第20話:軍靴の響き
かつて、この現場には「音楽」があった。
ハンマーの打撃音、蒸気の噴出音、そして男たちの威勢のいい掛け声。それらが複雑に絡み合い、未来を作るための交響曲を奏でていた。
けれど今、聞こえてくるのは不快な「雑音」だけだ。
ザッ、ザッ、ザッ。
規則正しく、しかし無機質な軍靴の響き。
銃剣が触れ合う金属音。
そして、監視役の兵士が飛ばす、意味のない怒号。
「おい貴様! 手を休めるな! 皇帝陛下への反逆とみなすぞ!」
「動きが遅い! 鞭を入れたほうがいいか?」
現場の空気は、鉛のように重く淀んでいた。
作業員たちは表情を失い、ただ機械のように手を動かしている。彼らの瞳から、あの祭りの夜に宿っていた輝きは消え失せていた。
ハンズも、ガストンも、泥まみれの顔を伏せ、銃口に怯えながら作業を続けている。
私は仮設オフィスの窓からその光景を見下ろし、ギリと奥歯を噛み締めた。
悔しい。
私が守り、育ててきた「城」が、土足で踏み荒らされている。
ここはもう、私たちの誇り高い現場ではない。ただの強制収容所だ。
「……お茶が入ったぞ、エリザベート」
背後から低い声がした。クロードだ。
彼が差し出したマグカップには、少しぬるくなった紅茶が入っていた。
彼の顔にも、疲労の色が濃い。目の下の隈は以前よりも深くなり、無精髭も伸びている。ここ数日、まともに眠っていないのだろう。
「……ありがとう」
私はカップを受け取った。
手が震えないように両手で包み込む。
「ゲルハルト将軍は?」
「奥の部屋で朝から酒盛りだ。……設計図をツマミにな」
クロードが憎々しげに吐き捨てた。
あの日、軍部が乗り込んできてから三日。ゲルハルト将軍は現場の指揮権を掌握し、好き放題に振る舞っていた。
資材の横流しこそまだしていないが、彼らの目的はもっとたちが悪い。
「……呼んでいるぞ」
クロードが顎で奥の扉――かつて私の執務室だった部屋――をしゃくった。
「新しい『仕様書』が出来上がったらしい。……俺たちに説明があるそうだ」
「仕様書……?」
嫌な予感がした。
技術の「ぎ」の字も知らない軍人が作る仕様書など、ろくなものであるはずがない。
「行きましょう。……逃げるわけにはいかないわ」
私はマグカップを置き、ジャケットの襟を正した。
たとえ主導権を奪われても、私はまだここの総責任者だ。
虚勢でもいい。顎を上げて、堂々と歩かなければならない。
***
執務室のドアを開けると、強烈な紫煙とアルコールの臭いが鼻をついた。
かつて私が整然と書類を並べていたマホガニーの机は、空のワインボトルと吸い殻で埋め尽くされている。
その向こうに、ゲルハルト将軍がふんぞり返っていた。
「おお、来たか。待ちくたびれたぞ」
彼は赤い顔でニタリと笑い、手元の羊皮紙をパラパラと振った。
「座れ。……茶はないがな」
「結構です。立って聞きます」
私が冷たく答えると、彼はつまらなそうに鼻を鳴らし、クロードへと視線を移した。
「技師殿もご苦労。……貴様には特に、聞いてもらわねばならん話だ」
ゲルハルトは羊皮紙を机の上に広げた。
そこには、素人が描いたような稚拙な図面と、乱暴な筆跡で数字が書き殴られていた。
「これが、我々参謀本部が決定した『最終仕様書』だ」
「……見せてもらおう」
クロードが机に近づき、図面を覗き込む。
数秒後。
彼の眉間が深々と刻まれ、顔色が怒りで真っ赤に染まった。
「……なんだ、これは」
彼の声が震えている。
「正気か? ……橋の床板をすべて『装甲鋼板』に変えろだと? それに、この荷重設定……従来の三倍? 一体何を走らせるつもりだ!」
「決まっているだろう」
ゲルハルトは事もなげに言った。
「『重列車砲』だ」
重列車砲。
その単語を聞いた瞬間、私の背筋に悪寒が走った。
それは帝国軍が極秘に開発していると噂されていた、巨大な大砲を積んだ列車だ。都市一つを灰にできるほどの火力を持ち、その重量は数百トンにも及ぶという、走る要塞。
「この橋は、対リベール攻略の要となる。……我が軍の虎の子である重列車砲が渡れなくては意味がないのだよ」
「ふざけるな!!」
バン!
クロードが机を叩きつけた。ワインボトルが倒れ、深紅の液体が図面を汚す。
「三倍だぞ!? 今の設計は、ギリギリのバランスで成り立ってるんだ! 特級鋼を使って軽量化したからこそ、この峡谷の風に耐えられるアーチが組める。……そこに数百トンの鉄塊を走らせてみろ! 床板を変えるだけで済む話じゃねえ! 橋全体が自重で崩壊する!」
クロードの主張は、技術者として当然の叫びだった。
繊細なガラス細工の上に、鉄の塊を置けと言っているようなものだ。
「ならば、補強すればいいだろう」
ゲルハルトは悪びれもせず、葉巻の灰を床に落とした。
「柱を太くしろ。鉄骨を増やせ。……簡単なことじゃないか」
「簡単だと……? 貴様、物理法則を魔法か何かだと思ってるのか!?」
クロードが喰ってかかる。
「柱を太くすれば風を受ける面積が増える! そうなれば横風で橋がねじ切れる! ……俺たちがどれだけ計算して、どれだけ削ってこの形にしたと思ってるんだ!」
「知らんよ、そんなことは」
ゲルハルトは冷酷に言い放った。
「貴様は『天才』なのだろう? だったら、黙って我々の要望通りに作ればいい。……それとも何か? 自分の腕に自信がないのか?」
「腕の問題じゃねえ! 『理屈』が通らねえって言ってんだ!」
「理屈などどうでもいい!!」
ゲルハルトが立ち上がり、怒号を飛ばした。
その威圧感に、部屋の空気が凍りつく。
「これは軍命令だ。……いいか、よく聞け。この橋は、リベールの商人を喜ばせるためのものではない。我が帝国の鉄槌を下すための『武器』なのだ」
彼は机を回り込み、クロードの目の前に立った。
「安全性? 耐久年数? ……笑わせるな。一度だ。たった一度、重列車砲が渡れればそれでいい。その後で崩れ落ちようが知ったことか」
耳を疑った。
使い捨て。
彼らは、この世紀の大事業を、多くの人々の血と汗の結晶を、たった一回の砲撃のために使い捨てにするつもりなのだ。
「……断る」
クロードが低く、しかしはっきりと告げた。
その瞳は、琥珀色の炎のように燃えていた。
「俺は技術屋だ。自分の作ったものが壊れると分かっていて、世に出すことなんてできねえ。……ましてや、人殺しのための使い捨て道路なんて、死んでも御免だ」
「……ほう?」
ゲルハルトの目が細められた。
危険な光。爬虫類が獲物を狙う目。
「命令拒否か。……現場での上官命令違反がどうなるか、知らんわけではあるまい?」
「知るかよ。俺は軍人じゃねえ」
「ここでは俺が法律だと言ったはずだが?」
ゲルハルトの手が、腰のホルスターに伸びた。
「クロード、やめて!」
私が叫んで止めに入ろうとした、その時。
カチャリ。
乾いた金属音が響いた。
ゲルハルトの手には、黒光りする軍用拳銃が握られていた。
その銃口は、迷うことなくクロードの眉間に向けられていた。
時が止まった。
クロードの動きが止まる。
銃口の黒い穴が、死への入り口のように口を開けている。
「……言ってみろ、技師殿」
ゲルハルトは楽しげに、引き金に指をかけた。
「もう一度、断ると言ってみろ。……その優秀な脳味噌を、床にぶちまけてやる」
冗談ではない。
この男は本気だ。人を殺すことに何の躊躇いもない、生粋の軍人の目だ。
クロードの額に、脂汗が滲む。
けれど、彼は目を逸らさなかった。銃口を睨みつけたまま、唇を震わせている。
恐怖で震えているのではない。屈辱と、怒りで震えているのだ。
「……撃てよ」
クロードが唸るように言った。
「俺を殺せば、この橋は完成しない。……あの図面を理解して、現場を動かせるのは俺だけだ」
「代わりなどいくらでもいる」
「いねえよ! ……この峡谷の風を読めるのも、あの複雑なトラスを組めるのも、俺と、俺が育てた作業員たちだけだ! 帝都から来た能書きだけの技術将校に何ができる!」
それは事実だった。
この橋は、クロードという特異点があって初めて成り立つ奇跡の構造物だ。彼がいなくなれば、現場は止まる。
しかし、ゲルハルトはニヤリと笑った。
「そうだな。……貴様は殺すには惜しい。だが」
彼は銃口をずらした。
クロードの頭から――窓の外へ。
「貴様の代わりに、あの薄汚い共和国の作業員どもを減らすのはどうだ? ……見せしめに一人ずつ、谷底へ突き落としてやるのも一興だな」
卑劣。
どこまでも卑劣な男。
クロードの弱点が、自分自身ではなく、仲間たちの命であることを完全に見抜いている。
「き、貴様……っ!!」
クロードが激昂して掴みかかろうとする。
その瞬間、ゲルハルトが発砲した。
パンッ!
銃弾はクロードの足元の床を抉った。
木片が飛び散り、硝煙が舞う。
「動くな。……次は足だ」
クロードが動きを止める。
悔しさに顔を歪め、拳を握りしめすぎて血が滴り落ちている。
どうしようもない力の差。暴力という理不尽な壁。
私の大切な共犯者が、蹂躙されている。
私の誇り高い現場が、汚されている。
――許さない。
私の中で、何かが弾ける音がした。
恐怖?
いいえ。これは怒りだ。
私の「所有物」に手を出し、あまつさえ私の前で下品な鉄屑を振り回したこの男への、貴族としての、そして一人の女としての激しい怒り。
私は一歩前に出た。
クロードと銃口の間に、割って入るように。
扇子を握りしめる手に、かつてないほどの力がこもる。
待っていなさい、将軍閣下。
その傲慢な口を、今すぐに塞いで差し上げるわ。




