第29話:幽閉の塔
石造りの床から、冷気が足首を掴むように這い上がってくる。
そこは、世界から切り離された鳥籠だった。
私が収監されたのは、グレンデルの街外れに建つ古びた監視塔の最上階だった。
かつては国境警備のための要塞だった場所らしく、壁は分厚い花崗岩でできており、扉は重厚な鉄製だ。窓には錆びついた、しかし絶望的に頑丈な鉄格子が嵌められている。
「……趣味が悪いわね」
私は鉄格子を掴み、ガタガタと揺らしてみた。びくともしない。
囚人服に着替えさせられるという屈辱は免れたものの、泥と血で汚れた深紅のドレスのまま、暖房もない石室に放り込まれて三日が過ぎていた。
食事は一日二回。カビの生えたパンと、水のようなスープ。
看守は無言で、私が何を問いかけても答えない。
完全に、情報が遮断されていた。
だが、窓からの景色だけが、今の私に残された唯一の情報源であり、そして最大の希望だった。
鉄格子の向こう。
眼下には、「竜の顎」の峡谷が広がっている。
そして、そこには私たちが命を削って作り上げた「橋」があった。
あと少しで両岸が繋がろうとしている、巨大な鉄のアーチ。
しかし今、その姿は無惨だった。
橋脚の周囲には、帝国軍のバリケードが築かれている。対岸のリベール側にも、共和国軍の陣地が見える。無数の銃口と、大砲の筒先が、あの美しい橋に向けられているのだ。
「……あの子は、人質ね」
私は唇を噛んだ。
帝国軍にとって、あの橋は「侵攻ルート」であり、同時に共和国軍が攻めてきた際の「自爆スイッチ」でもある。敵に渡すくらいなら爆破する。そういう計算だ。
どちらが先に引き金を引くか。その緊張の糸の上で、橋は震えているように見えた。
でも、おかしい。
私は目を凝らした。
夜だというのに、現場には煌々と灯りがついている。
投光器の光の中、作業員たちが蟻のように動き回っているのが見えた。
クレーンが動き、火花が散っている。
「……動いている?」
将軍は現場を制圧したはずだ。
なら、作業は止まるか、あるいは軍主導の乱暴な補強工事が行われるはずだ。
けれど、遠目に見る作業員たちの動きは、洗練されていた。
無駄がなく、迅速で、そして何より「熱」を感じる。
あの動きを指揮できる人間は、この世界に一人しかいない。
「……クロード」
私は窓枠に額を押し付けた。
彼はまだ、現場にいる。
逃げてもいないし、殺されてもいない。
それどころか、軍の監視下で、堂々と指揮を執っている。
『重列車砲を通すための強度試験が必要だ』
風の噂か、あるいは私の妄想か。彼が将軍にそう進言したという声が聞こえた気がした。
なるほど、あいつらしい。
敵の欲望を利用して、現場の指揮権を取り戻したのだ。
でも、何のために?
本当に重列車砲を通すため?
いいえ、違う。彼はそんな男じゃない。
彼が動いているということは、まだ「諦めていない」ということだ。
あの不器用な男は、この絶望的な状況下で、まだ何かを企んでいる。
「……なら、私も寝ている場合じゃないわね」
私は顔を上げた。
瞳に映るのは、絶望ではない。燃えるような闘志だ。
私はエリザベート・フォン・アルニム。
塔に幽閉された姫君が、王子様のキスを待って眠り続けるなんて、おとぎ話の中だけで十分だ。
この物語の悪役令嬢は、自分で鍵をこじ開けてでも外へ出るのよ。
私は部屋の中を改めて検分した。
三日間、ただ座っていたわけではない。看守の目を盗んでは、部屋の隅々まで調べ上げていた。
壁の石組み。床の継ぎ目。鉄格子の錆び具合。
「……ここね」
私はベッドの下に潜り込み、床石の隙間に指を入れた。
食事の時にくすねて隠しておいたスプーンの柄を差し込む。
ガリ、ガリ。
モルタルが劣化していて、少しずつだが削れる。
この石を外せば、もしかしたら下の階へ通じる通気孔があるかもしれない。あるいは、石そのものを武器にできるかもしれない。
確証はない。でも、何もしないよりはマシだ。
ガリ、ガリ、ガリ……。
地味な作業だ。
指先が擦り切れ、爪が割れ、血が滲む。
公爵令嬢が床に這いつくばって石を削るなんて、帝都の友人が見たら卒倒するだろう。
でも、不思議と惨めさはなかった。
この痛みは、私が彼を信じている証拠だから。
――必ず助ける。
護送車を見送った時の、彼のあのジェスチャー。
胸を叩いた、あの仕草。
『任せろ』と言った彼を信じて、私は私の戦いをする。彼が外から扉を破りに来た時、私がただの無力なお荷物になっていては、彼の足手まといになる。
その時。
廊下から、複数の足音と話し声が聞こえてきた。
私は慌ててベッドの下から這い出し、スプーンを隠して、何食わぬ顔でベッドに座った。
ガチャリ。
小窓が開く。
看守の顔ではなく、見覚えのある下卑た顔が覗いた。
「……よう。随分とやつれたな、元公爵令嬢」
ゲルハルト将軍だ。
彼は楽しげに私を見下ろしている。手にはワイングラスを持っていた。
「将軍閣下。……わざわざこのようなむさ苦しい場所まで、ご苦労なことですわね」
「貴様に最後の通告をしに来てやったのだ。感謝しろ」
彼は小窓越しに、一枚の紙を見せた。
「軍法会議の日程が決まった。明後日の朝だ」
「……そうですか。随分と早いですわね」
「証拠は揃っているからな。審議など形だけだ。……判決は銃殺刑。即日執行される」
死刑宣告。
心臓が冷たくなる。明後日。時間がない。
「だが、慈悲深い私は、貴様にチャンスをやろうと思ってな」
ゲルハルトはニタリと笑った。
「今ここで、あの生意気な技師――クロード・ガーランドが『主犯』であり、貴様は騙されていただけだと証言書にサインしろ。そうすれば、貴様の命だけは助けてやる」
「……は?」
耳を疑った。
この男は、私にクロードを売れと言っているのだ。
私を助けるためではない。クロードという「現場のカリスマ」を合法的に処刑し、現場を完全に掌握するための口実が欲しいのだ。
「……お断りします」
私は即答した。一秒の迷いもなく。
「私は何も知りませんし、クロードは無実です。……これ以上、私の友人を侮辱しないでいただけますか?」
「友人だと? 笑わせるな。……奴はただの平民だぞ? 貴様を利用するだけ利用して、いざとなれば見捨てるに決まっている」
将軍は嘲笑った。
「現にどうだ? 貴様が捕まってから三日。……奴は何をしている? 助けに来るどころか、現場で大人しく図面を引いているぞ。『重列車砲を通すためなら何でもします』とな」
やはり。
クロードは動いている。
将軍はそれを「服従」だと勘違いしているが、私は知っている。あの男が権力に屈するはずがない。
彼は今、将軍の鼻先で、とんでもない牙を研いでいるのだ。
「……可哀想な方」
私は立ち上がり、小窓に近づいた。
そして、鉄格子越しに将軍を睨みつけた。
「あ?」
「貴方にはわからないのでしょうね。……損得や恐怖で動かない人間がいるということが」
私は微笑んだ。
余裕の笑みではない。聖女の慈愛でもない。
悪女の、毒を含んだ嘲笑を。
「クロードが図面を引いている? ……ええ、そうでしょうね。彼は最高の技師ですもの。貴方のような無能な上官の下でも、最高の結果を出そうとするわ」
「貴様……!」
「でも、忘れないで。……彼が描いている線の一本一本が、貴方の首を絞めるロープになるということを」
ゲルハルトの顔が怒りで赤黒く染まる。
彼はワイングラスを床に叩きつけた。
「……いいだろう。その減らず口、処刑台の上でどうなるか見ものだな」
バン!
小窓が乱暴に閉められた。
足音が遠ざかっていく。
私はベッドに崩れ落ちた。
手足が震えている。
強がったけれど、怖くないわけがない。
明後日。
私の命の期限。
でも、不思議と絶望はなかった。
将軍の言葉が、逆に私に確信を与えてくれたからだ。
クロードは戦っている。
なら、私も戦わなければ。
私は再び床に這いつくばり、スプーンを握った。
急がなきゃ。
彼が合図を送ってきた時、私がここにいてはダメだ。
ガリ、ガリ、ガリ……。
音が響く。
それは、私の生存への執着の音。
その夜。
私は一睡もせずに石を削り続けた。
背中の傷が開き、包帯に血が滲む。
それでも手は止めなかった。
夜明け前。
ついに、石が動いた。
わずかな隙間。そこから、冷たい風が吹き込んできた。
外の空気ではない。配管の匂いだ。
通気ダクトに繋がったのだ。
「……繋がった」
私は隙間に指をかけた。
石を持ち上げるには重すぎる。でも、ここから音や匂いは届くはずだ。
これが私の、外部への唯一の通信路。
私は床に耳を当てた。
ダクトの向こうから、微かな風の音が聞こえる。
それは、外の世界の息吹だった。
「……待ってるわよ、クロード」
私は呟いた。
助けに来てくれると信じている。
でも、もし彼が来られなかったら?
その時は、この石を外して、スプーン一本で看守と戦ってでも外へ出る。
私は懐から、彼がくれたオルゴールを取り出した。
没収されずに済んだ、唯一の私物。
ゼンマイを巻く。
ポロン、ポロン……。
優しい音色が、冷たい石室に響く。
それは、私の心を温め、そして闘志を静かに燃え上がらせる燃料だった。
窓の外が白み始める。
運命の日が近づいている。
現場の灯りはまだ消えていない。
あそこで、私の共犯者が、世界をひっくり返す準備をしている。
私は鉄格子を握りしめ、夜明けの空を見上げた。
さあ、始めましょうか。
私たちの、最後の賭けを。




