第37話:悪女の演説
その瞬間、峡谷を支配していたのは、耳鳴りがするほどの静寂だった。
橋の中央、国境線の真上に鎮座する黒鉄の怪物『夜明け号』。
その頂に、私は立っていた。
足元は不安定な円筒形のボイラーの上。
熱気が靴底を通して伝わってくる。
風が強く吹き荒れ、ボロボロになった深紅のドレスを旗のようにたなびかせていた。
私の姿は、決して美しくはなかったはずだ。
自慢の金髪は煤と油で汚れ、肌は荒れ、ドレスの裾は焦げて短くなり、白い脚が露わになっている。
帝都の舞踏会なら、悲鳴を上げて追い出されるような姿。
けれど。
下から私を見上げる数千の兵士たちの目は、釘付けになっていた。
まるで、戦場に降り立った女神――あるいは、破壊の魔女を見るような畏怖と陶酔の眼差しで。
「……聞こえるか、帝国の諸君! そしてリベールの諸君!」
私はメガホンを構え、腹の底から声を張り上げた。
オペラの歌姫のように。演説する政治家のように。
峡谷の反響を利用し、その声は両岸の陣地まで朗々と響き渡った。
「私はエリザベート・フォン・アルニム!
この『グレンデル大鉄橋』建設プロジェクトの総責任者である!」
名乗った瞬間、ざわめきが広がった。
「あの悪女か」「死んだはずじゃなかったのか」
そんな囁きが聞こえてくる。
私は構わずに続けた。
「貴方がたは今、引き金に指をかけている!
この橋を、そして私たちを鉄屑に変えようとしている!
……ええ、撃ちたければ撃ちなさい! 我々は逃げも隠れもしない!」
私は両手を広げ、無防備な姿を晒した。
挑発だ。
その度胸に、兵士たちが息を呑む。
左岸の帝国軍陣地から、ゲルハルト将軍の怒号が響いた。
「黙れ! 黙れ売国奴が!
貴様は脱獄囚だ! そこで野垂れ死ぬのがお似合いだ!
総員、撃て! あの女ごと機関車を吹き飛ばせ!」
将軍の声は震えていた。焦りが見える。
彼は気づいているのだ。この状況が、自分の制御を離れつつあることに。
兵士たちが躊躇いながらも銃を構え直す。
砲兵が大砲の角度を調整する。
死の予感が、肌を刺す。
クロードが、足元で私を見上げている。
彼は何も言わない。ただ、いつでも私を庇えるように身構えている。
大丈夫。
ここからが、私の独壇場だ。
「お待ちなさい!!」
私は裂帛の気合いで叫んだ。
その声の鋭さに、兵士たちの指が止まる。
「撃つ前に、一つだけ教えて差し上げるわ。
……貴方がたが破壊しようとしているこの橋が、今、『誰のもの』なのかを!」
私は懐から、一通の書類を取り出した。
ニューポートでの商談でモルガン氏と交わした契約書の写し。
そして、昨夜の隠れ家でガストンが届けてくれた、発動を知らせる電報だ。
私はそれを高々と掲げた。
「この橋の所有権は、もはや帝国にも、リベール共和国にもない!
数日前、ゲルハルト将軍が私を不当に拘束し、現場を制圧したその瞬間……契約書の『第15条』が発動した!」
私は一呼吸置き、世界に宣言した。
「現在の所有権および担保権は、全て中立機関である『世界銀行連盟』へと譲渡されている!!」
その名が出た瞬間、戦場の空気が凍りついた。
兵士たちはピンと来ていないかもしれない。だが、将校クラスの顔色は一瞬で蒼白になった。
世界銀行連盟。
大陸中の中立国、そして列強諸国の銀行が加盟する、巨大な金融組織。
帝国の戦費も、リベールの軍事予算も、元を辿れば彼らからの融資で成り立っている。
いわば、この戦争の「スポンサー」だ。
「理解できたかしら?
この橋は今や、国際的な『金融資産』そのものなのよ!」
私は書類を振りかざし、将軍を指差した。
「ゲルハルト将軍! 貴方は今、国際銀行団の担保物件に大砲を向けた!
もし傷一つでもつければ、それは条約違反どころの話ではない!
世界中の銀行に対する、宣戦布告とみなされるわ!」
「な、なんだと……!? 馬鹿な、そんな契約……!」
将軍がよろめいた。
暴力しか知らない彼にも、金の怖さはわかるはずだ。
「罠だ……! 最初から、このつもりで……!」
「ええ、そうよ。貴方が暴走することを見越して、最初から仕込んでおいた『毒』よ」
私は冷酷に告げた。
「貴国がこの橋を破壊した瞬間、世界銀行連盟は帝国の国債を暴落させるでしょう!
融資は停止され、為替は崩壊し、貴国は一夜にして破産する!
弾薬も、燃料も、兵士の給料さえ払えなくなる!」
私は電報をひらつかせた。
「ここには銀行団の承認印があるわ。
……さあ、撃ちなさい!
その一発が、貴方の国を滅ぼす『引き金』になるのよ!」
これが、悪女の戦い方だ。
血を流さず、剣も振るわず、相手の喉元にナイフを突きつける。
「金」と「信用」という、現代における最強の兵器を使って。
帝国軍の陣地に動揺が走った。
参謀たちが青ざめて将軍に駆け寄る。
「閣下! マズいです!」「本国に確認を!」
大砲の筒先が、迷うように揺れ始める。
私は視線を転じ、対岸のリベール軍にも声をかけた。
「リベールの諸君も同じよ!
貴国の英雄モルガン氏も、この計画の承認者だ。
ここを撃てば、貴方がたは自国の経済界を敵に回すことになる!」
リベール軍の指揮官が、苦虫を噛み潰したような顔で手を下ろさせるのが見えた。
彼らもまた、スポンサーには逆らえない。
勝った。
私の舌先三寸と、一枚の紙切れが、数千の軍隊を止めたのだ。
だが、まだ終わらない。
相手を引かせるだけでは不十分だ。
この橋を、誰にも手出しできない「聖域」として確定させなければならない。
私はメガホンを下ろし、足元のクロードに手を差し伸べた。
「……おいで、クロード」
彼は驚いたように私を見上げたが、すぐにニヤリと笑い、梯子を登ってきた。
私の隣に立つ。
煤だらけの二人が、世界の中心で並び立つ。
「……いい演説だったぜ、サギ師のお嬢様」
「失礼ね。優秀な交渉人と言って」
私たちは顔を見合わせて笑った。
そして、再び両軍に向き直る。
「聞け!!」
今度は、クロードが叫んだ。
メガホンなど使わない。地声だ。
現場で鍛え上げた、腹の底からの咆哮。
「この橋は、金のためのもんじゃねえ! 戦争のためのもんでもねえ!
俺たちが! 泥水を啜って! 命を削って架けた、俺たちの橋だ!」
彼は拳を突き上げた。
「帝国だのリベールだの、そんなちっぽけな境界線は、この橋の上じゃ無意味だ!
ここは、人が渡るための道だ!
未来へ続く、一本のレールだ!」
その言葉に、現場の作業員たちが呼応した。
炭水車の上で、ハンズが、ガストンが、武器を掲げて叫ぶ。
「そうだ! 俺たちの橋だ!」
「誰にも壊させねえぞ!」
その熱気は、対峙する兵士たちにも伝染していった。
彼らもまた、一人の人間だ。
圧倒的な質量を持つ橋と、それを守ろうとする人間たちの「熱」に、圧倒されていた。
銃口が、一つ、また一つと下ろされていく。
私はクロードの手を取った。
泥だらけで、ゴツゴツとした、世界一温かい手。
「仕上げよ、クロード」
「ああ」
私たちは、数千の視線が見守る中、ゆっくりと向き合った。
そして。
国境線の真上で、固く、強く、握手を交わした。
「……条約第1条。『両国の代表者が橋上で握手を交わした時、本プロジェクトは完了とする』」
私が静かに宣言する。
「只今をもって、グレンデル大鉄橋は『完成』した!
これより本橋は、国際法によって保護される、中立かつ恒久的な平和の礎となる!」
高らかな勝利宣言。
それは、戦争を終わらせるための儀式だった。
その時。
雲の切れ間から、朝日が差し込んだ。
黄金色の光が、機関車と、私たち二人をスポットライトのように照らし出す。
ボロボロの深紅のドレスが、宝石のように輝く。
煤だらけの顔が、誇らしく照らされる。
神々しいまでの光景に、兵士たちは言葉を失っていた。
もう、誰も引き金を引こうとはしなかった。
そこにあるのは、敵意ではなく、歴史の証人となったことへの畏敬の念だけだった。
風が吹き抜ける。
鉄と油と、朝の光の匂い。
私は握った手に力を込めた。
クロードが、力強く握り返してくる。
私たちの体温が、繋がった橋を通して、世界へと広がっていく気がした。
私たちは勝ったのだ。
武器も、軍隊も、国境さえも超えて。
たった二人の「共犯者」が、世界を変えたのだ。




