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透明の心臓  作者: 水瀬 悠里
Ⅳ 優しき虚
31/38

プロローグ

風が止んでいた。


ソムニウムの夜は、いつも風に満ちている。塔の先端をかすめ、街の路地を撫で、誰かの呼吸のように巡る風が――その夜だけは、ひとつも動いていなかった。


慧吾は高台に立っていた。外套は揺れず、灰色の空気の中で重く沈んでいる。


胸の奥が、かすかに疼いた。


(……またか)


鼓動とは違う、遅れて響くような違和。旅の終わりに残る疲労とも、傷の痛みとも違う。まるで――何かを失ったあとに残る、名もない欠片のような感覚だった。


無意識に胸へ手を当てる。その奥で、光の名残が、弱々しく瞬いた。


「……落ち着け」


誰に向けた言葉でもない。だが疼きは消えず、むしろ深く沈んでいく。


遠くで、誰かが呼んでいる気がした。水面の下から、かすかに伝わる声のように。


そのときだった。


ギィ……ギィ……


風見車が、ひとりでに回り始めた。


慧吾は眉を寄せる。風は、ない。空気は、動いていない。


それでも、風見車だけが、規則正しく軋みながら回っている。


「……気まぐれか」


そう呟いた瞬間、胸の疼きが、回転に合わせて強く脈打った。


――共鳴している。


確信に近い感覚が、背を伝う。


やがて、丘の下から足音が響いた。


「慧吾ー!! ちょっと、そこ寒いってば!」


振り返ると、外套を抱えたリリカが駆けてくる。少し離れた場所には、壁にもたれるジャックの姿もあった。


慧吾はゆっくりと丘を降りる。胸の違和は、消えないままだ。


(……これは、前触れだ)


風の止んだ夜。世界のどこかで、小さな命が息をひそめている。


慧吾の胸は、まだ知らぬその存在に――確かに呼ばれていた。


──風が、泣く夜が始まる。



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