第16話:街の祝祭
季節は晩秋を迎えようとしていた。
リベール共和国から届いた「特級鋼」の効果は絶大だった。
クロードの再設計したトラス構造は、従来の鋼材では耐えられなかった負荷を見事に受け止め、巨大なアーチの基礎部分が、ついに峡谷の両岸からせり出し始めたのだ。
鉄の腕が、空中で握手を交わそうとしている。
その光景は、グレンデルの住民たちをも熱狂させた。
そして今日。
アーチの第一段階接合の成功を祝って、街全体で大規模な「架橋祭」が開かれることになった。
「ボス! 今日くらいは仕事の手を休めてくださいよ!」
「そうですよ! 現場のことは俺たちに任せて、街で美味いもんでも食ってきてください!」
夕方。
現場事務所で書類と格闘していた私は、ハンズとガストンたちによって、半ば強制的に外へ連れ出された。
「ちょっと、まだ来月の予算案が……」
「そんなもん明日でいいですって! ほら、主任も待ってますから!」
背中を押されて宿舎の前に連れて行かれると、そこには既にクロードが立っていた。
彼はいつもの油まみれの作業着ではなく、洗いざらしだが清潔な白いシャツに、茶色のベストを着ていた。髪も少し整えられている。
「……なんだ、その格好は」
私を見るなり、彼が眉をひそめた。
無理もない。私はまだ、泥のついた作業着のままだ。
「貴方こそ、随分と小綺麗にしているのね。誰かとデート?」
「ハンズの野郎が『ボスの護衛を頼みます』ってうるさいんだよ。……ほら、着替えてこい。そんな格好で歩いたら、祭りの余興と間違われるぞ」
彼はぶっきらぼうに言って、顔を背けた。
護衛、ね。
体のいい口実だということは分かっている。作業員たちが気を使って、私たち二人を休ませようとしているのだ。
「……わかったわ。少し待っていて」
私は宿舎に戻り、クローゼットを開けた。
ドレスはもうない。あるのは、この前切り刻んだ残骸か、実用一点張りの作業着だけ。
でも、せっかくの祭りだ。
少しは「女の子」らしい格好がしたいと思ってしまうのは、あのオルゴールのせいだろうか。
私はトランクの底から、以前変装用に買ったまま使っていなかった、平民の娘が着るようなワンピースを取り出した。
淡いブルーの生地に、小さな花の刺繍が入っている。
コルセットは締めず、髪もシンプルにリボンで一つに束ねる。
鏡に映った自分は、どこからどう見ても公爵令嬢には見えない。ただの町娘だ。
「……ま、こんなものでしょう」
私は少しだけ頬を叩いて赤みを差し、外へ出た。
***
「お待たせ」
私が声をかけると、クロードが振り返った。
そして、私の姿を見て、数秒間動きを止めた。
「……どうしたの? やっぱり変かしら」
「……いや。いつもの高慢ちきなドレスよりは、マシだ」
彼は咳払いを一つして、視線を逸らした。
素直じゃない男。
でも、耳が赤いことには触れないでおいてあげる。それが大人の余裕というものよ。
「行きましょう、クロード。私の護衛なんでしょう? はぐれないようにしっかり頼むわね」
「へいへい。迷子になっても探さないからな」
私たちは並んで歩き出した。
夕暮れのグレンデルは、いつになく華やいでいた。
メインストリートには無数のランタンが灯り、両国の国旗が飾られている。
通りには屋台が立ち並び、香ばしい匂いが漂っていた。
「すごい人ね……」
私は圧倒された。
帝国の兵士と共和国の商人が肩を組んで歩いている。子供たちが笑いながら走り回り、広場では楽団が陽気な音楽を奏でている。
戦争の危機が迫っている国境の街とは思えないほど、平和で、エネルギーに満ちていた。
そして、その中心にあるのが、私たちが作っている「橋」なのだと思うと、胸が熱くなった。
「おい、あれ食ってみろ。リベールの串焼きだ」
クロードが屋台を指差した。
スパイシーな香りが鼻をくすぐる。
私が財布を出そうとすると、彼が制した。
「今日は俺の奢りだ。……ボーナスも出たしな」
「あら、私の出した給料で私を餌付けする気?」
「うるさい。いいから食え」
彼が買ってきたのは、羊肉の串焼きだった。
行儀悪く歩きながら齧り付く。
肉汁とスパイスが口の中に広がる。
「美味しい! 何これ、帝都の料理より刺激的だわ」
「だろ? こっちの屋台じゃ定番なんだ。……ほら、口についてるぞ」
まただ。
彼は自然な動作で、私の口元を指先で拭った。
以前より手つきが優しい気がして、心臓が跳ねる。
周囲から見れば、私たちは完全に「祭りに来た恋人同士」に見えていることだろう。
実際、すれ違う人々が私たちを見て微笑ましそうな顔をしている。
「……ねえ、クロード」
「ん?」
「私、こんな風に街を歩くの、初めてかもしれない」
「……箱入り娘だからな」
「違うわ。いつも馬車から見下ろしていただけだったの。……地面に近い場所って、こんなに暖かくて、匂いが濃いのね」
私は雑踏の熱気を感じながら呟いた。
泥にまみれ、汗をかき、安い串焼きを食べる。
今の私は、アルニム公爵家の令嬢ではない。ただのエリザベートだ。
それがこんなに心地よいなんて。
「……悪くないだろ」
クロードがポツリと言った。
「お前が降りてきてくれて、現場の連中も喜んでる。……俺もな」
最後の一言は、雑踏の音にかき消されそうなほど小さかった。
でも、私の耳にはしっかりと届いた。
私は嬉しさを隠すために、わざと大きな声で言った。
「あら、あっちで射的をやっているわ! 勝負しましょう、クロード! 負けた方が荷物持ちよ!」
「はあ? 技師の動体視力を舐めるなよ!」
私たちは子供のようにはしゃぎながら、祭りの夜を駆け回った。
射的では、私が百発百中の腕前を見せて(狩猟も貴族の嗜みだ)クロードを驚愕させた。
輪投げでは、クロードが物理計算を駆使して景品のぬいぐるみを取り、不器用に私に押し付けてきた。
甘い砂糖菓子を半分こにして、手がベタベタだと笑い合った。
何もかもが、新鮮で、輝いていた。
明日になればまた、鉄と油の戦場に戻る。政治的な駆け引きと、技術的な難題が待っている。
でも、今夜だけは。
この数時間だけは、ただの男女でいたかった。
***
祭りの喧騒から少し離れた、峡谷を見下ろす丘の上。
私たちはベンチに座り、夜風に当たっていた。
眼下には祭りの灯りが、そしてその向こうには、ライトアップされた建設中の橋が浮かび上がっている。
「……綺麗ね」
「ああ。……いい形になってきた」
クロードは満足げに橋を見つめ、タバコに火をつけた。
その横顔を、私は盗み見た。
初めて会った時の、刺々しい敵意はもうない。
今は、隣にいるのが当たり前のような、静かな信頼感がそこにあった。
「ねえ、クロード」
「なんだ」
「橋が完成したら……貴方はどうするの?」
ふと、聞いてしまった。
このプロジェクトが終われば、私は帝都に帰るのか、それとも別の場所に飛ばされるのか。
彼は共和国の英雄として、また別の現場へ行くのだろうか。
クロードは紫煙を吐き出し、少し考え込んだ。
「……わからん。だが、俺は技術屋だ。もっと難しい、もっと誰も見たことのないものを作りたい」
「そう。……貴方らしいわね」
「お前は?」
彼が逆に聞いてきた。
私は夜空を見上げた。
「私は……そうね。この橋を渡って、世界中を見て回るのもいいかもしれないわ。商売の種はどこにでも転がっているし」
「へっ、強欲なこった」
彼は笑った。
そして、吸殻を消すと、真面目な顔で私に向き直った。
「……どこに行こうが勝手だが、一つだけ言っておく」
「何?」
「俺の設計した橋は、100年は保つ。お前がお婆ちゃんになっても、絶対に落ちない」
彼は私の目を真っ直ぐに見た。
「だから、いつでも渡ってこい。……俺も、たまにはメンテナンスに行ってやる」
それは、遠回しな「また会おう」という約束だった。
いいえ、「ずっと繋がっている」という宣言だった。
胸が熱くなる。
私は彼から貰ったぬいぐるみを、ぎゅっと抱きしめた。
「……メンテナンス料は高いわよ?」
「出世払いで頼むわ」
二人は顔を見合わせて笑った。
言葉にしなくても通じ合う。
恋人というには淡泊で、友人というには重すぎる。
「共犯者」という言葉が、今の私たちには一番しっくりくる。
その時。
ドォォォォン……!
夜空に大輪の花火が打ち上がった。
赤、青、金。
光の粒子が降り注ぎ、私たちの顔を照らす。
「わあ……!」
「派手に上げやがって。予算の無駄遣いだな」
憎まれ口を叩きながらも、クロードは花火を見上げている。
私は、花火ではなく、彼の横顔を見ていた。
光に照らされたその瞳が、とても綺麗だったから。
ふと、彼が視線に気づいてこちらを見た。
目が合う。
花火の音が遠のく。
彼の顔が、少し近づいた気がした。
私も、逃げなかった。
ぬいぐるみを抱く手に力が入る。
もし今、彼が――。
「……おい、エリザベート」
「……何?」
彼は何かを言いかけて、口ごもり、そしてバッと顔を背けた。
「……鼻に、砂糖がついてるぞ」
「えっ!?」
私は慌てて鼻を擦った。
何もない。
騙された!
「嘘つき!」
「ははっ、引っかかったな! お前、そういう隙だらけなところ、どうにかしろよ」
「う、うるさいわね! ムードのない男!」
私は怒って彼の方を叩いたが、彼はおかしそうに笑いながら避けた。
雰囲気ぶち壊しだ。
でも、これが私たちなのだ。
甘いロマンスよりも、こうして笑い合っている方が、性に合っている。
その時、広場の方から陽気な音楽が風に乗って流れてきた。
バイオリンとアコーディオン。
リズミカルな舞曲だ。
「……ねえ、クロード。聞こえる?」
「ああ。楽団が始めたみたいだな」
クロードがベンチから立ち上がり、服についた埃を払った。
「さて、帰るか。明日は早朝から……」
「嫌よ」
私はベンチに座ったまま、彼を見上げた。
「……あ?」
「聞こえない? あの音楽。……まだ終わりたくないの」
私は立ち上がり、彼の目の前に立った。
そして、まるで舞踏会のダンスを申し込むように、右手を差し出した。
「エスコートしなさい、クロード。……私と、踊りましょう?」
クロードは呆れたように私を見ていたが、やがて観念したようにため息をついた。
そして、苦笑しながら私の手を取った。
「……ったく、お姫様の体力には敵わねえな」
「光栄ね。さあ、行きましょう!」
私たちは手を繋ぎ、音楽が響く広場へと駆け出した。
花火は終わってしまったけれど、私たちの夜はまだ終わらない。
この幸せな時間が、嵐の前の静けさだとは知らずに。
私たちはただ、今この瞬間、互いの体温だけを頼りに光の中へと飛び込んでいった。




