第14話:雨上がりの高熱
記憶が途切れたのは、シャワーの温かいお湯を浴びた直後だったと思う。
クロードに連れられて彼の部屋に行き、泥だらけの服を脱ぎ捨てて、熱いシャワーを浴びた。
骨の髄まで冷え切っていた体に、熱が戻ってくる感覚。
泥が落ちていく安堵感。
借りた彼の大きすぎるシャツに袖を通し、「ありがとう」と言おうとして――。
世界がぐるりと反転した。
視界がホワイトアウトし、誰かが私の名前を叫ぶ声が遠くで聞こえた。
そして、私は深い闇の底へと落ちていった。
***
夢を見ていた。
古い、セピア色の夢だ。
私は帝都の屋敷の広間に立っている。
今日は私の十歳の誕生日。父様が祝ってくれるはずだった。
けれど、広間には誰もいない。
冷たい大理石の床。閉ざされた扉。
遠くから、父様と継母の笑い声が聞こえる。弟をあやす楽しげな声。
『お前は邪魔なんだよ、エリザベート』
『可愛げのない子』
『ただの政略結婚の駒』
無数の声が、黒い泥となって足元から這い上がってくる。
冷たい。重い。
助けて。誰か。
私は叫ぼうとするけれど、声が出ない。泥が口を塞ぐ。
息ができない。苦しい。熱い。
――冷たい何かが、額に触れた。
その感触は、泥とは違った。
もっと優しくて、少しゴツゴツしていて、でも心地よい冷たさ。
それが、泥を払いのけてくれる。
呼吸が楽になる。
「……き……ろ……」
誰かの声が聞こえる。
父様じゃない。もっと低くて、ぶっきらぼうで、でも温かい声。
「……死なせねえぞ、バカ女」
その声に安心して、私は再び深い眠りへと落ちていった。
***
次に目を覚ました時、視界に入ってきたのは、見慣れない天井だった。
シミだらけの木の天井。
宿舎の私の部屋ではない。もっと男臭いというか、生活感のない部屋だ。
「……ここ……」
体を起こそうとして、すぐに諦めた。
鉛のように重い。節々が痛み、頭が割れるようにガンガンする。
喉が渇いて張り付いている。
「動くな」
部屋の隅から声がした。
ぼんやりした視線を向けると、椅子に座って図面を睨んでいたクロードが、こちらを見ていた。
彼は図面を放り出し、すぐにベッドの脇までやってきた。
「気がついたか。……丸二日寝てたんだぞ」
「ふつ……か……?」
自分の声とは思えないほど、掠れた声が出た。
二日?
私が?
「嘘……現場は? ハンズたちは……?」
「心配するな。現場は動いてる。お前が倒れたって聞いて、あいつら逆に張り切りやがってな。『ボスの分まで働くんだ!』って、お前が指揮してた時より能率がいいくらいだ」
クロードは皮肉っぽく笑ったが、その目には明らかな安堵の色があった。
そして、サイドテーブルの水差しからコップに水を注ぎ、差し出してきた。
「ほら、飲め。脱水症状で干物になりかけてたんだぞ」
私は震える手でコップを受け取ろうとしたが、力が、入らない。
カチャ、とコップが揺れ、水がこぼれそうになる。
「……ったく、手のかかる」
クロードは舌打ちをすると、私の背中に手を回し、抱き起こしてくれた。
そして、コップを私の口元に運んでくれる。
「ゆっくり飲め。むせるなよ」
冷たい水が、砂漠のような喉に染み渡っていく。
美味しい。
今まで飲んだどんな高級ワインよりも、甘露のように感じた。
「……ありがとう」
「礼には及ばん。お前が死んだら、俺の給料を払うやつがいなくなるからな」
彼は憎まれ口を叩きながら、空になったコップを置き、今度は私の額に手を当てた。
大きくて、硬い手。
夢の中で感じた「優しい冷たさ」の正体は、これだったのか。
「……熱は下がってきたな。昨日の夜は酷かったぞ。うなされて、わけのわからないことを口走って」
「な、何を言っていたの?」
「『計算が合わない』とか『そのパンは硬すぎる』とか……あと、『父様』とな」
ドキリとした。
弱みを見せてしまった。
私は視線を逸らした。
「……忘れてちょうだい。熱に浮かされた戯言よ」
「ああ、忘れてやるよ。……だが」
彼はベッドの端に腰掛け、真剣な眼差しで私を見た。
「無理をするなとは言わん。俺たちは無理をしなきゃ進めない場所にいる。……だが、倒れるまでやるのは効率が悪い。お前が倒れれば、現場の士気に関わる」
「……面目ないわ」
「わかればいい」
彼は立ち上がり、部屋の奥へ行ったかと思うと、湯気の立つ深皿を持って戻ってきた。
「食え」
「……これは?」
「粥だ。……リベールの軍隊食だがな、消化にはいいはずだ」
差し出されたのは、豆と麦をドロドロに煮込んだ、見た目はあまり良くない物体だった。
でも、湯気からは少しだけ塩気のある、優しい匂いがした。
「貴方が作ったの?」
「他に誰がいる。毒は入ってない」
彼はスプーンですくい、フーフーと息を吹きかけて冷ましてから、私の口元へ突き出した。
「……自分で食べられるわ」
「手が震えてるくせに強がるな。こぼされたらシーツを洗うのが面倒だ。ほら、口を開けろ」
子供扱いだ。
屈辱的だけれど、逆らう気力もない。私は大人しく口を開けた。
味は……薄かった。
でも、温かかった。
胃の中に落ちると、そこからじんわりと熱が広がり、凍りついていた心まで溶かしていくようだった。
「……美味しい」
「味付けなんてしてないがな」
彼はぶっきらぼうに言いながらも、スプーンを運ぶ手は止まらなかった。
一口、また一口。
ただの粥なのに、なぜだろう。涙が出そうになる。
誰かに看病されるなんて、母が死んで以来初めてかもしれない。
それも、こんな不愛想な男に。
「……ねえ、クロード」
「ん?」
「貴方、意外とマメなのね」
「うるさい。精密機械を扱う技師だぞ。メンテナンスは基本だ」
「私を機械扱い?」
「似たようなもんだろ。壊れたら修理する。油が切れたら注す」
彼は最後のひとさじを私の口に入れ、満足げに頷いた。
「よし、完食だ。……もう少し寝てろ。汗をかいたら着替えさせてやる」
「き、着替え!?」
私は慌てて自分の体を見た。
着ているのは、やはり彼の大きなシャツだ。でも、下着はどうなっているの? まさか彼が……?
私が顔を赤くして狼狽えていると、クロードは呆れたように鼻を鳴らした。
「安心しろ。着替えさせたのは、厨房のおばちゃんだ。俺は指一本触れてない」
「……そ、そう。ならいいけど」
「ちっ、自意識過剰なお姫様だ」
彼は空になった皿を持って立ち上がった。
その背中に、私は声をかけた。
「……クロード」
彼は立ち止まり、振り返った。
「ずっと、ついていてくれたの?」
二日間。
私が意識を失っている間、彼はここで看病してくれていたのだろうか。
彼の目の下の隈が、それを物語っている気がした。
クロードは少しバツが悪そうに視線を逸らし、頭をかいた。
「……図面を引くのに、ここが一番静かだっただけだ。お前が寝てたからな」
嘘だ。
彼の机の上には、書きかけの図面が散らばっていたが、インクは乾いていた。仕事なんて手につかなかったくせに。
なんて不器用な男だろう。
「……ありがとう、クロード」
「ふん。……早く治せ。特級鋼が届いたら、またこき使ってやるからな」
彼はそれだけ言い残して、部屋を出て行った。
ドアが閉まる音が、優しく響く。
私はベッドに深く沈み込み、彼が掛けてくれた毛布を引き上げた。
そこには、微かに鉄とタバコ、そして彼の匂いが残っていた。
嫌な匂いじゃなかった。
むしろ、どんな香水よりも落ち着く匂い。
熱はまだ少し残っているけれど、胸の奥の冷たい塊は、もうすっかり消えていた。
私は目を閉じた。
悪夢はもう見ない気がした。
夢の中でも、現実でも、私には最強の「共犯者」がついているのだから。
窓の外では、雨上がりの空に、きっと虹がかかっているはずだ。
そう信じて、私は再び穏やかな眠りへと落ちていった。




