第21話:法と条約の盾
銃口と、私の眉間。その距離はわずか数メートル。
黒く冷たい穴の奥に、死の匂いが漂っているのがわかる。
普通なら、悲鳴を上げて腰を抜かす場面だろう。
あるいは、命乞いをして地面に這いつくばる場面かもしれない。
けれど不思議なことに、私の頭の中は氷水に浸したように冷え切っていた。恐怖よりも先に、「怒り」という名の燃料が、思考回路を極限まで加速させていたからだ。
「……ほう?」
ゲルハルト将軍が、面白そうに目を細めた。
彼は銃口をクロードから私へとずらした。
「愛の逃避行か? それとも、悲劇のヒロイン気取りか? ……いい度胸だ、エリザベート嬢。だが、その綺麗な顔に風穴が空いても知らんぞ」
「エリザベート! 退がれ! こいつは正気じゃねえ!」
背後でクロードが叫び、私を庇おうと腕を伸ばしてくる。
私は振り返らず、扇子を持った手で彼を制した。
「動かないで、クロード。……これは私の喧嘩よ」
私は視線を将軍に固定したまま、ゆっくりと、優雅に一歩を踏み出した。
カツン、とヒールの音が静寂に響く。
「将軍。貴方は今、私に『死にたいのか』と問いましたわね?」
私は扇子をパチリと閉じた。
「答えはNOです。私は死にませんし、クロードも殺させません。……死ぬのは、社会的かつ物理的に抹殺されるのは、貴方の方ですわ」
「……何だと?」
ゲルハルトの指が、引き金にかかる。
殺気。肌が粟立つほどのプレッシャー。
だが、私は怯まずに懐から一冊の手帳を取り出した。
ボルツ監督を追い詰めた時の薄いメモ帳ではない。帝都を出発する際、外務省の知人から極秘に取り寄せた、分厚い革表紙の書類束だ。
「貴方は軍人ですから、法律には疎いかもしれませんわね。……ご存知かしら? ここグレンデル建設現場は、帝国とリベール共和国の『共同統治区』に指定されています」
私は手帳を開き、あるページを指で弾いた。
「『国境建設条約』第13条第2項。『建設区域内における軍事力の行使、および技術者への武力による威嚇は、即時停戦協定の破棄とみなす』」
私は顔を上げ、ゲルハルトを真っ直ぐに見据えた。
「つまり、貴方が今放った一発の銃弾。そして、共和国籍を持つ技術者への殺害未遂。……これは、帝国による『一方的な宣戦布告』に該当します」
ゲルハルトの眉がピクリと動いた。
「……ハッ、こじつけだ。ここは帝国の領土だ。スパイ容疑者を尋問するのに、条約など関係ない」
「関係大ありですわ。ここは治外法権に近い緩衝地帯。ここで戦争を始めるには、皇帝陛下の勅許と、議会の承認が必要です」
私は一歩、また一歩と銃口に近づいていく。
「ねえ、将軍。貴方は皇帝陛下から『開戦の許可』を得てここにいらしたの? それとも、ただの視察という名目で、独断で軍を動かしているのかしら?」
図星だったのだろう。
ゲルハルトの目が泳いだ。
彼はタカ派だが、あくまで「軍部の暴走」という形ではなく、既成事実を積み上げてなし崩し的に開戦へ持ち込みたいはずだ。自分一人が開戦の責任を負うつもりなど毛頭ない。
「……貴様、口が達者なアマだな」
「事実を申し上げているだけです。……そして、もう一つ」
私は窓の外を指差した。
「今の銃声。……現場中に響き渡りましたわね。数百人の作業員、そして貴方が連れてきた兵士たち全員が聞きました」
私は不敵に微笑んだ。
「彼らは証人です。……もしここで私たちが死体となれば、貴方は『視察中に暴発事故を起こした』と言い訳するつもりでしょうけれど、共和国側の作業員たちが黙っているかしら? 彼らはすぐに国へ逃げ帰り、こう証言するでしょう。『帝国軍が一方的に虐殺を始めた』と」
そうなれば、リベール共和国は大義名分を得て、全力で反撃に出てくる。
準備不足のまま全面戦争に突入し、国際社会からの非難を浴びるのは帝国だ。
その全ての責任を、一将軍が背負えるはずがない。
「……揉み消せると思っているのなら、どうぞ引き金を引いてくださいな」
私は自分の額を指差した。
銃口の真ん前、わずか数センチの距離。
「ただし、その代償は貴方のキャリアと、一族の破滅ですわ」
長い、息が詰まるような沈黙が流れた。
ゲルハルトの顔が、朱色から土気色へ、そしてどす黒い怒りの色へと変わっていく。
彼は拳銃を握りしめ、ギリギリと歯ぎしりをした。
撃ちたい。
目の前の生意気な小娘を撃ち殺してやりたい。
その殺意と、自身の保身という理性が、天秤の上で激しく揺れているのがわかった。
私は瞬き一つせず、彼を見つめ続けた。
ここで視線を逸らせば、負ける。
悪女は、賭けのテーブルで決して降りない。
「……チッ!!」
ゲルハルトが舌打ちをし、銃口を下げた。
カチャリ、と安全装置を戻す音が、勝利のゴングのように響いた。
「……いいだろう。今日のところは引いてやる」
彼は忌々しそうに拳銃をホルスターに押し込み、ドカッと椅子に座り込んだ。
「法律書で命拾いしたな、エリザベート嬢。……だが、勘違いするなよ」
彼はギロリと私を睨みつけた。
「俺は手出しできないとしても、命令は絶対だ。『重列車砲』を通せる橋を作れ。……期限は変わらん。もし完成しなければ、その時は条約違反だ何だと言う前に、貴様らを『軍務不履行』で軍法会議にかけてやる」
「……」
「それと、今日から作業員の監視を強化する。……逃亡者が一人でも出たら、連帯責任で全員処刑だ。わかったな?」
完全な勝利ではない。
首の皮一枚繋がっただけだ。
だが、今はそれで十分。
「……承知いたしました。技術的な検討に入らせていただきます」
私は深く一礼し、クロードの腕を引いた。
「行きましょう、クロード」
「……ああ」
クロードは将軍を睨みつけたまま動こうとしなかったが、私の手の震えに気づいたのか、ハッとして私の肩を抱いた。
私たちは背を向け、執務室を出た。
***
廊下に出た瞬間、張り詰めていた糸が切れた。
膝から力が抜け、崩れ落ちそうになる。
「っと……! おい、しっかりしろ!」
クロードが慌てて私を支えた。
私は彼の胸に額を押し付け、荒い呼吸を繰り返した。
心臓が破裂しそうだ。冷や汗が背中を伝う。
怖かった。
本当は、立っているのがやっとだった。
「……無茶しやがって。撃たれたらどうするつもりだったんだ」
クロードの声も震えていた。
彼は私を抱きしめる腕に力を込めた。
「撃たれないわよ。……あいつは小物だもの。自分の地位が一番大事な男は、確実な勝算がない限り引き金は引けない」
「……それでもだ。俺の目の前にお前が立った時、心臓が止まるかと思った」
彼は私の頭に顔を埋めた。
「守ってくれて、ありがとな。……悔しいが、俺じゃあいつを論破できなかった」
「……いいのよ。貴方は技術で戦う人だもの。口喧嘩とハッタリは、私の専門分野よ」
私は顔を上げ、彼の頬に手を添えた。
無精髭のチクチクした感触。
生きている。彼も、私も。
「でも、問題は何一つ解決していないわ。……重列車砲。あんな化け物を、この橋に通すなんて」
私は廊下の窓から、建設中の橋を見上げた。
あの美しいアーチに、数百トンの鉄塊を載せる。
それは橋に対する冒涜であり、自殺行為だ。
「……できるの? クロード」
私が問うと、彼は苦渋に満ちた顔で首を振った。
「今のままじゃ不可能だ。……単純に補強すればいいって問題じゃねえ。重量が増えれば、基礎が持たない。基礎を広げれば、工期が間に合わない」
「じゃあ、詰み?」
「……いや」
クロードの目に、技術者としての鋭い光が戻った。
「道はあるかもしれない。……だが、それは賭けだ。今までの常識を全部ひっくり返すような、無茶苦茶な設計変更が必要になる」
「無茶苦茶?」
「ああ。……『吊り橋』と『アーチ橋』のハイブリッドだ。……理論上は可能だが、実際にやった奴はいねえ」
彼はポケットから、くしゃくしゃになったメモ用紙を取り出した。
そこには、既にいくつかのラフスケッチが描かれていた。
さっきの部屋で、銃を突きつけられながらも、彼は思考を止めていなかったのだ。
「エリザベート。……金はまだあるか?」
「ええ。モルガン氏から巻き上げた分が、まだ半分残っているわ」
「全部突っ込め。……最高強度のワイヤーと、追加の特級鋼が必要だ。それと、作業員を三交代制にして、24時間フル稼働させる」
彼は私を見た。
「将軍の鼻を明かしてやる。……あいつらが腰を抜かすような、化け物じみた強度を持つ『最強の橋』を作ってやるよ」
逆境を前にして、彼は笑っていた。
その不敵な笑みを見て、私も自然と口元が緩んだ。
「上等ね。……使い捨てになんてさせないわ。その橋で、帝国の軍隊ごと、私たちの未来へ運んでやりましょう」
私たちは歩き出した。
廊下の先には、兵士たちの怒号と、重苦しい現場の空気が待っている。
けれど、もう怖くはなかった。
法という盾と、技術という剣。そして共犯者としての絆。
武器は揃った。
ここからは、泥沼の反撃戦だ。




