第15話:不器用な優しさ
病床から現場に復帰して三日。
私の体調は、驚くほど回復していた。
クロードの(見た目は悪いが)栄養満点の粥のおかげか、それとも久しぶりに泥のように眠ったおかげか。
鏡の中の私は、目の下の隈も消え、以前よりも肌艶が良くなっている気さえする。
「おはよう、ボス! 顔色がいいですね!」
「無理しないでくださいよ、重いものは俺たちが持ちますから!」
現場事務所に入ると、ハンズをはじめとする作業員たちが、過保護なほど気を使ってくる。
私が書類の箱を持ち上げようとしただけで、三人がかりで奪い取られる始末だ。
「……あのね、私は病人じゃないのよ。そんなに腫れ物扱いしないで頂戴」
「ダメです! 主任に言われてるんです。『ボスに指一本分の負荷もかけるな』って」
「あいつ……」
私は苦笑した。
クロードのやつ、裏でそんな指令を出していたとは。
過保護なのはありがたいが、これでは私の仕事がなくなってしまう。
私は手持ち無沙汰を紛らわせるように、窓の外を見た。
秋の空は高く、現場には乾いた風が吹いている。
嵐の傷跡も修復され、工事は遅れを取り戻すべくフル稼働していた。
特級鋼の到着も間もなくだ。すべてが順調だった。
ただ、一つだけ気になることがある。
ここ数日、クロードの姿があまり見えないのだ。
もちろん、現場の指揮は執っているし、図面のチェックも完璧だ。
だが、休憩時間や作業が終わった後、彼はすぐに姿を消してしまう。以前なら、私と一緒にコーヒー(泥水)を飲みながら、次の工程について語り合っていたのに。
「……避けてるのかしら」
看病された時のことを思い出す。
無防備な寝顔を見られたし、弱音も吐いてしまった。
彼にとっても、あそこまで他人のプライベートに踏み込んだのは気まずいのかもしれない。
少しだけ、胸がチクリとした。
共犯者契約を結んだはずなのに、また壁を作られてしまったのだろうか。
***
その日の夕方。
私は残った書類仕事を片付け、少し遅れて宿舎に戻ろうとしていた。
現場の照明が落ち、夕闇が峡谷を包み始めている。
資材置き場の裏を通った時だった。
キィ、キィ、カリカリ……。
微かな金属音が聞こえた。
ハンマーで叩く音ではない。もっと小さく、繊細な、ヤスリで金属を削るような音。
「……誰?」
私は音のする方へ、足音を忍ばせて近づいた。
資材用のテントの隙間から、灯りが漏れている。
覗き込むと、そこにはクロードがいた。
彼は作業台に向かい、背を丸めて何かをいじっていた。
手元には、小さなルーペと、精密ドライバー。そして真鍮の歯車のようなものが散らばっている。
橋の部品ではない。もっと小さな、掌に乗るサイズの機械だ。
彼の表情は真剣そのものだった。
設計図を引く時と同じ、いや、それ以上に集中した目つき。額には汗が滲んでいる。
「……あそこ、もう少し噛み合わせを調整しないと音が濁るな」
彼が独り言を呟く。
私は声をかけるべきか迷った。
もしかして、新しい測量機器の開発でもしているのだろうか? 邪魔をしてはいけない。
そう思って立ち去ろうとした瞬間、足元の小石を蹴ってしまった。
カラン。
小さな音が、静寂に響く。
クロードが弾かれたように振り返った。
「誰だ!?」
「あ、ごめんなさい。私よ」
私が姿を現すと、彼は酷く狼狽した様子で、手元のものを布で隠した。
「エ、エリザベート!? なんでこんな所にいやがる」
「帰り道よ。……貴方こそ、コソコソと何をしているの? 新兵器の開発?」
「……そんなもんじゃねえ。ただの暇つぶしだ」
彼は布で隠した「何か」を、無造作にポケットに突っ込んだ。
明らかに動揺している。
怪しい。
いつもなら「関係ないだろ」と一蹴する彼が、目を泳がせているなんて。
「ふーん。まあいいわ。……明日、特級鋼の第一便が届く予定よ。受け入れ態勢は大丈夫?」
「あ、ああ。ハンズたちに指示してある。問題ない」
会話が続かない。
気まずい沈黙が流れる。
私は堪らなくなって、背を向けた。
「そう。じゃあ、お先に失礼するわ。おやすみなさい」
歩き出した私の背中に、彼が声をかけてくることはなかった。
やっぱり、避けられている。
私は唇を噛み締め、宿舎への道を急いだ。
***
その夜。
私はベッドに入ったものの、なかなか寝付けずにいた。
目を閉じると、またあの夢を見る気がして怖いのだ。
冷たい床。父の声。泥の感触。
体調は戻ったはずなのに、心の奥底にある恐怖は、夜になると鎌首をもたげてくる。
「……しっかりしなさい、エリザベート」
私は自分に言い聞かせ、枕元のランプを消そうとした。
その時。
コン、コン。
控えめなノックの音がした。
こんな時間に誰だろう。
私はガウンを羽織り、警戒しながらドアを開けた。
そこには、クロードが立っていた。
手には、オイルまみれのウエス(布)を持っている。
「……クロード? どうしたの、こんな夜更けに」
「……起きてたか」
彼は私の顔を見ず、視線を足元に落としたままボソリと言った。
そして、持っていたウエスを包みごと、私に突き出した。
「やる」
「え?」
「やるって言ってんだ。受け取れ」
私が戸惑いながら受け取ると、ずしりと重い。金属の塊だ。
彼は私が包みを開けるのを待たずに、早口でまくし立てた。
「現場の音がうるさいだろ。……夜中も排水ポンプが動いてるし、風の音もひどい。お前みたいな神経質な貴族様じゃ、あんな騒音の中じゃ眠れないだろうと思ってな」
「はあ……?」
何を言っているのだろう。
私は現場の音など気にしていない。むしろ、あれは私にとっての子守唄代わりだと言ったはずなのに。
「だから、それを作った。……騒音消しにはなるはずだ」
「騒音消し?」
私はオイルの匂いのする布を解いた。
中から出てきたのは、掌サイズの金属の箱だった。
真鍮と鉄の端材を組み合わせて作られた、無骨な立方体。
溶接の跡も荒々しく、お世辞にも美しいとは言えない。まるで装甲車の部品のようだ。
「何これ……文鎮?」
「回してみろ。横にゼンマイがある」
言われた通り、箱の側面にある小さな突起を回してみる。
カリ、カリ、カリ……。
ゼンマイを巻く感触。
そして、手を離すと。
ポローン……ポロン、ポロン……。
信じられないほど澄んだ音が、箱の中から溢れ出した。
オルゴールだ。
それも、ただのオルゴールではない。
高音と低音が複雑に絡み合い、まるで水滴が湖面に落ちて波紋を広げるような、優しく、深い響き。
曲は……聴いたことがない。
リベールの民謡でも、帝国のクラシックでもない。
どこか物悲しく、でも温かい、不思議な旋律。
「……これ」
「端材で作った即席だ。歯車の精度がいまいちだが、まあ、ないよりはマシだろ」
彼はそっぽを向いたまま言った。
耳が赤い。
私は、箱の中を覗き込んだ。
蓋はガラスではなく、透明な雲母板が嵌め込まれていた。
中に詰まっているのは、息を呑むほど精巧な機構だった。
無数の極小の歯車。髪の毛ほどに細いバネ。そして、音を奏でるための鉄の櫛。
すべてが手作りだ。
あの夕方、彼が隠していたのはこれだったのだ。
即席?
嘘だ。これを設計し、削り出し、調整するのに、どれほどの時間がかかるか。
私が寝込んでいる間も、そして復帰してからも、彼は私のためにこれを……。
「……音がうるさいと眠れないから、これを聴いて誤魔化せってこと?」
「そうだ。外の音が聞こえなきゃ、文句も言わないだろ」
なんて下手な嘘。
現場のポンプの音より、このオルゴールの音の方がずっと小さい。騒音対策になんてなりはしない。
でも。
この音色は、心の騒音を――あの悪夢の泥を、優しく洗い流してくれる気がした。
彼は気づいていたのだ。
私が高熱の中でうなされ、過去の悪夢に怯えていたことを。
でも、「悪夢を見るから怖いんだろう」とは言えなかった。私のプライドを傷つけないために。
だから、「現場がうるさいから」という、私のせいにしない理由をでっち上げて、これをくれたのだ。
「……不器用ね」
私は小さく呟いた。
涙が出そうになるのを、必死に堪える。
「あ?」
「なんでもないわ。……ありがとう。ちょうど、ポンプの音が耳障りで困っていたところよ」
私も嘘をついた。
彼の不器用な優しさを、受け取るための嘘。
「そうか。なら良かった」
彼はホッとしたように肩の力を抜いた。
「じゃあな。……今夜はぐっすり寝ろよ」
彼は逃げるように背を向け、廊下を歩いて行った。
その背中を見送りながら、私はもう一度ゼンマイを巻いた。
ポロン、ポロン……。
優しい音色が、殺風景な部屋に満ちる。
無骨な鉄の箱から奏でられる、世界で一番優しいララバイ。
それは、「私は一人じゃない」と教えてくれているようだった。
私はオルゴールを枕元に置いた。
硬くて冷たい金属の箱。
でも、私にはどんな宝石箱よりも輝いて見えた。
その夜、私は久しぶりに夢を見なかった。
ただ、遠くで蒸気機関車の汽笛と、オルゴールの音が重なる、心地よい微睡みの中にいただけだった。




