第15章 作戦開始:黒い谷へ
風が、朝の薄明を押しのけて流れた。湿った大地の匂いに、遠くから漂う“鉄のにおい”が混じる。
慧吾は目を開け、深く息を吸った。
――動き始める。
街の人々はまだ眠っている。その外縁部で、仲間たちは静かに集合していた。
全員の顔に、迷いはない。
黒い谷。SIGMAの基地が根を張る、闇の穴。
通常の風の道は遮断され、地表には監視機が散在する。正面突破は不可能に近い。
哲平が地図を地面に広げ、言った。
「こっから南に迂回して、崖の陰に沿って進む。“見えない道”だ」
諒介が補足する。
「ただしここは、風が読めない。慧吾の勘が頼りだな」
慧吾は静かに頷く。
「風は……谷の底に吸い込まれている。だからこそ、俺たちは“逆風”を利用できる」
ジャックが煙草を耳にかけ、ニヤッと笑う。
「んじゃ、風任せの旅ってことだな」
「任せるのは風じゃない。判断だ」慧吾は言い返した。
ジャックは肩をすくめる。
「判断もどうせ半分風だろ」
その軽口に、全員の肩が少しだけ緩む。
リリカがそっと慧吾の袖を掴んだ。
「……戻ってきてね。あなたも、あなたの大事な人も、みんなも」
慧吾はその手を包み、短く息をついた。
「戻る。“ひとつも欠けず”に」
リリカは涙をこらえながら笑う。
「……もう、ひとりで背負おうとしないでね」
慧吾の視線が揺れた。ノヴァの眠る部屋を振り返る。
「あの子が……泣かずに済む世界をつくる。それだけだ」
ジャックが後ろから肘で軽く小突いた。
「泣かすつもりなら、まず俺がぶん殴るからな」
「殴られる前にやめておく」慧吾が苦笑する。
諒介が静かに言う。
「慧吾。お前だけが特別じゃない。俺たちも、お前と同じように命張ってる。それを忘れるな」
「……ありがとう」
その感謝は、風に消えず胸に沈んだ。
皆が谷の方へ歩き出した時――小さな足音が追いかけてきた。
「けいご!!」
ノヴァだった。
寝癖のままの髪。裸足でパジャマの裾を踏みそうになりながら駆けてくる。そして、ありったけの力で、慧吾を抱きしめた。
「いっしょに……いきたい……!」
慧吾はその言葉に、胸の奥が熱くなる。
だが、片膝をつきながら言った。
「ノヴァ。これは“戦い”だ。お前は来ちゃいけない」
「でも……」
ノヴァの瞳が潤む。
慧吾はそっと外套の前を開き、胸元を示した。
「ここが痛む時……お前の光も揺れるだろう?」
ノヴァは泣きそうな顔で頷いた。
「うん……」
「だから俺は、戻ってくる。俺が嘘を言ったことがあるか?」
ノヴァはさらにぎゅっと慧吾に抱きつき、小さな声で言った。
「ない……だから、ぼく、ここでいのる……だから……かえってきて……」
慧吾はその頭を優しく抱き返す。
「必ず」
ジャックがこっそり目頭をぬぐう。
「まったくよ……ガキにそんな顔させて出陣なんざ、二度とやんねぇからな」
哲平がニッと笑う。
「んじゃ、行くか。世界を綺麗に」
諒介が頷く。
辰彦が拳を掲げ、「風向きは良し!」と声をあげた。
歩き出す一行。
風は追い風ではなく、“背中を押すように”優しかった。
慧吾は、その風のわずかな震えの奥でノヴァの心の鼓動を感じていた。
(……帰る。必ず、あの光のもとへ)
その決意と共に、彼らは闇の谷へ向かう道を踏みしめた。
ここからが、新しい未来の第一歩だった。




