第23話:爆弾と愛
軍部による現場制圧から一週間。
私たちは、薄氷の上を歩くような日々を送っていた。
表向きは、私がヒステリックに暴れて将軍の注意を引きつけ、その裏でクロードたちが廃材を集めて補強材を作る。
綱渡りのような陽動作戦は、今のところ功を奏していた。
しかし、ゲルハルト将軍の苛立ちも限界に近づいていた。「さっさと工事を進めろ」という督促は日増しに強まり、作業員への暴力も増えていた。
そして、運命の夜が訪れた。
***
時刻は深夜二時。
私は自室の窓辺で、眠れぬ夜を過ごしていた。
月明かりのない、漆黒の夜だ。
現場の灯りも消され、巨大な橋脚が闇の中に黒い怪物のように佇んでいる。
「……嫌な予感がする」
胸騒ぎが止まらない。
私の「悪女」としての勘が、最大級の警鐘を鳴らしている。
静かすぎるのだ。
いつもなら聞こえるはずの夜警の足音や、将軍の部屋から漏れる馬鹿騒ぎの声さえ聞こえない。
まるで、嵐の前の静けさのように。
その時。
現場の奥、川岸に近い第三橋脚の方角で、何かが小さく煌めいた。
蛍?
いいえ、違う。もっと人工的な、不規則な明滅。
誰かいる。
私はすぐにガウンを羽織り、部屋を飛び出した。
廊下の見張りは……いない。
居眠りをしているのではない。持ち場を離れているのだ。
これは、誰かの指示で「わざと警備を手薄にしている」としか思えない。
私は裸足のまま裏階段を駆け下りた。
冷たい夜風が肌を刺す。
建物の陰に隠れながら現場へと向かおうとした瞬間、闇の中から伸びてきた腕に引き寄せられた。
「……っ!?」
「シッ。俺だ」
耳元で囁く低い声。
クロードだ。彼もまた、作業着の上に黒いジャケットを羽織り、息を潜めていた。
「クロード……貴方も気づいたの?」
「ああ。……妙な匂いがしたんだ」
「匂い?」
「油と、火薬の匂いだ。……風に乗って漂ってきやがった」
彼の表情は険しい。
「第三橋脚だ。誰かが何かを仕掛けている」
「まさか……」
「行くぞ。俺の後ろから離れるな」
私たちは影のように移動した。
見張りがいなくなった現場は、不気味なほど静まり返っている。
泥濘んだ斜面を降り、川岸へと近づく。
激流の音が大きくなるにつれ、私の心臓の鼓動も早鐘を打つ。
鉄骨の足場の下。
そこに、二つの人影があった。
黒ずくめの男たちが、橋脚の支柱に何かを巻き付けている。
手には工具と、太い筒状の物体。
「……ダイナマイトだ」
クロードが低く唸った。
「支柱の接合部を狙ってる。あそこを爆破されれば、第三橋脚は自重で崩壊する。……そうなれば、連結しているアーチ全体がドミノ倒しだ」
「そんな……! 橋を落とす気なの!?」
将軍は「重列車砲を通せ」と言っていたはずだ。橋を壊してどうするつもりなのか。
いや、まさか――。
『事故死までは防げんからな』
あの言葉が蘇る。
これは「建設中の事故」に見せかけた破壊工作だ。
橋を落とし、その混乱に乗じて私たちを抹殺する。あるいは、「設計ミス」としてクロードに全ての責任を負わせるシナリオか。
「……ふざけやがって」
クロードの目が怒りで燃え上がった。
男たちが作業を終え、何かをセットして立ち去ろうとしている。
「待て! 逃がすか!」
クロードが飛び出した。
男たちが驚いて振り返る。
「チッ、見つかったか!」
「ずらかるぞ!」
男たちは私たちの存在を確認すると、戦う素振りも見せずに川の方へ走った。そこには小舟が用意されていたようだ。
クロードは追いかけようとしたが、すぐに足を止めた。
男たちが残していった「それ」から、不気味な音が聞こえてきたからだ。
チチチチチ……。
時計の音。
橋脚の支柱にガムテープで固定された束。そこには、懐中時計を改造した時限発火装置が取り付けられていた。
「クソッ……! 置き土産かよ!」
クロードが橋脚に駆け寄る。私も続く。
近くで見ると、それは想像以上に大きかった。軍用の高性能爆薬だ。これだけの量があれば、鉄骨など飴細工のように吹き飛ぶ。
「クロード、これ……!」
「時限式だ。……あと何分だ?」
私が懐中時計の盤面を覗き込む。
改造された針が、赤い目盛りに近づいている。
「……3分! いえ、2分ちょっとしかないわ!」
「クソッ、ふざけやがって!」
クロードが叫んだ。
逃げる?
いいえ、間に合わない。ここから安全圏まで走るには時間が足りない。
それに、ここで爆発すれば、上流の仮設ダムにも影響が出る。最悪の場合、下流の街が水没する。
「俺が解除する。エリザベート、明かりだ!」
「わ、わかったわ!」
私は近くにあった作業用の手持ちランプを拾い上げ、震える手で火をつけた。
クロードが工具袋からニッパーを取り出し、爆弾の前に膝をつく。
チチチチチ……。
無機質な音が、私の心臓を直接叩くように響く。
残り2分。
「……構造は単純だ。だが、配線がいやらしい」
クロードの額から汗が滴り落ちる。
赤いコード、青いコード、そして黄色いコードが複雑に絡み合い、雷管へと繋がっている。
一つでも間違えれば即爆発だ。
「……震えるなよ、エリザベート」
「震えてないわ。……寒いのよ」
嘘だ。恐怖で歯の根が合わない。
でも、ランプを持つ手だけは絶対に動かさない。私の揺らぎが、彼のミスを誘うかもしれないから。
パチン。
一本目のコードが切断される。
爆発はない。
だが、時計の音は止まらない。
「……ダミーか。こっちだ」
クロードが別のコードを探る。
残り1分。
秒針が進むたびに、死神の足音が近づいてくる。
「ねえ、クロード」
「話しかけるな」
「もし失敗したら……」
「失敗しねえ! 俺はお前を死なせねえ!」
彼は吠えるように言った。
その目には、恐怖ではなく、強烈な意志が宿っていた。
私のための意志。
それが嬉しくて、私は唇を噛み締めた。
「……これだ。このワイヤーを切れば、時計が止まる」
彼が細いワイヤーにニッパーの刃先を当てる。
残り30秒。
「行くぞ」
パチン!
鋭い金属音が響いた。
ワイヤーが切断される。
……。
チチチチチ……ピタリ。
音が止まった。
爆発は起きない。
世界が静止したような沈黙。
「……止まった……?」
私が恐る恐る尋ねると、クロードは全身の力を抜いて、その場にへたり込んだ。
「ああ……止まった。セーフだ」
「よ、よかった……!」
私は安堵で膝が崩れそうになった。
助かった。
私たちは生き残ったのだ。
クロードが汗を拭いながら、爆弾を取り外そうと手を伸ばした。
「念のため、雷管を抜いておく。……これを持って帰って、将軍に突きつけてやらなきゃな」
彼が爆弾の固定テープを剥がそうとした、その時だった。
カチッ。
微かな、しかし硬質な音がした。
時計の音ではない。
爆弾の裏側――支柱と爆弾の間に挟まれていた、小さなスイッチが解放された音。
クロードの顔色が、一瞬で蒼白になった。
「……しまっ――!」
除去防止装置。
主要な起爆装置を解除しても、爆弾を動かした瞬間に作動する、二重の罠。
彼の目が見開かれる。
その瞳に映ったのは、爆弾の裏で赤く発光し始めた、もう一つの信管。
爆発まで、コンマ数秒。
彼の体勢では避けられない。
爆心は彼の顔の目の前だ。
「危ないっ!!」
思考する時間はなかった。
私の体は、弾かれたように動いていた。
ランプを放り出し、クロードの体へと飛び込む。
彼を突き飛ばすように覆いかぶさる。
ドンッ!!
閃光。
そして、世界を揺るがす衝撃波。
背中を、焼けるような熱と痛みが走り抜けた。
「ぐっ……ぁ……!」
体が宙に浮き、泥の中に叩きつけられる。
耳鳴りがひどい。
視界が明滅している。
土と、火薬と、そして鉄錆のような血の匂い。
「……エリザベート!?」
遠くで誰かが叫んでいる。
クロードの声だ。
無事……かしら。
彼を守れたなら、それでいい。
私は薄れゆく意識の中で、自分の背中が熱く濡れていくのを感じていた。
ああ、せっかくのワンピースが、また台無しだわ。
そんな場違いなことを思いながら、私の意識は深い闇へと落ちていった。




