第36話:国境線の急停車
ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン。
規則的なジョイント音が戻ってきた。
それは、私たちがまだ生きているという証であり、鉄の馬が大地を蹴っているという勝利の凱歌だった。
空を飛んだ衝撃で散乱した石炭の山から、私は這い出した。
体中が痛い。あちこちぶつけたせいで青あざだらけだろう。
でも、不思議と笑いが込み上げてくるのを止められなかった。
「……飛んだわね」
「ああ。飛びやがった」
クロードがハンドルに額を押し付けながら、震える声で言った。
彼は顔を上げ、私を見た。
その顔は煤と血で汚れていたが、目は少年のような興奮で輝いていた。
「見たか、エリザベート! あの浮遊感!
物理法則が俺たちに屈した瞬間を!」
「ええ、見たわ。……二度と御免だけどね」
私は強がって見せたが、膝がガクガクと笑っているのは隠せなかった。
後ろの炭水車からは、ハンズたちの歓声が聞こえてくる。
「生きてるぞー!」「俺たちは不死身だ!」
極限状態を生き延びた興奮が、彼らを半ば狂乱状態にさせているようだ。
機関車『夜明け号』は、傷だらけになりながらも、速度を緩めることなく爆走を続けている。
断絶を越えた先は、リベール共和国側の領土だ。
前方には、リベール軍の陣地が見えてくる。
彼らは砲撃を止めていた。
いや、目の前で起きた「空飛ぶ機関車」という理外の現象に、引き金を引く指が凍りついているのだ。
「……さて」
クロードが息を整え、前方を睨み据えた。
「ショウタイムはまだ終わっちゃいねえ。
ここからが、本当の『見せ場』だ」
彼はブレーキレバーに手をかけた。
このまま突っ走って、リベール軍の包囲網を突破することもできる。
そうすれば、私たちは亡命者として保護されるかもしれない。
でも、それでは「勝ち」ではない。
ただの逃亡だ。
私たちが目指すのは、逃げ場所ではない。
この橋の上こそが、私たちの居場所なのだと証明すること。
「……場所は?」
「決まってる。
橋のド真ん中。……帝国と共和国の、ちょうど境目だ」
彼はニヤリと笑った。
「一番目立つ場所で、一番派手に止まってやる。
……準備はいいか、相棒?」
「ええ。……いつでもどうぞ」
私は手すりを強く握り直した。
衝撃に備える。
「止めるぞオオオオオッ!!」
クロードが全身の体重をかけて、ブレーキレバーを引き絞った。
同時に、逆転機を全開にする。
キィィィィィィィィィン!!!!
鼓膜を引き裂くような、凄まじい金属音が峡谷に響き渡った。
ブレーキシューが車輪を締め上げ、摩擦熱で真っ赤に焼ける。
車輪とレールの間から、花火のような火花が激しく噴き出した。
ガガガガガッ!
車体が激しく振動する。
慣性の法則が、「止まりたくない」と悲鳴を上げているようだ。
数百トンの質量が、前へ前へとつんのめる。
「うぐっ……!」
私は放り出されそうになる体を、必死に支えた。
景色が流れる速度が、少しずつ、しかし確実に遅くなっていく。
前方、リベール軍の兵士たちが、火花を撒き散らして迫りくる鉄塊を見て、悲鳴を上げて逃げ惑うのが見えた。
轢かれると思ったのだろう。
だが、クロードの計算は完璧だった。
キキキーッ……!
断末魔のような音と共に、機関車はスライドするように滑り――。
橋の中央。
欄干に埋め込まれた、国境を示す小さな石碑の真横で。
ズンッ。
最後に大きく沈み込み、完全に停止した。
プシュウウウウウゥゥゥゥ……!
安全弁から、余った蒸気が一気に噴き出す。
真っ白な蒸気が機関車を包み込み、まるで雲の上に降り立った竜のように見せた。
静寂。
完全なる静寂が訪れた。
風の音さえ消えたようだった。
峡谷を挟んで対峙していた数千の兵士たちが、息を呑んでその光景を見つめていた。
戦場のど真ん中。
誰もが通ることを許されなかった「死の領域」に、場違いなほど巨大で、傷だらけの機関車が鎮座している。
その圧倒的な存在感に、大砲も、ライフルも、意味を失っていた。
「……止まったな」
運転席の中で、クロードがハンドルから手を離した。
彼の手は痙攣していた。
極限の集中力と筋力を使い果たしたのだ。
「……ええ。完璧な停車位置よ」
私は窓から下を覗いた。
前輪の位置は、国境線からわずか数センチの誤差。
神業だ。
「……ふう」
クロードが座席に崩れ落ちるように座り込み、天井を仰いだ。
「生きてるか? みんな」
彼が後ろの小窓を叩くと、炭水車からハンズが顔を出した。
煤で真っ黒な顔に、涙の跡がついている。
「い、生きてます……! 主任、あんたマジでどうかしてますよ……!」
「褒め言葉として受け取っておく。……怪我人は?」
「擦り傷と打撲だけです! 奇跡だ!」
奇跡。
そうかもしれない。
でも、これは偶然の産物ではない。
私たちが積み上げてきた技術と、信頼と、そして意地の結晶だ。
「……さて」
私は立ち上がり、乱れた髪を手櫛で整えた。
ドレスはボロボロに破れ、あちこち焦げている。顔も手も真っ黒だ。
帝都の令嬢が見たら失神するような姿だろう。
でも、鏡を見るまでもなくわかる。
今の私は、人生で一番いい顔をしているはずだ。
「行きましょう、クロード。
観客がお待ち兼ねよ」
私は彼に手を差し出した。
クロードはニヤリと笑い、その手を取った。
「ああ。……エスコートしてやるよ、女王陛下」
彼は力を込めて立ち上がり、運転席の重い鉄扉を蹴り開けた。
キィィ……。
扉が開く音が、静寂に響く。
眩しいほどの朝日が、車内に射し込んできた。
雨上がりの澄んだ空気が、火薬と油の匂いを洗い流していく。
私たちは並んで、機関車のサイドステップへと出た。
視線を感じる。
右岸のリベール軍。左岸の帝国軍。
双眼鏡を覗く指揮官たち。銃を下ろして呆然とする兵士たち。
すべての視線が、橋の中央に立つ私たちに注がれている。
風が吹いた。
私のボロボロのスカートと、クロードの汚れたシャツをはためかせる。
私は一歩前に出た。
機関車の屋根へと続く梯子に足をかける。
「……登るのか?」
「ええ。一番高いところじゃなきゃ、声が届かないもの」
私は梯子を登り、機関車の頂上――ボイラーの上に立った。
高い。
足元には熱い鉄の塊。
目の前には、広大な峡谷と、ちっぽけな軍隊たち。
クロードも私の隣に並び立つ。
彼が懐から取り出したのは、現場で指示出しに使っていたメガホンだった。
「……使いな。俺より、お前の声の方が通る」
彼はメガホンを私に手渡した。
私はそれを受け取り、深く息を吸い込んだ。
冷たい空気が肺を満たす。
震えは止まっていた。
背中の痛みも、今は感じない。
あるのは、燃えるような使命感だけ。
私はメガホンを口に当て、両軍に向けて構えた。
かつて社交界で鍛えた、オペラ歌手にも負けない発声法で。
さあ、仕上げだ。
このふざけた戦争ごっこを、私たちの「商談」で終わらせてやる。
私はクロードと視線を交わし、そして世界に向けて口を開いた。




