第18話:一番目の乗客
祭りの喧騒が、遠い潮騒のように背後へ退いていく。
私たちは手を繋いだまま、夜の闇に沈む工事用道路を歩いていた。
道灯りはない。頼りになるのは月明かりと、時折雲の切れ間から覗く星の瞬きだけだ。
けれど、怖くはなかった。
隣を歩くクロードの掌から伝わってくる熱が、どんなランタンよりも確かに私を導いてくれている気がしたからだ。
「……静かね」
「ああ。祭りの後ってのは、妙に耳がキーンとしやがる」
クロードが少し照れくさそうに鼻を鳴らした。
彼の歩幅は、普段現場を歩く時よりもずっとゆっくりだ。ドレス(今はワンピースだが)を着た私に合わせてくれているのだろう。
そんな些細な気遣いが、今の私には酷く甘く感じられた。
ふと、繋いだ手を見る。
ゴツゴツとした職人の手と、白く細い貴族の手。
不釣り合いだ。
帝都の夜会なら、誰もが眉をひそめるような組み合わせだろう。
でも、今の私にとって、この無骨な感触以上に安心できるものはなかった。
しばらく無言で歩いていると、視界が開けた場所に出た。
峡谷を見下ろす高台だ。
「……少し、休んでいくか」
クロードが足を止めた。
私は黙って頷いた。正直に言えば、まだ帰りたくなかったのだ。この夢のような夜を、一秒でも長く引き伸ばしたかった。
私たちはガードレール代わりに置かれた鉄骨に並んで腰掛けた。
眼下には、漆黒の峡谷「竜の顎」が口を開けている。
そして、その闇を切り裂くように、建設中の橋が月光を浴びて浮かび上がっていた。
「……すごい」
私は息を呑んだ。
昼間、現場の中から見る橋は、鉄と油の塊だ。
けれど、こうして夜に遠くから眺めると、それはまるで巨大な銀色の竜骨のように美しく、神々しくさえ見えた。
両岸から伸びたアーチが、あと少しで中央で結ばれようとしている。
未完成ゆえの、張り詰めた緊張感と期待感。
「あそこまで来たんだな」
クロードがポツリと言った。彼は懐からタバコを取り出そうとして、やめた。
代わりに、ポケットから出したのは、祭りの屋台で買った砂糖菓子の残りだった。
「……食うか?」
「あら、まだ持っていたの? 溶けてない?」
「ギリギリセーフだ」
彼は包み紙を開き、欠片を私に差し出した。
私はそれを口に含む。
甘い。
そして少しだけ、彼のポケットの布の味がした。
「……特級鋼のおかげだ」
彼が橋を見つめたまま語り始めた。
「お前がふんだくってきたあの鋼材は、最高だ。粘りがあって、加工しやすくて、何より強い。……あれなら、設計通りの曲線が出せる」
「ふふっ、ふんだくってきたとは人聞きが悪いわね。『投資』させたのよ」
「違いない」
彼は短く笑い、そして目を細めた。
「あと三ヶ月だ」
「え?」
「あと三ヶ月で、アーチが繋がる。……そうしたら、次は線路の敷設だ。年内には、試運転まで行けるかもしれない」
年内。
その言葉に、胸が高鳴ると同時に、少しだけの寂しさが過った。
完成してしまえば、この「共犯者」としての時間は終わるのだろうか。
私は帝都へ帰り、彼は次の現場へ行ってしまうのだろうか。
私が黙り込んでいると、クロードが不意にこちらを向いた。
月明かりが、彼の彫りの深い顔を照らし出している。
その琥珀色の瞳が、真剣な光を宿して私を射抜いていた。
「……エリザベート」
「な、何?」
名前を呼ばれただけで、心臓が跳ねた。
広場でのダンスの余韻が、まだ体の中に残っている。
「完成したら……一番最初に、あんたを乗せてやる」
風の音が止まった気がした。
「……え?」
「約束だ。この橋が完成して、一番列車が走る時……。その助手席には、お前を乗せる」
彼は私の目を逸らさずに言った。
「皇帝陛下でも、出資者のモルガンでもねえ。……俺と一緒に、一番最初にあの風を切って渡るのは、お前だ」
それは、ただの順番の話ではなかった。
技術者にとって、自らが設計した橋を最初に渡るというのは、命を預ける行為だ。最大の誉れであり、責任の証だ。
それを、私と共にすると言っている。
「助手席」という言葉が、あまりにも特別に響く。
胸が熱い。
言葉がうまく出てこない。
いつものように「光栄ね」と皮肉っぽく返そうとしたけれど、喉が震えて声にならない。
「……いいの? モルガン氏には『一等席を用意する』って約束しちゃったわよ?」
「客席の話なんかしてねえよ。機関車の、釜の前の話だ」
彼はニヤリと悪戯っぽく笑った。
「煤だらけになるぞ。ドレスも真っ黒になる。……それでもいいなら、乗せてやる」
「……馬鹿ね」
私は目頭が熱くなるのを堪え、精一杯の笑顔を作った。
「当たり前でしょう。……私が誰だと思っているの? この現場のボスよ。一番良い席は、私が独占するに決まっているわ」
私が答えると、彼は満足げに頷いた。
「よし。言質は取ったからな。……逃がさねえぞ」
逃がさない。
その言葉の響きに、私は完全に降参した。
ああ、どうしよう。
私、この男のことが好きだ。
才能に惚れ、不器用さに呆れ、そしてその情熱に焦がれている。
国境も、身分も、過去の因縁も超えて。
ただ一人の「クロード・ガーランド」という人間に、惹かれているのだ。
認めてしまえば、それはあまりにも単純な事実だった。
私たちは再び手を繋ぎ、高台を降りた。
宿舎までの道のりは、もう残りわずかだ。
この夜が終われば、また「総責任者」と「主任技師」に戻る。
でも、この約束がある限り、私たちの絆は揺るがない。
そう信じられた。
***
宿舎の前に着いた頃には、祭りの音も完全に消え、深夜の静寂が戻っていた。
古びたレンガ造りの建物が、月光の下で黒く佇んでいる。
「……送ってくれてありがとう」
私は手を離すのが惜しくて、少し時間をかけてワンピースの裾を直した。
「ああ。……ゆっくり休めよ。明日はハンズたちがうるさいだろうからな」
「そうね。……貴方も、飲みすぎないようにね」
ありふれた会話。
でも、別れ難い空気が二人の間に流れている。
クロードが、ふと手を伸ばしてきた。
私の髪に触れるか触れないかの距離で、指先が止まる。
「……エリザベート」
「……はい」
彼が一歩近づく。
影が重なる。
心臓が早鐘を打つ。
目を閉じるべきだろうか。それとも――。
その時だった。
ドォォォォォン……!!
遠くで、重苦しい音が響いた。
花火ではない。
もっと低く、地を這うような音。
そして、空気がビリビリと震えた。
「……なんだ?」
クロードの表情が一瞬で変わり、技師の顔になった。
彼は音のした方角――帝国の国境側を鋭く睨みつけた。
「今の音……発破か? いや、砲撃のような……」
「砲撃……?」
背筋が寒くなった。
祭りの夜に? まさか。
「……いや、気のせいか。この時間帯に採石場で発破をかけることもある」
クロードは自らに言い聞かせるように呟き、私に向き直った。
だが、その瞳には警戒の色が残っていた。
「……とりあえず、中に入れ。鍵はしっかり閉めろよ」
「え、ええ。わかったわ」
甘い雰囲気は霧散していた。
得体の知れない不安が、足元から忍び寄ってくる。
「おやすみ、クロード」
「ああ。おやすみ」
私は宿舎に入り、重い扉を閉めた。
ガチャリと鍵をかける。
ドアに背中を預け、私は大きく息を吐いた。
心臓はまだ高鳴っている。
けれど、それは先ほどまでのときめきとは違う、不吉な予感による鼓動だった。
私は窓辺に歩み寄り、カーテンの隙間から外を覗いた。
クロードがまだそこに立っていた。
彼はしばらく帝国の方向を睨みつけていたが、やがて踵を返し、闇の中へと消えていった。
あの音は何だったのだろう。
ただの採石場の音ならいい。
でも、私の「悪女」としての勘が告げている。
平和な時間は終わったのだと。
私は胸元の、クロードに貰ったぬいぐるみを強く抱きしめた。
嵐の前の、つかの間の休息。
それが終わりを告げようとしていることを、月だけが知っていた。




