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透明の心臓  作者: 水瀬 悠里
Ⅳ 優しき虚

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第4章 影が沈む夕暮れ

ソムニウムの空が朱に染まっていく。日中の賑わいが嘘のように、街にはゆっくりと静けさが降りていた。


ノヴァは、リリカの家の前で小さな布を持っていた。昼間、薪を運んで転んだ時についた土を拭こうとしているのだ。


でも――


手が途中で止まる。


(……なんか……いたい)


胸の奥がきゅっと縮まる。


昼間のあたたかさが、夕暮れとともにすべて遠ざかるような気がして。


ノヴァは自分の胸に手を当てた。動悸がするような、“重さ”だけがじわじわと染み込んでくる。


風の音が低く響く。


(こわい……)


その声は、誰にも届いていなかった。


その頃、街外れ。


慧吾は塔のあたりを歩いていた。


「……また静かだ」


風は吹いているはずなのに、風見車だけが妙にゆっくりと、ぎこちなく回っている。


胸の中が小さく跳ねた。


──ドクッ。


(……来る)


その瞬間、膝が沈んだ。外套の下で光が暴れだし、呼吸が浅くなる。


「っ……!」


痛みは昼間とはまるで違う。鋭さではなく、“引きずられるような深さ”が増していた。


塔の方向を振り返る。


(……塔の下で……脈動が動き始めた)


慧吾は歯を食いしばった。


夕暮れが落ちきる前に、街の底に沈んだ影が、ゆっくりと動き出していた。


辰彦が早足で家々を回りながら言っていた。


「窓はしっかり閉めとけ! 風が“低く鳴っておる”日は、ろくなことが起きん!」


哲平は屋根の上で瓦を点検しながら叫ぶ。


「じいちゃん、風の鳴き声なんて誰も気にしねぇよ!」


「気にせんから危ないんじゃ!」


諒介は市場から戻る途中、ふと足を止めた。


(……街路樹の葉が……震えている)


風は吹いていない。でも、葉だけがざわざわと震え続けている。


まるで、根が地下から何かを感じているように。


諒介は眉を寄せた。


「……嫌な揺れ方だ」


その時だった。


地鳴りが、一度だけ、「ドゥン……」と低く響いた。


家のガラスが震え、テーブルの器がカタカタと跳ねた。


ノヴァは飛び上がるほど驚き、そのまましゃがみ込んだ。


「……また……いやだ……」


胸が痛い。涙が勝手に落ちる。


(ひかりが……こわがってる…… ぼくのなかの……ひかり……)


体の奥で、何かがうずく。


その痛みは、慧吾が外で感じているそれと同じ形をしていた。


ノヴァは涙を拭わず、ただ胸を抱いて声を震わせた。


「けいご……どこ……?」


探しても、風は何も教えてくれない。


ただ、また、街のどこかが低く鳴った。


「……こわいよ……」


ノヴァは、昼間みんなに抱きしめてもらった温かさが遠くなるのを、はっきりと感じていた。


街外れ。


慧吾は痛みに膝をついたまま、なかなか立ち上がれなかった。


胸の光が、塔の脈動と完全に同期している。


「……呼ばれている……?」


ただの揺れではない。塔の中心に眠る“核心”が目覚めようとしている。


(……おそらく……ノヴァも、感じている)


慧吾は拳を握りしめた。


「……いやな予感だ……」


その声は、夕日に吸い込まれていった。


その夜、ソムニウムは早々に灯りを落とした。


誰もが胸の奥に違和感を抱えながら眠りにつく。


ノヴァは布団の中で、胸を押さえていた。


慧吾は外で風を読むように立ち尽くしていた。


ジャックは忘れられない戦場の匂いを嗅ぎ取り、煙草を深く吸い込んだ。


諒介は道具を片付けながら、木が発する“変な軋み音”に眉を寄せた。


辰彦と哲平は風に違和感を感じながら、街を一周するように歩いた。


誰もが、言葉にしなかった。


でも――


この夜こそがすべての始まりだったことを、あとで思い知る。


街が微かに震える度、ノヴァの胸も、慧吾の胸も、同じリズムで痛んでいた。


ゆっくりと、確実に。


光と影が交差する夜が、近づいていた。

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