第27話:スパイ容疑
ドアが開け放たれると同時に、冷たい夜風と共に、殺気が部屋になだれ込んできた。
ゲルハルト将軍を先頭に、武装した憲兵たちが次々と土足で踏み込んでくる。
彼らの手には銃剣付きのライフル。
その切っ先は、躊躇なく私とクロードに向けられていた。
「……何の真似かしら、将軍」
私は退職願いの書類を背後に隠し、毅然と顔を上げた。
背中の傷が痛むが、そんなことを気にしている場合ではない。
「ノックもなしにレディの部屋に押し入るなんて、帝国の軍人は礼儀作法も忘れてしまったのかしら?」
「減らず口を」
ゲルハルトは鼻で笑い、私の前に歩み寄った。
その手には、一枚の羊皮紙が握られている。
以前見せたような「現場の指揮権委譲」の命令書ではない。
もっと禍々しい、赤い封蝋が押された公文書だ。
「エリザベート・フォン・アルニム。貴様を拘束する」
「……拘束? 理由をお聞かせ願えるかしら」
「理由はこれだ」
彼は羊皮紙を突きつけた。
そこに書かれていた文字を目にした瞬間、私の全身の血が凍りついた。
『国家反逆罪、並びに敵国への軍事機密漏洩の容疑』
「……は?」
思考が停止する。
反逆? 漏洩?
私が?
「冗談も大概になさい。私がいつ、そんな……」
「とぼけるな!」
ドォォン!
ゲルハルトが机を拳で叩いた。インク壺が跳ねて床に落ち、黒い染みを作る。
「証拠は上がっているのだよ。……先日、国境付近で我が軍の哨戒部隊が奇襲を受けた。敵は、我々の巡回ルートと時間を正確に把握していた。まるで、内部から詳細な情報を流した者がいるかのようにな」
彼はニヤリと笑い、もう一つの証拠品――一枚の地図をテーブルに投げ出した。
それは、この現場の周辺地図だ。
だが、そこには本来書き込まれていないはずの、帝国軍の陣地配置や、補給路の情報が赤ペンで詳細に記されていた。
「これは、貴様の部屋から押収したものだ」
「でっち上げよ! そんなもの見たこともないわ!」
「字を見ろ。……貴様の特徴的な筆跡とそっくりではないか?」
私は地図を凝視した。
確かに、流麗で癖のある筆記体。
私の字に酷似している。
誰かが真似て書いたのだ。私が大量に書いた発注書や日報を見て、筆跡を模倣した捏造証拠。
「……手が込んでいますわね。いつの間に用意なさったの?」
「黙れ売国奴が!」
ゲルハルトの手が動き、私の頬を打った。
パァン!!
乾いた音が響く。
私はよろめき、机に手をついた。口の中が切れて鉄の味がする。
「エリザベート!」
クロードが叫び、将軍に掴みかかろうとする。
だが、すぐに数人の憲兵に取り押さえられ、銃床で腹を殴られた。
「ぐっ……! 放せ! てめぇら!」
「動くな技師殿。……貴様も同罪で縛り首にされたいか?」
将軍の脅しに、クロードが動きを止める。
彼の目には殺意が宿っていたが、私のために耐えているのがわかった。
私は唇の血を拭い、将軍を睨みつけた。
痛みよりも、屈辱よりも、怒りが勝っていた。
「……それで? その下手くそな地図一枚で、私を断罪するつもり?」
「これだけではない」
将軍は楽しげに言った。
「貴様は頻繁にリベールの商人モルガンと接触していたな? 奴は共和国政府の密偵とも噂される男だ。……資金調達という名目で、我が国の情報を売り渡していたのだろう?」
「商談よ! 橋を作るための資金を集めて何が悪いの!」
「その橋こそが問題なのだ。……貴様らは、本来の設計を変更し、不必要なまでに強度を上げようとしている。それは、将来的に共和国軍の戦車を通すためではないのか?」
言いがかりだ。
何もかもが、悪意ある解釈でねじ曲げられている。
私たちが橋を守ろうとした努力が、全て「敵への協力」という罪に書き換えられていく。
「……認めません。私は断じて、祖国を裏切ってなどいない」
「口では何とでも言える。……だが、帝都の『家族』も貴様の罪を認めているぞ」
将軍は懐から、もう一枚の手紙を取り出した。
見覚えのある封筒。
アルニム公爵家の紋章が入っている。
「父親である宰相閣下からの親書だ。『娘の愚行により国家に損害を与えたことを深く陳謝する。処遇に関しては軍部に一任する。……例え極刑であっても異存はない』とな」
極刑。
父の筆跡だった。
冷徹で、感情の欠片もない文字。
足元が崩れ落ちるような感覚だった。
覚悟はしていた。父にとって私は道具だと。
でも、ここまで明確に「死ね」と言われるとは思わなかった。
彼は、自分の政治的立場を守るために、娘を生贄に捧げたのだ。「売国奴の父」ではなく、「売国奴を処断した憂国の士」として生き残るために。
「……っ」
言葉が出なかった。
反論する気力さえ削ぎ落とされる。
私が必死に守ってきたもの――現場、クロードとの絆、そして自分のプライド。
それら全てが、巨大な権力の波に飲み込まれていく。
「さて、どうする? エリザベート」
将軍は私の顎を掴み、無理やり上を向かせた。
「今ここで罪を認めるなら、本国送還の上、修道院への幽閉で済ませてやらんこともない。……ただし、二度と太陽の下は歩けないがな」
「……」
「認めないなら、即刻軍法会議だ。……判決は決まっている。『銃殺刑』だ。この現場のゴミ溜めで、野良犬のように死ぬことになる」
選択肢などない。
どちらを選んでも、私の人生は終わりだ。
そして何より、私が罪を認めれば、それはクロードたち現場の人間も「スパイの協力者」として断罪されることを意味する。
「……卑怯者」
私は将軍の目を睨みつけ、唾を吐きかけた。
「……何?」
「殺せばいいわ。……でも、私の魂までは屈服させられない。私は最後まで、この現場の総責任者よ。貴方のような豚に、私の誇りを売り渡したりはしない!」
それが、私の精一杯の抵抗だった。
死ぬなら、誇り高く死ぬ。
悪女として、最後まで悪を貫いてみせる。
将軍は顔についた唾を拭い、顔色一つ変えずに言った。
「……そうか。残念だ」
彼は憲兵たちに合図を送った。
「連れて行け。……独房で頭を冷やさせてやれ」
憲兵たちが私の腕を掴む。
手錠がかけられる。冷たく、重い鉄の輪。
それは、私の自由と未来を奪う音だった。
「エリザベート!!」
クロードが叫ぶ。
押さえつけられながら、彼は必死に手を伸ばしていた。
その指先が、あと数センチ届かない。
私は引きずられるようにして歩き出した。
振り返りたかった。
彼に何か言葉を残したかった。
「愛している」とか、「諦めないで」とか。
でも、声が出なかった。
ここで泣いてしまえば、彼の前で築き上げてきた「強い女」の仮面が崩れてしまう気がして。
部屋を出る直前、私は一度だけクロードを見た。
彼は泣いていなかった。
ただ、燃えるような瞳で私を見つめ、何かを叫ぼうとしていた。
ドアが閉まる。
視界が遮断される。
私と彼の世界が、分厚い鉄の扉によって引き裂かれた。
廊下には、武装した兵士の列。
彼らに囲まれ、私は夜の闇へと連行されていく。
スパイ。売国奴。死刑囚。
そんな汚名を着せられたまま、私の戦いは終わるのだろうか。
いいえ。
手錠をかけられた拳を握りしめる。
まだだ。
首が繋がっている限り、悪女は諦めない。
けれど、今はただ、遠ざかるクロードの気配だけが、どうしようもなく愛おしく、そして遠かった。




