめての海
丘を越えた瞬間、ノヴァは目を丸くした。
「……わぁ……!」
風が湿った匂いを運んでくる。その向こうに、どこまでも続く青。
海だった。
「なんだこりゃあ……とんでもねぇ景色だな」ジャックが腕を組んで笑う。
ノヴァは走り出して、濡れた砂に足跡を残しながらはしゃいだ。
「これ、ぜんぶ、おみず……?」
「そうだ。世界で一番大きい“水たまり”だ」慧吾が答えると、
「すごいねぇぇぇ!!!」
ノヴァは体ごと海に向かって叫んだ。
慧吾はその横で、ときどき胸に手を当てながらも、どこか誇らしげに微笑んでいた。
波打ち際に拾った平たい石を、ノヴァが不思議そうに見つめる。
「それな、“飛ぶ”んだぞ」
ジャックがしゃがむ。
「とぶ?おみずのうえを?」
「おう。よく見てろ」
ジャックが投げた石は、水面をぴん、ぴん、ぴんと音を立てて跳ねた。
ノヴァは息を呑む。
「……まほうだ!」
「ちげぇよ、技術だ」ジャックは得意げだ。
ノヴァは真似して石を投げるが、ぽちゃん、と水に沈むだけ。
「なんでとばないのー!」
「手首が甘い。貸してみろ」
慧吾は静かに近づいて、ノヴァの小さな手に、大きな手を優しく添える。
「こうだ。 力じゃなく、風を感じて、流れを弾く」
慧吾が手を添えて一緒に投げると、石は水の上を二度、三度跳ねた。
ノヴァの目が輝く。
「けいご!とんだ!!」
慧吾は微笑む。
その笑顔だけで、ジャックはふっと息をついた。
(……クソ。いい顔をしやがる)
日が沈む頃、三人は並んで波打ち際を歩いた。
ノヴァは慧吾の外套の裾をつまみ、時々走っては戻り、風を胸いっぱいに吸い込んでいた。
「けいご。 ぼくね、こんなにひろいところ、はじめてだよ」
「……そうだな」
慧吾はその声に、静かに目を細める。
ノヴァは続けた。
「ひかりも、かぜも、あったかいね。 “つめたくない”って、すごく、しあわせなんだね」
慧吾の胸が、かすかに揺れた。
彼の過去の冷たさを知るジャックは、隣でそっと目を伏せた。
「坊や……お前はほんと、反則だな」
ノヴァは笑ったあと、ふと立ち止まり、海を見つめた。
そして──小さな声で言った。
「ぼく、うまれてよかった」
慧吾もジャックも、返事ができなかった。
ただ、夕焼けの風が三人を包んだ。
ノヴァが何度目かの水切りに成功して、跳ねた石が波に飲まれていくのを見届けたあと、慧吾はふっと胸を押さえた。
ほんの一瞬、海風の中でその表情が影を落とす。
ジャックは見逃さなかった。
「……おい、慧吾」
慧吾は視線を逸らした。
「なんでもない」
「嘘つけ。 顔色、せっかく良くなってたのに……また悪ィぞ?」
慧吾は少し肩で息をした。胸の奥が、さっきよりも静かに痛む。
ノヴァがこちらを振り返る。波に濡れた足で駆け寄り、慧吾の外套を引いた。
「けいご?……むね、いたいの?」
慧吾は小さく首を振る。
「……少しだ。すぐ収まる」
ジャックが苛立ったように頭をかく。
「少しじゃねぇから言ってんだよ。 谷が近いせいか……呼んでんだろ、“あの残滓”が」
慧吾の指先が止まる。
海から吹く風が、谷の方向へと吸い込まれていく。
谷は、まるで「ここへ来い」と言わんばかりの静けさを持っていた。
ノヴァは慧吾の手を握りしめた。小さな掌なのに、その光はあたたかかった。
「けいご…… いたくなっても、ぼくがけいごをあっためるよ。 だから、だいじょうぶ」
その声はまっすぐで、幼いのに強さがあった。
慧吾は微かに笑った。
「……ああ。お前といると、本当に温かい」
ジャックはふっと煙たそうに空を仰ぐ。
「……ったく。 坊やがいると、世界がいちいち優しくなるな」
海と風の音の向こうで、谷の奥から、かすかな“呼び声”が響いた。
慧吾の胸がわずかに疼く。
ノヴァはその場にしゃがみこみ、砂に触れて、海の方へ一度だけ振り返った。
「じゃあ……いこう。 ぼくたち、きれいにしにいこ?」
慧吾はその小さな頭を一度撫でてから、ゆっくりと立ち上がった。
「谷へ向かう。 ……あの呼び声に、区切りをつけに」
ジャックが肩を回し、いつもの調子で言う。
「よし、行くか! 世界をきれいにすんのは“おれたち三人”だ!」
夕陽が三人の背中を照らした。その光を受けて、風が谷の方から吹き返してくる。
まるで──「赦しの続きを、迎えにおいで」そう、語りかけるように。




