スピンオフⅣ
冷徹さの先
研究棟の廃墟には、最低限の灯りしかなかった。割れた天井の隙間から落ちる月光と、誰かが残していった古い照明が、かろうじて足元を照らしているだけ。
外は敵だらけだ。ここは「隠れている場所」であり、同時に、いつ見つかってもおかしくない場所だった。
リリカは、皆が武器の手入れをしている隙を見て、静かに立ち上がった。音を立てないように。息を殺して。
(……あたし、いるだけで邪魔だ)
銃も、剣も、拳さえない。仲間たちは、自分の身を守れる。でも、自分は──。一歩、足を出した瞬間。
「──止まれ」息を含んだ低い声が、闇の奥から落ちてきた。
心臓が跳ねる。
慧吾だった。
いつの間にか、影の中に立っている。灯りが背後にあるせいで、表情はよく見えない。ただ、目だけが、暗がりで冷たく光っていた。
「どこへ行く」
責める調子じゃない。問い詰めるでもない。だからこそ、余計に怖かった。
「あたし……」リリカは、ぎゅっと拳を握る。「あたし、いるだけで邪魔だって」
慧吾の視線が、ぴたりと止まった。
「誰がそんなことを言った」
声は低く、抑えられている。大きな音を出せない場所だから。それでも、刃みたいに鋭かった。
「……誰も」リリカは、視線を落とす。「だから、余計に怖いの」沈黙。
どこかで、建材が軋む音がした。慧吾は一瞬、天井と入口の方向を確認する。それから、リリカに向き直った。
「言われてもいないことを、先に背負うな」
囁きに近い声。でも、否定ははっきりしていた。
「守れないから、要らない?動けないから、消える?」
リリカは、答えられない。
慧吾は一歩だけ近づく。近い。逃げ場を塞ぐ距離。
でも、触れない。
「違う」短い断言。
「お前は“守る対象”だから、ここにいる。それを理由にいなくなるのは、筋が通らない」
「じゃあ……」声が、震えた。「あたしが、ここにいていいかどうかは……誰が決めるの」
一拍も置かず、慧吾は言った。
「俺だ」
即答。
「少なくとも、ここでは俺が要らないと判断した人間はいない」
それは慰めじゃなかった。優しさでもなかった。
命を振り分ける側の、冷静な線引き。
慧吾は踵を返す。「戻れ。次に動く時は、黙って消えるな」
数歩歩いてから、声をさらに落として付け足す。
「……怖いなら、なおさらだ」
それだけ言って、影に戻る。リリカは、その背中を見送った。
冷たい人だと思った。何を考えているかわからない人だと思った。
でも。彼は声を荒らげなかった。むしろあたしを諭すように。
一度も「役に立て」と言っていない。ただ、静かに、逃げ道を塞いだ。
(……必死なのは、あの人の方、なのかもしれない)
リリカは息を整え、そっと元の場所へ戻った。
研究棟の薄暗い灯りの下で、慧吾は再び、誰よりも動かずに周囲を見張っていた。
◼◼◼◼
背中を見るもの
研究棟の外壁に背を預け、ジャックは崩れた通路の影に身を沈めていた。
視線は外。耳は中。中と外、両方を同時に見る位置。
自然とそういう場所に立ってしまうのは、長年の癖だ。
(……あ?)
足音。小さい。忍ぶつもりの、足音。
ジャックは煙草を噛み、火をつけないまま目を細めた。灯りの届かない廊下の奥で、リリカがひとり動いている。
(チッ……最悪のタイミングだ)
敵は近い。ここは“隠れている場所”であって、“安全な場所”じゃない。
声をかけるべきか迷った、その瞬間。
別の気配が、空気を切った。慧吾だ。足音がない。近づいたことを、音で知らせない。
(……あいつ)
ジャックはわずかに眉を寄せる。慧吾は、リリカの背後に立った。
距離は詰めすぎない。だが、逃げ道は確実に潰している。
声は低い。
いや、低く“抑えている”。
「──止まれ」
リリカがびくりと肩を震わせる。
(あー……)(そう見えるよな)逆光。影の中。
感情を削ぎ落とした声。誰がどう見ても、冷徹そのもの。
だがジャックにはわかる。
(あれは……怒ってるんじゃねぇ) (必死で“声を殺してる”だけだ)
慧吾は、余計な言葉を使わない。使えば使うほど、相手が動揺するのを知っている。
「どこへ行く」
短い問い。刃物みたいな正確さ。リリカの声が、かすかに震える。
「あたし……いるだけで邪魔だって」
その瞬間、慧吾の気配が、わずかに変わった。
ジャックは舌打ちしそうになるのを、ぐっと堪える。
(……出たな) (その手の“自分で自分を切る台詞”)
慧吾の視線が止まる。
「誰がそんなことを言った」低く、硬い。(言い方……もう少し何とかならねぇのかよ)
だが、慧吾は続ける。「言われてもいないことを、先に背負うな」
一歩だけ、前に出る。近い。威圧にも見える距離。
(……それ以上行くな)
ジャックは、無意識に足に力を入れる。いつでも割って入れる位置。
だが、慧吾は越えない。そこだけは、徹底している。
「お前は“守る対象”だ」
その言葉を聞いたとき、ジャックは、はっきり確信した。
(ああ……) (こいつ、完全に自分の命、勘定に入れてねぇな)
自分を削る前提で、線を引いている。リリカの問い。
「あたしが、ここにいていいかどうかは……誰が決めるの」
即答。
「俺だ」
迷いなし。
(……重てぇ)責任の取り方が、重すぎる。
慧吾は背を向ける。
「戻れ」 「次に動く時は、黙って消えるな」
最後の一言。「……怖いなら、なおさらだ」
(……あーあ)ジャックは、壁に頭を預けた。(そりゃあ、信用するよ) (あんな言い方されたらな)
慧吾は冷たい。感情を見せない。優しくもない。
だが。逃げ道だけは、絶対に塞ぐ。
(こいつ……)(人を守るの、下手すぎだろ)
それでも。慧吾がその場を離れたあと、リリカが引き返す足音を聞いて、ジャックは小さく息を吐いた。
(……守れたな)
火のつかない煙草を噛みながら、ジャックは再び外の闇に目を向けた。
敵は、まだいる。だからこそ──あの冷たい背中が、今は一番、頼りになる。
◼◼◼◼
削り出された沈黙
リリカの足音が遠ざかり、再び研究棟に重苦しい静寂が戻った。
慧吾は動かない。ただ、闇の奥を見据えたまま、石像のように立っている。
「……やりすぎだろ。あんなの、泣いちまうぜ」
影の中から、ジャックがゆっくりと姿を現した。火のつかない煙草を指で弄びながら、慧吾の横に並ぶ。
慧吾は視線を動かさない。ただ、低く、短い吐息を漏らした。
「……それでも、逃げられるよりはいい」
「『俺が決める』か。……かっこいいが、そいつは一番しんどい道だぞ。全部お前のせいになる」
慧吾は、ようやくジャックの方へ微かに顔を向けた。
月光がその横顔をなぞるが、やはり表情は読み取れない。
「……慣れている」
「慣れてる、ね。そう育てられたんだっけか」
ジャックは、慧吾の肩を軽く小突こうとして──そのあまりに硬く、強張った気配に、手を止めた。
リリカを追い返した時の冷徹な態度は、彼女を守るためだけではない。自分自身が崩れないように、自分を律するための鎧でもあったのだ。
「ジャック」
「あ?」
「……敵が動いた。一時の方向」
慧吾は再び、感情を削ぎ落とした“守るための器”に戻っていた。
「へいへい。お仕事再開だな。……死ぬなよ、慧吾。お前が死んだら、リリカがここにいていいって誰が決めてやるんだ?」
慧吾は答えない。
ただ、その手に握られた長剣が、月光を浴びて静かに、冷たく光った。
スピンオフⅣFin.
※作者より
これは1作目、仲間たちが出会って最初の日の物語です。
まだ何も分からないまま、ただ自分の無力さと向き合っていた頃のリリカ。
仲間たちの背中を見て、はじめて「ここにいていい」と思えた日でもあります。




