第17話:仮面越しの告白
広場は、光と音の洪水だった。
アコーディオンの哀愁を帯びた音色に、バイオリンの軽快なピチカートが絡み合う。
太鼓のリズムが地面を揺らし、数百人の足踏みがそれに呼応する。
そこは、国境の街グレンデルの住民たちが、明日への不安も、昨日の疲れも全て忘れ、ただ「今」を謳歌する祝祭の渦だった。
「すごい熱気ね……!」
私が声を張り上げると、隣のクロードが顔をしかめた。
「ああ。うっかりしてると踏み潰されそうだ」
「何弱気なことを言ってるの! さあ、踊るわよ!」
私が彼の腕を引こうとした時、クロードがふと足を止めた。
彼の視線の先には、露店の一角で売られている「紙の仮面」があった。
狐、狼、道化師……粗末な作りだが、カラフルに彩られた張り子のお面だ。
「……おい、あれを買うぞ」
「え? お面なんて、子供っぽい……」
「いいから。……素顔のままだと、ガストンたちに見つかって酒盛りに連行されるぞ」
なるほど。それは困る。
せっかくの二人きりの時間――いいえ、視察の時間を邪魔されたくない。
私たちは露店で小銭を払い、二つの仮面を買った。
クロードが選んだのは、どこか彼に似た不愛想な「狼」の仮面。
私が選んだのは、凛とした目つきの「白猫」の仮面。
「……似合うな。生意気そうなところがそっくりだ」
「あら、貴方こそ。噛み付きそうなところが瓜二つよ」
私たちは顔を見合わせて笑い、仮面をつけた。
視界が少し狭くなる。
けれど、その不自由さが逆に、私たちを「総責任者」と「主任技師」という立場から解放してくれるような気がした。
今、ここにいるのは、ただの狼と猫。
名前のない、一組の男女だ。
***
私たちは手を取り合い、踊りの輪の中へと飛び込んだ。
帝都の舞踏会のような、優雅で計算されたステップではない。
リベール共和国の民俗舞踊――フォークダンスだ。
男女が円になり、手拍子に合わせて回り、パートナーを次々と変えていく。単純だが、それゆえに熱狂的な踊り。
私はドレスの裾ではなく、ワンピースのスカートを翻して回った。
見知らぬおじさんと腕を組み、笑い合う。
子供たちと手を繋ぎ、跳ね回る。
そして、曲の節目でパートナーが入れ替わるたび、私は仮面越しの瞳を探した。
いた。
人混みの向こう、狼の仮面をつけた背の高い男。
彼もまた、恰幅のいいおばさんに強引に回されたり、酔っ払いの男と肩を組んだりして、もみくちゃにされている。
その姿が可笑しくて、愛おしくて、私は仮面の下で吹き出した。
やがて、曲調がアップテンポに変わる瞬間。
人波が動き、私たちの距離が縮まる。
ガシッ。
差し出された手が、私の腰を掴んだ。
引き寄せられる。
狼の仮面が、目の前に迫る。
「……捕まえた」
「遅いわよ、狼さん」
私たちは呼吸を合わせ、激しいリズムに合わせてステップを踏んだ。
ターン、ステップ、ジャンプ。
彼の手は力強く、私のリードを完璧にこなす。意外だった。偏屈な技師のくせに、踊りは上手いなんて。
「悪くないステップだ」
「貴族の嗜みよ。……貴方こそ、やるじゃない」
「昔、妹とよく踊ったんだよ」
その言葉に、私は一瞬だけ動きを止めたが、すぐに曲のうねりに飲み込まれた。
世界が回る。
ランタンの光が流星のように尾を引く。
汗が滲む。息が切れる。
でも、止まりたくない。
繋いだ手から伝わる彼の体温だけが、この回転する世界での確かな軸だった。
***
どれくらい踊り続けただろうか。
楽団が小休止に入り、広場の熱気が少しだけ引いた頃。
私たちは息を切らしながら、人混みを離れて広場の隅にある噴水の縁に腰を下ろした。
仮面を外す。
夜風が、火照った頬に心地よい。
「……はあ、はあ。……死ぬかと思ったわ」
「……全くだ。現場仕事よりハードだぜ」
クロードがシャツの襟を寛げ、乱暴に汗を拭う。
私もリボンが解けかけた髪を直し、大きく息を吐いた。
喉が渇いているはずなのに、胸がいっぱいで何も欲しくない。この高揚感だけで生きていけそうだ。
私たちはしばらく、言葉もなく広場の喧騒を眺めていた。
楽しげな家族連れ。恋人たち。酔っ払って歌う作業員たち。
平和な、ありふれた幸せの光景。
「……エリザベート」
不意に、クロードが口を開いた。
その声は、祭りの騒音にかき消されそうなほど低く、静かだった。
「ん?」
「俺が以前、この峡谷が憎いと言ったのを覚えてるか」
「ええ。……お父様を亡くされたのよね」
あの月夜、彼が語った言葉を思い出す。
『嵐で船が出せず、医者が間に合わなかった』と。
クロードは手の中の狼の仮面を見つめ、指先でその縁をなぞった。
「……半分は嘘だ」
「え?」
「親父が死んだのは事実だ。だが、船が出せなかったのは、ただの嵐のせいじゃない」
彼は顔を上げ、広場の向こう――帝国の国境がある方角を睨みつけた。
その琥珀色の瞳に、暗い炎が揺らめいている。
「12年前だ。……帝国軍が、俺の故郷の村を侵攻した」
心臓がドクンと跳ねた。
12年前。
それは、前の大戦の終わりの時期だ。国境付近で激しい戦闘があったことは、歴史の教科書で知っている。
「俺たちは逃げた。親父と、お袋と、幼い妹を連れて。……リベール側へ渡るために、この『竜の顎』まで来たんだ」
彼の声は淡々としていた。それが逆に、事の凄惨さを物語っていた。
「だが、橋はなかった。渡し船に乗ろうとしたが、帝国の砲撃で船着場は火の海だった。……親父は、俺たちをボートに乗せるために、瓦礫の下敷きになった」
彼は拳を握りしめた。
白い関節が浮き出るほど強く。
「目の前だったよ。……親父が沈んでいくのも、妹が泣き叫ぶのも。……全部、目の前で起きたことだ」
言葉が出なかった。
私が「自然の猛威」だと思っていた彼の喪失は、もっと残酷な、「人間の悪意」によるものだったのだ。
そして、その悪意を向けたのは――私の祖国、帝国だ。
「俺は誓った。……いつか絶対に、この峡谷に橋を架けてやると。誰にも、二度とあんな思いはさせない。戦争だろうが嵐だろうが、決して落ちない、鋼鉄の道を」
彼は自嘲気味に笑い、私を見た。
「皮肉なもんだよな。……その夢を叶えるために手を組んだ相手が、憎むべき帝国の貴族様だなんて」
その言葉は、刃物のように私の胸を刺した。
謝るべきだろうか。
ごめんなさい、と。私の国が、貴方の家族を奪ってごめんなさい、と。
いいえ。
そんな安っぽい謝罪は、彼への侮辱だ。
私は当事者ではないけれど、その恩恵を受けて育った帝国の貴族だ。罪悪感から目を逸らしてはいけない。
私は、自分の膝の上に置かれた彼の手を見た。
職人の手。
傷だらけで、油が染み付いていて、そして誰よりも温かい手。
この手が、過去の復讐のためではなく、未来を作るために動いているのだとしたら。
私は、そっと自分の手を重ねた。
言葉は発さなかった。
ただ、強く、握りしめた。
クロードが驚いたように私を見る。
「……エリザベート?」
「……同情なんてしないわ」
私は彼を見つめ返した。
仮面は外している。今の私は、ありのままのエリザベートだ。
「貴方の過去は変えられない。私の国の罪も消えない。……でも」
私は彼の手を両手で包み込んだ。
「未来は作れるわ。……貴方が橋を架けるなら、私はその橋を守る。戦争の道具にはさせない。誰かが逃げるためではなく、誰かと出会うための橋にする」
これは誓いだ。
あの日、月夜の下で交わした契約を、さらに深く魂に刻み込むための。
「だから……私を使いなさい、クロード。貴方の夢のために。帝国の貴族である私が、貴方の隣にいること。それが、一番の復讐であり、証明になるはずよ」
クロードは目を見開いて私を見ていた。
やがて、その瞳から険しい光が消え、穏やかな、どこか泣き出しそうな色が浮かんだ。
「……ああ。そうだな」
彼は私の手を握り返した。
力強く。痛いほどに。
「やっぱりお前は、最高の悪女だ」
「知ってるわ」
私たちは広場の片隅で、繋いだ手の温もりだけを頼りに、長い時間座っていた。
祭りの音楽が遠く聞こえる。
先ほどまでの熱狂とは違う、静かで、深く、絶対的な「熱」が、二人の間に流れていた。
もう、言葉はいらなかった。
彼が背負ってきた過去の重みを、半分私が背負う。
その代わり、私がこれから立ち向かう未来の困難を、彼が切り拓く。
仮面越しの告白ではない。
これは、素顔の魂の告白だった。
「……戻ろうか」
「ええ」
クロードが立ち上がり、私をエスコートするように手を差し出した。
私はその手を取り、立ち上がった。
噴水の水面に、二つの影が揺れている。
私たちは仮面を手に持ったまま、祭りの終わりの気配が漂う広場を後にした。
繋いだ手は、宿舎に着くまで離れることはなかった。




