プロローグ
風が止んでいた。
ソムニウムの夜は、いつも風に満ちている。塔の先端をかすめ、街の路地を撫で、誰かの呼吸のように巡る風が――その夜だけは、ひとつも動いていなかった。
慧吾は高台に立っていた。外套は揺れず、灰色の空気の中で重く沈んでいる。
胸の奥が、かすかに疼いた。
(……またか)
鼓動とは違う、遅れて響くような違和。旅の終わりに残る疲労とも、傷の痛みとも違う。まるで――何かを失ったあとに残る、名もない欠片のような感覚だった。
無意識に胸へ手を当てる。その奥で、光の名残が、弱々しく瞬いた。
「……落ち着け」
誰に向けた言葉でもない。だが疼きは消えず、むしろ深く沈んでいく。
遠くで、誰かが呼んでいる気がした。水面の下から、かすかに伝わる声のように。
そのときだった。
ギィ……ギィ……
風見車が、ひとりでに回り始めた。
慧吾は眉を寄せる。風は、ない。空気は、動いていない。
それでも、風見車だけが、規則正しく軋みながら回っている。
「……気まぐれか」
そう呟いた瞬間、胸の疼きが、回転に合わせて強く脈打った。
――共鳴している。
確信に近い感覚が、背を伝う。
やがて、丘の下から足音が響いた。
「慧吾ー!! ちょっと、そこ寒いってば!」
振り返ると、外套を抱えたリリカが駆けてくる。少し離れた場所には、壁にもたれるジャックの姿もあった。
慧吾はゆっくりと丘を降りる。胸の違和は、消えないままだ。
(……これは、前触れだ)
風の止んだ夜。世界のどこかで、小さな命が息をひそめている。
慧吾の胸は、まだ知らぬその存在に――確かに呼ばれていた。
──風が、泣く夜が始まる。




