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鉄の線路は国境を越えて ~売国奴と蔑まれた令嬢は、敵国の天才技師と未来への架け橋を築く~  作者: ぱるめりあ
第4章:夜明けの汽笛

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第29話:幽閉の塔

 石造りの床から、冷気が足首を掴むように這い上がってくる。

 そこは、世界から切り離された鳥籠だった。


 私が収監されたのは、グレンデルの街外れに建つ古びた監視塔の最上階だった。

 かつては国境警備のための要塞だった場所らしく、壁は分厚い花崗岩でできており、扉は重厚な鉄製だ。窓には錆びついた、しかし絶望的に頑丈な鉄格子が嵌められている。


「……趣味が悪いわね」


 私は鉄格子を掴み、ガタガタと揺らしてみた。びくともしない。

 囚人服に着替えさせられるという屈辱は免れたものの、泥と血で汚れた深紅のドレスのまま、暖房もない石室に放り込まれて三日が過ぎていた。


 食事は一日二回。カビの生えたパンと、水のようなスープ。

 看守は無言で、私が何を問いかけても答えない。

 完全に、情報が遮断されていた。


 だが、窓からの景色だけが、今の私に残された唯一の情報源であり、そして最大の希望だった。


 鉄格子の向こう。

 眼下には、「竜の顎」の峡谷が広がっている。

 そして、そこには私たちが命を削って作り上げた「橋」があった。


 あと少しで両岸が繋がろうとしている、巨大な鉄のアーチ。

 しかし今、その姿は無惨だった。

 橋脚の周囲には、帝国軍のバリケードが築かれている。対岸のリベール側にも、共和国軍の陣地が見える。無数の銃口と、大砲の筒先が、あの美しい橋に向けられているのだ。


「……あの子は、人質ね」


 私は唇を噛んだ。

 帝国軍にとって、あの橋は「侵攻ルート」であり、同時に共和国軍が攻めてきた際の「自爆スイッチ」でもある。敵に渡すくらいなら爆破する。そういう計算だ。

 どちらが先に引き金を引くか。その緊張の糸の上で、橋は震えているように見えた。


 でも、おかしい。


 私は目を凝らした。

 夜だというのに、現場には煌々と灯りがついている。

 投光器の光の中、作業員たちが蟻のように動き回っているのが見えた。

 クレーンが動き、火花が散っている。


「……動いている?」


 将軍は現場を制圧したはずだ。

 なら、作業は止まるか、あるいは軍主導の乱暴な補強工事が行われるはずだ。

 けれど、遠目に見る作業員たちの動きは、洗練されていた。

 無駄がなく、迅速で、そして何より「熱」を感じる。


 あの動きを指揮できる人間は、この世界に一人しかいない。


「……クロード」


 私は窓枠に額を押し付けた。

 彼はまだ、現場にいる。

 逃げてもいないし、殺されてもいない。

 それどころか、軍の監視下で、堂々と指揮を執っている。


『重列車砲を通すための強度試験が必要だ』


 風の噂か、あるいは私の妄想か。彼が将軍にそう進言したという声が聞こえた気がした。

 なるほど、あいつらしい。

 敵の欲望を利用して、現場の指揮権を取り戻したのだ。


 でも、何のために?

 本当に重列車砲を通すため?

 いいえ、違う。彼はそんな男じゃない。

 彼が動いているということは、まだ「諦めていない」ということだ。

 あの不器用な男は、この絶望的な状況下で、まだ何かを企んでいる。


「……なら、私も寝ている場合じゃないわね」


 私は顔を上げた。

 瞳に映るのは、絶望ではない。燃えるような闘志だ。


 私はエリザベート・フォン・アルニム。

 塔に幽閉された姫君が、王子様のキスを待って眠り続けるなんて、おとぎ話の中だけで十分だ。

 この物語の悪役令嬢は、自分で鍵をこじ開けてでも外へ出るのよ。


 私は部屋の中を改めて検分した。

 三日間、ただ座っていたわけではない。看守の目を盗んでは、部屋の隅々まで調べ上げていた。


 壁の石組み。床の継ぎ目。鉄格子の錆び具合。


「……ここね」


 私はベッドの下に潜り込み、床石の隙間に指を入れた。

 食事の時にくすねて隠しておいたスプーンの柄を差し込む。

 ガリ、ガリ。

 モルタルが劣化していて、少しずつだが削れる。


 この石を外せば、もしかしたら下の階へ通じる通気孔があるかもしれない。あるいは、石そのものを武器にできるかもしれない。

 確証はない。でも、何もしないよりはマシだ。


 ガリ、ガリ、ガリ……。


 地味な作業だ。

 指先が擦り切れ、爪が割れ、血が滲む。

 公爵令嬢が床に這いつくばって石を削るなんて、帝都の友人が見たら卒倒するだろう。

 でも、不思議と惨めさはなかった。

 この痛みは、私が彼を信じている証拠だから。


 ――必ず助ける。


 護送車を見送った時の、彼のあのジェスチャー。

 胸を叩いた、あの仕草。

 『任せろ』と言った彼を信じて、私は私の戦いをする。彼が外から扉を破りに来た時、私がただの無力なお荷物になっていては、彼の足手まといになる。


 その時。

 廊下から、複数の足音と話し声が聞こえてきた。

 私は慌ててベッドの下から這い出し、スプーンを隠して、何食わぬ顔でベッドに座った。


 ガチャリ。

 小窓が開く。

 看守の顔ではなく、見覚えのある下卑た顔が覗いた。


「……よう。随分とやつれたな、元公爵令嬢」


 ゲルハルト将軍だ。

 彼は楽しげに私を見下ろしている。手にはワイングラスを持っていた。


「将軍閣下。……わざわざこのようなむさ苦しい場所まで、ご苦労なことですわね」

「貴様に最後の通告をしに来てやったのだ。感謝しろ」


 彼は小窓越しに、一枚の紙を見せた。


「軍法会議の日程が決まった。明後日の朝だ」

「……そうですか。随分と早いですわね」

「証拠は揃っているからな。審議など形だけだ。……判決は銃殺刑。即日執行される」


 死刑宣告。

 心臓が冷たくなる。明後日。時間がない。


「だが、慈悲深い私は、貴様にチャンスをやろうと思ってな」


 ゲルハルトはニタリと笑った。


「今ここで、あの生意気な技師――クロード・ガーランドが『主犯』であり、貴様は騙されていただけだと証言書にサインしろ。そうすれば、貴様の命だけは助けてやる」


「……は?」


 耳を疑った。

 この男は、私にクロードを売れと言っているのだ。

 私を助けるためではない。クロードという「現場のカリスマ」を合法的に処刑し、現場を完全に掌握するための口実が欲しいのだ。


「……お断りします」


 私は即答した。一秒の迷いもなく。


「私は何も知りませんし、クロードは無実です。……これ以上、私の友人を侮辱しないでいただけますか?」

「友人だと? 笑わせるな。……奴はただの平民だぞ? 貴様を利用するだけ利用して、いざとなれば見捨てるに決まっている」


 将軍は嘲笑った。


「現にどうだ? 貴様が捕まってから三日。……奴は何をしている? 助けに来るどころか、現場で大人しく図面を引いているぞ。『重列車砲を通すためなら何でもします』とな」


 やはり。

 クロードは動いている。

 将軍はそれを「服従」だと勘違いしているが、私は知っている。あの男が権力に屈するはずがない。

 彼は今、将軍の鼻先で、とんでもない牙を研いでいるのだ。


「……可哀想な方」


 私は立ち上がり、小窓に近づいた。

 そして、鉄格子越しに将軍を睨みつけた。


「あ?」

「貴方にはわからないのでしょうね。……損得や恐怖で動かない人間がいるということが」


 私は微笑んだ。

 余裕の笑みではない。聖女の慈愛でもない。

 悪女の、毒を含んだ嘲笑を。


「クロードが図面を引いている? ……ええ、そうでしょうね。彼は最高の技師ですもの。貴方のような無能な上官の下でも、最高の結果を出そうとするわ」

「貴様……!」

「でも、忘れないで。……彼が描いている線の一本一本が、貴方の首を絞めるロープになるということを」


 ゲルハルトの顔が怒りで赤黒く染まる。

 彼はワイングラスを床に叩きつけた。


「……いいだろう。その減らず口、処刑台の上でどうなるか見ものだな」


 バン!

 小窓が乱暴に閉められた。

 足音が遠ざかっていく。


 私はベッドに崩れ落ちた。

 手足が震えている。

 強がったけれど、怖くないわけがない。

 明後日。

 私の命の期限。


 でも、不思議と絶望はなかった。

 将軍の言葉が、逆に私に確信を与えてくれたからだ。

 クロードは戦っている。

 なら、私も戦わなければ。


 私は再び床に這いつくばり、スプーンを握った。

 急がなきゃ。

 彼が合図を送ってきた時、私がここにいてはダメだ。


 ガリ、ガリ、ガリ……。


 音が響く。

 それは、私の生存への執着の音。


 その夜。

 私は一睡もせずに石を削り続けた。

 背中の傷が開き、包帯に血が滲む。

 それでも手は止めなかった。


 夜明け前。

 ついに、石が動いた。

 わずかな隙間。そこから、冷たい風が吹き込んできた。

 外の空気ではない。配管の匂いだ。

 通気ダクトに繋がったのだ。


「……繋がった」


 私は隙間に指をかけた。

 石を持ち上げるには重すぎる。でも、ここから音や匂いは届くはずだ。

 これが私の、外部への唯一の通信路。


 私は床に耳を当てた。

 ダクトの向こうから、微かな風の音が聞こえる。

 それは、外の世界の息吹だった。


「……待ってるわよ、クロード」


 私は呟いた。

 助けに来てくれると信じている。

 でも、もし彼が来られなかったら?

 その時は、この石を外して、スプーン一本で看守と戦ってでも外へ出る。


 私は懐から、彼がくれたオルゴールを取り出した。

 没収されずに済んだ、唯一の私物。

 ゼンマイを巻く。


 ポロン、ポロン……。


 優しい音色が、冷たい石室に響く。

 それは、私の心を温め、そして闘志を静かに燃え上がらせる燃料だった。


 窓の外が白み始める。

 運命の日が近づいている。

 現場の灯りはまだ消えていない。

 あそこで、私の共犯者が、世界をひっくり返す準備をしている。


 私は鉄格子を握りしめ、夜明けの空を見上げた。

 さあ、始めましょうか。

 私たちの、最後の賭けを。

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