第24話:身代わりの傷
「……エリザベート! おい! 目を開けろ!」
遠くから、悲鳴のような声が聞こえる。
誰?
そんなに耳元で叫ばないで。頭がガンガンするわ。
私は重い瞼をこじ開けた。
視界がぼやけている。世界が灰色に霞んでいる。
最初に映ったのは、夜空ではなく、男の顔だった。
クロード。
彼は私を抱きかかえ、見たこともない形相で覗き込んでいた。
いつも冷静で、憎まれ口ばかり叩く彼の顔が、今は蒼白で、唇が震えている。
「……あ……」
声を出そうとして、喉が焼けるように痛いことに気づいた。
そして、それ以上の痛みが、背中全体を支配していた。
熱い。
まるで、背中に焼きごてを押し当てられたような灼熱感。
「動くな! ……クソッ、血が止まらねえ……!」
クロードの手が、私の背中に回されている。
その感触が、ヌルリと生温かい。
ああ、そうか。
私、怪我をしたのね。
記憶が急速に巻き戻る。
除去防止装置の作動音。赤い閃光。そして、私が彼を突き飛ばした瞬間。
幸いだったのは、作動したのが「信管のみ」だったことだ。
もしメインのダイナマイトが誘爆していれば、私たちは今頃、肉片になって川に流されていただろう。
私の体は、信管の爆発と、飛び散った破片を受け止める盾になったのだ。
「……生きてる、わね……私たち……」
私が掠れた声で呟くと、クロードはギロリと私を睨んだ。
その瞳には、涙が溜まっているように見えた。
「生きてるだ? ……当たり前だ! 誰が死なせるか!」
彼は自分のシャツを強引に引き裂くと、それを私の背中に押し当てた。
激痛に、私は思わず悲鳴を上げる。
「ぐっ……! い、痛い……!」
「我慢しろ! 圧迫止血だ! ……破片が食い込んでる。深くはないが、出血が多い」
彼は必死だった。
額から脂汗を流し、血に染まる手で私の傷口を押さえている。
その手が、小刻みに震えているのがわかった。
「……どうして」
彼が絞り出すような声で言った。
「どうして飛び出した。……俺が見抜けなかった罠だ。俺が食らえばよかったんだ。それなのに……」
「……計算、よ」
私は強がって、痛みに耐えながら口角を上げた。
「貴方が死んだら、橋は完成しない。……でも、私が怪我をする分には、指揮は執れる……」
「ふざけるな!!」
クロードが絶叫した。
夜の峡谷に、彼の怒号が木霊する。
「計算だと!? 損得勘定で命を張ったのか!? ……馬鹿野郎!!」
彼は私を抱きしめる腕に力を込めた。
痛いけれど、心地よい。
「お前が死んだら……! 橋なんて何の意味もないんだよ!」
その言葉に、時が止まった気がした。
橋よりも、夢よりも、私の命が大事だと言った。
あの「鉄と蒸気」しか愛せないはずの男が。
「……国も、技術も、どうでもいい! ……お前がいなくなるなら、あんな橋、俺が自分の手で爆破してやる!」
暴論だ。
技術者としてあるまじき発言だ。
でも、それは今まで聞いたどんな愛の言葉よりも、私の胸を深く貫いた。
「……馬鹿ね」
私は震える手を持ち上げ、彼の頬に触れた。
涙が一筋、私の指を伝って落ちた。
「そんなことしたら……承知しないわよ。……私がいくら投資したと思ってるの」
「……うるせえ。知るか」
彼は私の手を握りしめ、自分の頬に押し付けた。
「……絶対に助ける。……死なせねえ」
彼は私を抱き上げた。
いわゆる「お姫様抱っこ」だ。背中の傷に触らないよう、慎重に、しかし力強く。
「……宿舎に戻るぞ。ガストンを叩き起こして、医者を呼ばせる」
「待って……将軍に、気づかれるわ……」
「構うもんか! 誰が邪魔しようが、蹴散らして進む!」
彼の目には、もう迷いも恐怖もなかった。
あるのは、私を守り抜くという、鬼気迫る覚悟だけ。
***
移動の振動が、傷に響く。
意識が遠のきそうになるのを、必死に繋ぎ止める。
ここで眠ってしまったら、彼が心配する。取り乱して、本当に将軍に殴り込みをかけかねない。
私たちは現場の裏道を通り、人目を避けて宿舎へと向かった。
途中、何度か見回りの兵士の気配がしたが、クロードはそのたびに物陰に身を潜め、獣のような気配のなさでやり過ごした。
宿舎の裏口。
鍵を壊して中に入る。
彼は私を、自分の部屋――一番近い場所――へと運んだ。
ベッドにうつ伏せに寝かせられる。
シーツが血で汚れるのを気にする余裕などなかった。
「……待ってろ。水と、包帯を持ってくる」
彼が離れようとした時、私はその袖を掴んだ。
「……医者は、呼ばないで」
「あ? 何言ってんだ! 傷を見ろ! 素人の手当てじゃ……」
「呼ばないで……!」
私は痛みを堪えて声を張り上げた。
「軍医を呼べば、報告が行くわ。……『不審な爆発事故で公爵令嬢が負傷』なんてことになれば、将軍はここぞとばかりに私を本国へ送還するでしょう」
「……!」
「そうしたら、終わりよ。……現場は完全に掌握される。橋は軍事利用され、貴方は使い捨てにされる」
私は懇願するように彼を見つめた。
「お願い。……貴方が治して。……精密機械のメンテナンスが得意なんでしょう?」
「お前……」
クロードは歯を食いしばり、拳を握りしめた。
葛藤している。私の体のことと、今後の状況を天秤にかけて。
やがて、彼は長く息を吐き出した。
「……わかった。覚悟しろよ。麻酔なしで破片を抜くんだ。……地獄を見るぞ」
「平気よ。……貴族の忍耐力を舐めないで」
彼は頷き、部屋の隅から救急箱と、私のために隠し持っていたブランデーを取り出した。
ナイフを火で炙り、消毒する。
その横顔は、外科医のように真剣で、冷徹だった。
「……飲むか?」
「いいえ。……意識が混濁するのは嫌だわ」
「そうか。……なら、これを噛んでろ」
彼は清潔なタオルを丸めて、私の口元に当てた。
私はそれを強く噛み締める。
クロードがナイフを構え、私の背中に手を添えた。
その手が、小刻みに震えているのが伝わってくる。
怖いのだ。
自分の手で、私の体を傷つけることが。
「……大丈夫よ、クロード」
私はタオル越しに、くぐもった声で伝えた。
「貴方の腕を、信じているわ」
その言葉に、彼の手の震えが止まった。
彼は深く息を吸い込み、覚悟を決めた眼差しで頷いた。
「……始めるぞ」
冷たいナイフの切っ先が、肌に触れる。
私は目を閉じ、来るべき痛みに備えて全身を強張らせた。
長い、長い夜が始まろうとしていた。




