第38話:沈黙と喝采
私の勝利宣言が、峡谷の風に乗って消えた後。
世界は、凍りついたような静寂に包まれていた。
銃口は下がっていた。
橋の中央で手を繋ぐ私たちを見上げる兵士たちの目から、殺気が消えていく。代わりに宿るのは、困惑と、そして畏敬の念だ。
彼らは理解し始めていた。
目の前にあるのは、破壊すべき敵の兵器ではなく、自分たちが命を賭して守るべき平和の象徴なのだと。
黒鉄の機関車と、傷だらけの男女。その姿があまりにも堂々としていて、引き金を引くことさえ冒涜に思えるほどの圧倒的な存在感を放っていた。
だが。
ただ一人、その現実を受け入れられない男がいた。
「……ふざけるな」
左岸の帝国軍陣地から、地獄の底から響くような怨嗟の声が漏れ出した。
ゲルハルト将軍だ。
彼は顔を茹で上がった蛸のように真っ赤にし、全身を小刻みに震わせていた。握りしめた軍刀の柄がミシミシと音を立てる。
「ふざけるなァァァッ!!
国際法だと!? 銀行だと!?
そんな紙切れ一枚で、この私が止まると思っているのか!」
彼は狂乱したように叫び、近くにいた砲兵を軍靴で蹴り飛ばした。
「撃て! 何をしている!
あの女を黙らせろ! 橋ごと木っ端微塵にしてしまえ!
これは命令だ! 命令違反は銃殺刑だぞ!」
砲兵たちが怯えたように顔を見合わせる。
砲弾は装填されている。照準も合っている。紐を引くだけで、橋は崩れ落ちるだろう。
だが、誰も動かない。動けないのだ。
彼らもまた、故郷に家族を持つ人間だ。国の経済が破綻し、家族が路頭に迷うリスクを冒してまで、狂った上官の命令に従う義理はない。何より、目の前の光景が持つ「正しさ」に、本能が屈服していた。
「ええい、腰抜け共め! ならば私がやる!」
ゲルハルトは砲兵を乱暴に押しのけ、自ら野砲の閉鎖機に手をかけた。
脂ぎった手が震えている。
照準は、橋の中央。
私とクロードに、真っ直ぐに向けられている。
私は動かなかった。
クロードの手を握ったまま、眉一つ動かさずに彼を見下ろした。
哀れだと思った。
かつては権力を欲しいままにし、私を虫けらのように踏み躙ろうとした男が、今はたった一人で、時代の流れに抗おうとしている。
その姿は、あまりにも小さく、滑稽だった。
「……終わりね、将軍」
私が静かに呟いた、その時だった。
「閣下! お待ちくださいッ!!」
通信兵が、転がるようにして司令部テントから飛び出してきた。
ヘッドセットをずり落とし、その手には震える一枚の電報が握られている。
顔面は蒼白で、まるで幽霊でも見たかのようだ。
「ほん……本国参謀本部、および財務省より、緊急入電です!! 至急!!」
将軍の手が、撃発紐にかかったまま止まる。
「うるさい! 後にしろ! 今、この反逆者を……」
「できません! 『直ちに戦闘行為を停止せよ』との厳命です!
繰り返します、『直ちに停止せよ』!
現在時刻をもって、世界銀行連盟により我が国の海外資産が凍結されました!」
その報告は、大砲の轟音よりも大きく、鋭く、戦場に響き渡った。
空気が凍る。
「資産凍結……!?」
将軍の声が裏返る。
「は、はい!
さらに、『これ以上の敵対行為が確認された場合、帝国国債の格付けをジャンク級に引き下げ、全ての融資を打ち切る』との通告が……!
こ、これ以上撃てば、帝国は今日中に破産します!! 為替市場では既にリブルが大暴落しています!」
通信兵の悲鳴のような叫び。
それが、ゲルハルト将軍への死刑宣告だった。
彼は軍人だ。暴力のプロだ。
だが、現代の戦争が金で動いていることくらいは理解している。
弾薬も、燃料も、兵士の給料も、すべて金だ。その蛇口を締められれば、軍隊などただの烏合の衆と化す。
カラン……。
将軍の手から、野砲の撃発紐が滑り落ち、乾いた音を立てて石畳に転がった。
彼はよろめき、膝から崩れ落ちた。
物理的な弾丸ではない。
エリザベート・フォン・アルニムという悪女が仕掛けた「金」という逃れようのない現実の重みが、彼の軍人としての生命を、プライドを、そして未来を、無慈悲に圧し潰したのだ。
「……馬鹿な。
たかが橋一本に……たかが小娘一人のために……。
国家が……軍が、屈すると言うのか……」
彼は虚ろな目で私を見上げた。
そこにはもう、かつての傲慢な光も、嗜虐的な色もなかった。
あるのは、時代に取り残され、自分の理解できない力によって敗北した老人の、底なしの絶望だけ。
私は彼に向かって、静かに一礼した。
勝者の余裕ではない。敗者への最低限の礼儀として。
さようなら。
貴方の時代は、ここで終わりよ。
それを見た対岸のリベール軍も、潮が引くように銃を下ろし始めた。
彼らの元にも、同様の通達が届いたのだろう。あるいは、モルガン氏からの直接の圧力か。
リベール軍の指揮官が、機関車の上の私たちに向けて敬礼をし、撤退の合図を送るのが見えた。
エンジン音が響き、装甲車が反転していく。
兵士たちが整列し、去っていく。
戦場から、殺気が、火薬の匂いが、急速に消えていく。
残されたのは、橋の上の私たちと、機関車の周りに集まってきた作業員たちだけ。
そして、朝の冷たく澄んだ空気だけ。
……。
…………。
誰かが、小さく手を叩いた。
パチ、パチ、パチ。
それは、炭水車に乗っていたハンズだった。
彼は煤だらけの顔で、涙を流しながら拍手をしていた。
生きていることへの、そして成し遂げたことへの、言葉にならない賞賛。
それが合図だった。
「うおおおおおおおおおっ!!!」
爆発。
歓声の爆発だ。
ハンズが、ガストンが、そして機関車の周りに集まってきた全ての作業員たちが、帽子を投げ上げ、抱き合い、叫んでいた。
帝国人も共和国人も関係ない。
彼らは肩を組み、泥だらけの服を擦り付け合いながら、子供のように飛び跳ねている。
「勝ったぞぉぉぉ!」
「見たか! 俺たちの橋だ!」
「ボス万歳! 主任万歳! 夜明け号万歳!」
彼らは武器を捨てた。
ツルハシやレンチを高く掲げ、踊っている。
生き残った喜び。
不可能な仕事を成し遂げた誇り。
それが奔流となって、峡谷を満たしていく。
その声は、どの大砲の音よりも力強く、私の心に響いた。
その時。
東の稜線から、太陽が顔を出した。
雲の切れ間から差し込んだ光の矢が、戦場の硝煙を払い、世界を鮮やかに塗り替えていく。
光が、橋を射抜いた。
黒鉄の機関車『夜明け号』が、黄金色に輝き始める。
傷だらけの装甲板も、ひしゃげた排障器も、弾痕だらけの車体も。
すべてが、歴戦の勇者の勲章のように、神々しく光り輝く。
そして、その上に立つ私たちも。
私のボロボロになった深紅のドレスが、朝焼けの色に溶け込み、まるで炎のように揺らめく。
クロードの煤だらけのシャツが、黄金の鎧に見える。
お互いの顔についた汚れさえも、今は誇らしい化粧のようだ。
「……綺麗だ」
クロードが呟いた。
彼は私を見ていなかった。
彼が見ていたのは、黄金色に輝く橋と、その下で歓喜に沸く仲間たちの姿。
そして、その向こうに広がる、どこまでも続く青い空。
彼の瞳に、朝日の色が映っている。
その瞳は、いつもの不機嫌そうな色ではなく、澄み切った琥珀色に輝いていた。
彼は成し遂げたのだ。
復讐のためではなく、未来のために。
亡き父との約束を果たし、そして新しい約束を守り抜いたのだ。
「ああ。……本当に」
私もまた、その景色を目に焼き付けた。
美しい。
これが、私たちが命がけで守ったもの。
私たちが作った、未来の形。
帝国の貴族として見たどんな宝石よりも、どんな舞踏会のシャンデリアよりも。
今のこの、鉄と汗と涙でできた光景の方が、遥かに美しく、価値があると思えた。
私の全財産を投げ打ってでも、買う価値のある景色だった。
風が吹いた。
もう、血の匂いはしない。
新しい時代の、希望の匂いがした。
峡谷を吹き抜ける風が、私たちの火照った頬を優しく撫でていく。
「……終わったな」
クロードが、ふっと息を吐いた。
肩の力が抜け、憑き物が落ちたような顔をしている。
「ええ。……終わったわ」
私たちは、繋いでいた手の力を、ゆっくりと抜いた。
でも、離しはしなかった。
指を絡ませ、互いの体温を確かめ合うように、より深く結び直す。
掌にある豆の感触。熱い血の巡り。
生きている。
私たちは二人で、ここ立っている。
下からは、鳴り止まない喝采。
上からは、降り注ぐ黄金の光。
私たちはその中心で、ただ二人、静かに微笑み合った。
言葉はいらなかった。
この温もりがあれば、それだけで十分だった。
世界が変わる音がした。
それは汽笛のような、あるいは産声のような。
新しい一日の始まりを告げる音だった。




