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鉄の線路は国境を越えて ~売国奴と蔑まれた令嬢は、敵国の天才技師と未来への架け橋を築く~  作者: ぱるめりあ
第4章:夜明けの汽笛

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第35話:空を飛ぶ鉄馬

 世界から、全ての音が消え失せた。


 ゴオオオオッという車輪の轟音も、砲弾の炸裂音も、レールの軋みも。

 全てが遠のき、真空の中に放り出されたような、絶対的な静寂が訪れた。


 フワリ、という浮遊感。

 数百トンの鉄塊であるはずの『夜明け号』が、まるで羽根のように軽くなった錯覚。

 私の体も、座席からわずかに浮き上がる。

 スリット窓の外を見ると、そこにはレールも枕木もなかった。

 あるのは、遥か百メートル下に口を開けた「竜の顎」の激流と、白く煙る霧だけ。


 飛んでいる。

 私たちは今、本当に空を飛んでいるのだ。


 スローモーションのように引き伸ばされた時間の中で、私は隣を見た。

 クロードが、ハンドルを握りしめたまま、前を見据えている。

 その横顔は、彫刻のように美しく、そして猛々しかった。

 彼は瞬き一つしていなかった。

 ただ一点、運命の着地点だけを睨みつけている。


「……行くぞ」


 彼が口を動かしたのが見えた。声は聞こえない。

 でも、彼の魂の咆哮が、私の心臓を直接震わせた。


 恐怖はなかった。

 不思議なほど、心は凪いでいた。

 走馬灯のように、これまでの日々が脳裏をよぎる。

 最悪の出会い。泥まみれの握手。深夜の設計室での密会。そして、病室での誓い。

 すべてが、この瞬間のためにあったのだと思えた。


 人間が鉄の馬に乗って空を飛ぶなんて、神話の中だけの話だと思っていた。

 でも、私たちはやっている。

 悪女と天才技師の狂気が、物理法則をねじ伏せたのだ。


 永遠にも思える0.1秒が過ぎ――。

 世界に、暴力的な音が戻ってきた。


 ズドォォォォォンッ!!!


 着地。

 いや、それは「激突」と呼ぶべき衝撃だった。


 機関車の前輪が、対岸のレールに叩きつけられる。

 全身の骨がバラバラになるかと思うほどのGがかかる。

 脳が揺れる。内臓が潰れそうだ。

 視界が明滅し、火花が視神経を焼く。


 ガギィィィィン!! ギョワアアアアッ!!


 鉄と鉄が噛み合い、悲鳴を上げる音。

 車体が大きく跳ね上がる。

 計算通り、対岸のレールは手前よりも低かった。その数十センチの段差のおかげで、機関車は「落ちる」のではなく「滑り込む」形で着地できたのだ。


 だが、衝撃は殺しきれない。

 サスペンションが悲鳴を上げ、車軸がきしむ。

 機関車は着地の反動で、大きく左に傾いた。


「ぐあっ……!」

「きゃああっ!」


 私は床に叩きつけられ、計器の破片を浴びた。

 配管が裂け、熱い蒸気が吹き出し、視界を白く染める。

 傾きが止まらない。

 右側の車輪が完全に浮いている。脱線する!


「戻れぇぇぇぇッ!!」


 クロードが絶叫した。

 彼は傾く車体にしがみつきながら、逆方向へ全体重をかけた。

 そんなことで数百トンの傾きが直るわけがない。

 物理的には無意味だ。

 でも、彼の気迫が、鉄の馬の手綱を強引に引き戻そうとしていた。


 その時、背後から怒号が聞こえた。


「右だ! 全員、右に乗れぇぇぇ!」


 ハンズの声だ。

 炭水車に乗っていた作業員たちが、一斉に動いた。

 彼らは命綱もなしに、傾いた車体の高い方――浮き上がった右側へと駆け上がり、身を乗り出したのだ。

 十数人の男たちの体重。

 それは機関車の重量に比べれば微々たるものだ。

 だが、その「意志」の重さが、天秤を動かした。


 ドスンッ!


 浮き上がった車輪が、奇跡的にレールの上に戻った。

 凄まじい振動と共に、車体が水平を取り戻す。


「……耐えた!」


 クロードが叫ぶ。

 だが、まだ終わらない。車体は蛇行している。

 着地の衝撃でレールが歪んだのか、左右に激しく振られ、枕木を削りながら暴走を続けている。


「止まるな! 止まったら倒れるぞ!」


 クロードが叫ぶ。

 自転車と同じだ。速度があるからこそ、ジャイロ効果でバランスを保てる。

 ここで減速すれば、横転して終わりだ。


 私は這いつくばったまま、釜の方を見た。

 衝撃で扉が開き、燃える石炭が床に散乱している。

 運転席が火の海になりかけている。私のドレスの裾にも火がついた。


「……熱っ!」


 私は悲鳴を上げそうになるのを堪え、手近にあったジャケットで火を叩いた。

 手の皮が焼ける。でも、ここで火事になれば元も子もない。

 必死に火の粉を払い、散らばった石炭をスコップでかき集め、再び釜の中へと放り込む。


「まだ走るのよ! 止まるんじゃないわよ!」


 私は機関車を蹴飛ばした。

 燃料をくれ。もっと熱をくれ。

 この鉄の心臓が止まれば、私たちの心臓も止まるのだから。


「エリザベート! 無事か!」

「平気よ! ……貴方は前を見て! 運転に集中して!」


 私は煤だらけの顔を上げて叫んだ。

 クロードがニカっと笑うのが見えた。

 額から血が流れている。着地の衝撃でどこかを切ったのだろう。

 血と油と煤で汚れたその顔は、悪魔のように恐ろしく、そして天使のように美しかった。


「へっ、さすが俺の女だ!」


 彼は再び前を向き、暴れる機関車をねじ伏せにかかった。


 機関車は火花を撒き散らしながら、対岸の陣地へと突っ込んでいく。

 目の前には、リベール共和国軍のバリケードが見える。

 彼らは砲撃の手を止めていた。

 いや、撃つのを忘れていたのだろう。

 目の前で起きた「空飛ぶ機関車」という出鱈目な光景に、呆気にとられ、口を開けて見上げている。


 その隙を、私たちは逃さない。


「どけぇぇぇぇッ!」


 クロードが汽笛を鳴らす。

 ポーッ!!


 我に返った兵士たちが、悲鳴を上げて左右に逃げ惑う。

 機関車はバリケードの土嚢を跳ね飛ばし、鉄条網を引きちぎりながら突き進む。

 障害物が排障器に当たるたび、ドゴン、バキッという音が響くが、今の『夜明け号』にとってはどうでもいい小石のようなものだ。


「撃て! 撃て!」


 指揮官らしき男が叫ぶが、兵士たちはパニック状態でまともに狙いを定められない。

 散発的な銃弾が装甲板を叩くが、中までは届かない。


「抜けたぞ!」


 ハンズの声が聞こえる。

 背後を見ると、炭水車に乗っていた作業員たちも、何人かは振り落とされそうになりながらも、必死にしがみついて無事だった。

 彼らは狂ったように叫び、拳を突き上げている。


「やったぞ! 飛びやがった!」

「見たかコラァ! これがグレンデルの職人技だ!」


 私たちは死の淵を飛び越えたのだ。

 運命というレールさえも、力づくで繋げてみせたのだ。


 機関車は安定を取り戻し、滑るように走り始めた。

 速度は落ちていない。

 風が心地よい。

 装甲の隙間から差し込む朝日が、キラキラと車内を照らしている。


「……やったわね」


 私はへたり込みそうになる足を叱咤して立ち上がり、クロードの肩に手を置いた。

 彼の肩は、小刻みに震えていた。

 武者震いか、それとも恐怖の反動か。


「ああ。……寿命が十年縮んだ気分だ」


 彼は深く息を吐き、私を見た。

 その瞳には、安堵と、成し遂げた者特有の静かな誇りが宿っていた。


「だが、まだ終わりじゃねえ」

「ええ。わかっているわ」


 私たちはまだ、走り続けている。

 橋の上を。戦場の真ん中を。

 この暴走を終わらせるには、最高のフィナーレが必要だ。


 前方には、橋の終わりが見え始めている。

 このまま突っ切ってリベールの街へ逃げ込むこともできる。

 そうすれば、命は助かる。

 でも、私たちの目的は「逃走」ではない。

 「決着」だ。


 クロードが私の目を見て、不敵に笑った。

 私も微笑み返す。

 言葉にしなくてもわかる。

 私たちが止まるべき場所は、ただ一つ。


 鉄の馬は、まだ止まらない。

 最後のカーテンコールに向けて、私たちは光の中を疾走し続けた。

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