第22話:檻の中の二人
「兵糧攻め」というのは、軍隊が最も得意とする戦術の一つだ。
私は歴史の教科書でそれを学んだが、まさか自分の現場で、それも味方であるはずの帝国軍から仕掛けられるとは夢にも思わなかった。
ゲルハルト将軍との直接対決から三日。
現場は、窒息寸前だった。
「ボス! またです! 3番ゲートの検問で、ワイヤーを積んだトラックが止められました!」
「今度は何? 書類不備?」
「いえ、『過積載の疑いがあるため、全量検査を行う』と……。荷物を全部下ろさせて、一つ一つ重量を測るそうです。今日中の搬入は無理だと……」
ハンズが泣きそうな顔で報告してくる。
私はペンを握りしめすぎて、指の関節が白くなっていた。
「……陰湿ね」
これがあの男のやり方だ。
あからさまな妨害は条約違反になる。だから、「安全検査」「手続きの厳格化」というもっともらしい理由をつけて、物流を麻痺させているのだ。
重列車砲を通すための補強工事には、大量の追加資材が必要だ。
クロードが設計した「ハイブリッド橋」を実現するには、リベール製の高強度ワイヤーが命綱となる。
それが、届かない。
「ガストンたちの班も、釘が足りなくて作業が止まっています。……このままだと、今夜の工程も中止です」
「わかったわ。……私が掛け合ってくる」
私は椅子を蹴るように立ち上がった。
何度掛け合っても、返ってくるのは兵士たちの薄ら笑いと「上の命令でして」という定型句だけ。それでも、私が動かなければ士気が死んでしまう。
執務室を出ようとした時、ドアが開いて兵士が入ってきた。
銃剣を持った、目つきの悪い男だ。
「どこへ行かれるのですか」
「検問所よ。不当な検査をやめさせに行くわ」
「許可できません」
兵士は銃剣を水平に構え、私の進路を塞いだ。
「将軍閣下より通達が出ております。『共和国のスパイによる破壊工作の恐れがあるため、主要人物の不要不急の外出を禁ずる』と」
「……何ですって?」
「貴女の安全を守るためです。大人しく部屋にお戻りください」
監禁。
言葉を飾っているが、これは事実上の軟禁だ。
私を現場から切り離し、手足を縛るつもりなのだ。
「……私の安全? よく言うわね。貴方たちの存在こそが、この現場の最大の危険物よ」
私が皮肉を言っても、兵士は動じない。
無力感が押し寄せる。
外ではハンマーの音が止まり始めている。資材がない現場は、血の巡りが止まった体と同じだ。やがて壊死する。
私は唇を噛み締め、執務室へと引き返した。
背後でガチャリと鍵がかけられる音が、牢獄の閉まる音のように響いた。
***
夜が来た。
窓の外は暗く、現場の投光器も今日は消えている。
資材不足で夜間作業が中止になったからだ。
静かすぎる夜。
聞こえるのは、廊下を行き交う巡回兵の足音だけ。
「……詰み、かしら」
私は机に突っ伏した。
手元には、クロードが描いたラフスケッチがある。
『吊り橋とアーチ橋の融合』。
理論上は最強の橋。でも、材料がなければただの紙切れだ。
ゲルハルトは待っているのだ。
工期が遅れ、私たちが音を上げて「できません」と降伏するのを。
そうすれば、彼は堂々と私を軍法会議にかけ、クロードを処刑できる。
私は引き出しの奥から、一通の封筒を取り出した。
ニューポートでモルガン氏と交わした、契約書の控えだ。
震える指で、その「第15条」をなぞる。
『帝国政府による不当な介入があった場合、全債権を世界銀行連盟へ譲渡する』
――切り札。
このカードを切れば、将軍を止めることはできる。
だが、その代償として、帝国の経済は崩壊するだろう。何千、何万という国民が路頭に迷うことになる。
父や継母だけでなく、無関係な人々まで巻き込む、毒の猛威。
「……まだよ」
私は封筒を戻した。
まだ切れない。これを切った瞬間、私は正真正銘の「売国奴」になる。
将軍が最後の一線を越えるまで、この毒は懐で温めておかなければならない。
その時。
コツ、コツ。
窓ガラスを叩く、小さな音がした。
風?
いや、リズムがある。
私は顔を上げ、窓に駆け寄った。
カーテンを少し開ける。
そこには、ロープにぶら下がった黒い影が張り付いていた。
「……っ!?」
悲鳴を上げそうになり、慌てて口を押さえる。
影がニヤリと笑い、窓の鍵を開けるジェスチャーをした。
クロードだ。
私は震える手で鍵を開け、窓を引き上げた。
彼は音もなく部屋の中に滑り込み、すぐに窓を閉めてカーテンを引いた。
「……貴方、正気!? ここは3階よ!」
「足場を組むより簡単だ。配管を伝えばわけない」
彼は平然と言ってのけ、服についた埃を払った。
相変わらずの無茶苦茶な男。
でも、その顔を見た瞬間、胸のつかえが取れたように呼吸が楽になった。
「……見張りは?」
「廊下に二人。裏口に一人。ザルだな」
「バレたら撃たれるわよ」
「その前に逃げるさ。……ほら、土産だ」
彼が懐から取り出したのは、少し潰れた紙袋に入った焼き菓子と、瓶に入った怪しげな液体だった。
「ガストンからの差し入れだ。『ボスに食わせてくれ』ってよ。酒は……俺の秘蔵のブランデーだ」
「……こんな状況で、よく持ってきたわね」
「こんな状況だからだろ」
彼は私の机の上の書類をどけ、酒瓶を置いた。
「作戦会議だ、エリザベート。……このまま指をくわえて死ぬのは癪だろ?」
「ええ。もちろんよ」
私たちは机を挟んで向かい合った。
ランプの灯りを極限まで絞る。
薄暗い部屋の中、二人の影が壁に揺れる。
まるで、悪いことを企む共犯者の隠れ家だ。
「資材は止まったままだ。ワイヤーの在庫はあと3日分。……このままだと、来週には手詰まりになる」
クロードがコップにブランデーを注ぎながら言った。
琥珀色の液体が、ランプの光を受けて揺らめく。
「軍部に掛け合っても無駄ね。彼らは時間を稼いで、私たちを干上がらせるつもりよ」
「ああ。……だから、手を変える」
彼は一枚の図面を広げた。
それは、現場の資材置き場の配置図ではなく、グレンデル周辺の「廃棄物処理場」の地図だった。
「……ゴミ捨て場?」
「宝の山だ。……前の大戦で破壊された戦車の残骸、壊れた鉄道のレール、廃工場の鉄骨。……この街には、鉄の死骸が山ほど眠ってる」
「まさか……」
「資材が入ってこないなら、ここにあるものを溶かして使う。……リベールの特級鋼には劣るが、束ねて鍛え直せば、補強材としては十分使えるはずだ」
リサイクル。
いや、これは執念だ。
新品がなければ、ゴミを拾ってでも橋を架けるという、技術者の意地。
「でも、それを運ぶトラックも検問で止められるわ」
「夜中に運ぶ。……川を使うんだ」
彼は地図上の川を指差した。
「軍は陸路の検問は厳しいが、水路は手薄だ。ガストンたちが筏を組んで、上流からスクラップを流す。それを現場で回収し、地下の加工場で再利用する」
「……見つかったら、ただじゃ済まないわよ」
「そのための陽動だ。……お前には、派手に暴れてもらう」
彼はニヤリと笑った。
「明日から毎日、将軍の部屋に怒鳴り込んでくれ。『資材をよこせ』『待遇を改善しろ』ってな。派手に騒げば騒ぐほど、あいつらの目は陸に向く。……その隙に、俺たちは水面下で鉄を集める」
なるほど。
私は囮というわけか。
悪くない。貴族のヒステリーを演じるのは得意分野だ。
「いいわ。最高の演技を見せてあげる。……それに、私にも『奥の手』があるしね」
私はブランデーを一口飲み、彼に視線を流した。
「奥の手?」
「ええ。……将軍が最後の一線を越えた時に発動する、特大の爆弾よ。
でも、それを使うと私は正真正銘の売国奴になるわ。……できれば使いたくないけれど」
クロードは私の目を見つめ、そしてふっと笑った。
「……そうか。なら、俺は何も聞かねえ。
お前の爆弾が不発で済むように、俺は鉄の方を何とかするさ」
彼は深く追求しなかった。
私が抱える「毒」の重さを察してくれたのか、それとも単に私を信じているのか。
どちらにせよ、その信頼が心地よい。
「……ありがとう。
でも、鉄だけじゃ足りないわね。……重列車砲の荷重に耐えるには、橋そのものの『構造』を変える必要がある」
私は話題を技術的なものに戻した。
「……貴方が言っていた『ハイブリッド橋』、具体的な計算はできているの?」
「……途中だ」
クロードが顔をしかめた。
「吊り橋のケーブルで荷重を支えつつ、アーチで風圧を受け流す。……変数が多すぎて、俺一人の頭じゃパンク寸前だ。特に、この接合部のモーメントが……」
彼が指差した数式は、確かに複雑怪奇だった。
でも、私には見えた。
数字の羅列の中に潜む、美しい秩序への糸口が。
「……ここ、貸して」
私はペンを取り、彼の隣に移動した。
机を挟んで向かい合うよりも、隣に並んだ方が図面が見やすい。
肩が触れる距離。
彼の体温と、ブランデーの香り、そして微かな油の匂いが包み込んでくる。
「ここの係数を定数化して……ワイヤーの張力を逆算すれば……」
私はペンを走らせた。
クロードが覗き込む。彼の吐息が耳にかかる。
「……なるほど。そうやって逃がすのか」
「ええ。力は押し込めるんじゃなくて、流してあげるの。……貴方の設計は、少し真面目すぎるのよ」
「うるさいな。安全率を考えるとこうなるんだよ」
私たちは数式について議論を戦わせた。
外には銃を持った兵士がいる。現場は封鎖されている。
ここは檻の中だ。
けれど、この半径一メートルの空間だけは、誰にも侵されない自由があった。
一時間、二時間。
没頭していた。
やがて、一つの解が導き出された時、私たちは同時に息を吐き、椅子の背もたれに体を預けた。
「……できたな」
「ええ。理論上は、これで数百トンの荷重にも耐えられるわ」
達成感と共に、心地よい疲労感が襲ってくる。
私はふと、今の状況がおかしくてたまらなくなった。
「……ふふっ」
「何が可笑しい」
「だって、見て。……私たち、まるで悪いことを企む子供みたいじゃない」
深夜の密室。隠し持った酒。そして、国を騙すための計画書。
公爵令嬢にあるまじき姿だ。
「……違いない」
クロードも笑った。
彼は残ったブランデーを飲み干し、そして私を見た。
その瞳は、図面を見ている時の鋭いものではなく、もっと柔らかく、熱い色をしていた。
「なあ、エリザベート」
「何?」
「俺は、お前がいてくれて良かったと思ってる」
不意打ちだった。
心臓がトクンと鳴る。
「……資材もねえ、自由もねえ。最悪の状況だ。……でも、お前とこうして知恵を絞ってると、不思議と負ける気がしねえんだ」
彼の手が、机の上に置かれた私の手に重ねられた。
ゴツゴツとした指が、私の指を絡め取る。
「お前は俺の……最強の武器だ」
「……武器扱いしないでよ」
私は精一杯の憎まれ口を叩いたが、声が震えてしまった。
顔が熱い。ブランデーのせいだけじゃない。
「貴方こそ。……私を一人にしないでくれて、ありがとう」
私は彼の手を握り返した。
檻の中だからこそ、この温もりが何よりも愛おしい。
外の世界がどれほど冷酷でも、この手さえ離さなければ、私たちは生きていける。
クロードの顔が近づく。
長いまつ毛。整った鼻梁。
唇が、触れるか触れないかの距離で止まる。
「……監視兵が、交代する時間だ」
彼が囁いた。
キスをするのかと思った。
でも、彼は代わりに、私の額にコツンと自分の額を押し当てた。
「戻らなきゃな。……朝になったら、派手なショーの開演だ」
「……ええ。期待していて」
彼は名残惜しそうに離れ、窓へと向かった。
音もなく窓を開け、夜の闇へと消えていく。
「おやすみ、共犯者」
「おやすみなさい、クロード」
彼が去った後の部屋は、急に広く、寒く感じられた。
でも、机の上には書き上げられた図面と、空になったグラスが残っている。
そして、私の手には彼の体温が残っていた。
私は懐の封筒――あの「毒」の契約書に触れた。
まだ使わない。
私たちはまだ、自分たちの力で戦える。
鉄屑を集め、知恵を絞り、泥にまみれて。
私は窓の外、暗闇に沈む現場を見下ろした。
明日は忙しくなる。
将軍を欺き、川から鉄を拾い、化け物じみた橋を作る。
正気の沙汰ではない。
でも、だからこそ面白い。
私は拳を握りしめた。
檻の中で飼い殺されるつもりなんてない。
私たちは、この檻さえも食い破って、空へと橋を架けるのだ。




