第13話:泥まみれの背中
世界が崩れる音がした。
バリバリバリィィィッ!!
雷鳴ではない。
上流から流れてきた巨大な流木――推定樹齢数百年はあろうかという大木が、濁流の勢いを乗せて、建設中の第三橋脚を守る仮設堤防に激突した音だ。
水飛沫が爆発のように舞い上がる。
悲鳴が上がる間もなかった。
「て、堤防が決壊するぞぉぉぉ!」
誰かの絶叫が響く。
投光器の光の中、私は見た。
木の杭と鉄板で作られた仮設堤防が、巨木の直撃を受けてひしゃげ、そこからどす黒い水が噴き出しているのを。
その先にあるのは、まだコンクリートが固まりきっていない橋脚の基礎だ。あそこに水が流れ込めば、土台が洗われて橋脚ごと傾いてしまう。
数ヶ月の労働、巨額の資金、そして何よりクロードの「夢」が、泥水に飲まれて消える。
「……させない」
私の体は思考より先に動いていた。
高台の指揮所を飛び出し、決壊箇所へと走る。
「土嚢を持ってきて! 穴を塞ぐのよ!」
叫びながら、私は近くにあった土嚢袋を掴んだ。
ずしり、と重い。
雨水を吸った土の塊は、鉛のように私の腕にのしかかる。普段の私なら持ち上げることすら叶わなかっただろう。
けれど、今は火事場の馬鹿力というやつだ。私はそれを抱え上げ、泥濘んだ斜面を駆け下りた。
「ボ、ボス!? 危ねえ!」
「下がっててください!」
作業員たちが制止するが、私は止まらない。
決壊した堤防の裂け目。そこから噴き出す水圧は凄まじく、近づくだけで足を持っていかれそうになる。
私は恐怖をねじ伏せ、その裂け目に土嚢を叩き込んだ。
ドサッ!
一つでは足りない。水は止まらない。
私は次を取りに戻ろうとした。その時、横から伸びてきた手が、別の土嚢を積み上げた。
「……無茶をしやがる」
クロードだった。
彼は泥だらけの顔でニヤリと笑うと、私よりも遥かに大きな土嚢を軽々と担ぎ上げ、裂け目に放り込んだ。
「あそこを塞ぐには数が足りねえ! 人海戦術だ!」
彼が後ろを振り返り、怒鳴った。
「おい! 何を呆けてる! ボスが体張ってんだぞ! 男の俺たちが負けていいのかよ!」
その言葉が、雷撃のように男たちを貫いた。
呆然としていた彼らの目に、炎が灯る。
「うおおおおおっ!」
「ボスを守れぇぇ!」
帝国作業員のハンズが、共和国作業員のガストンが、そして数百人の男たちが一斉に動き出した。
ある者は土嚢を担ぎ、ある者は流木をロープで固定し、ある者は杭を打ち込む。
右も左も、帝国も共和国もない。
ただ「橋を守る」という一点のためだけに、全員が泥にまみれていた。
私は彼らの列に加わり、バケツリレーのように土嚢を受け渡し続けた。
「はい、次!」
「ボス、重いですよ! 無理しないで!」
「お喋りはいいから手を動かしなさい!」
雨は激しさを増し、体温を容赦なく奪っていく。
手袋はとうに破れ、爪の間まで泥が入り込んでいる。
ドレスの裾は重く張り付き、泥水で本来の色など見る影もない。
美しい公爵令嬢?
今の私は、ただの泥人形だ。
けれど、不思議と惨めさはなかった。
背中越しに伝わってくる熱気。
「ボス、足元気をつけろ!」「肩貸しますよ!」と飛び交う声。
かつて孤独だった「予算喰いの魔女」は、今、数百人の仲間と共にいる。その事実が、凍えた体を芯から温めてくれた。
***
戦いは数時間に及んだ。
濁流との押し合いへし合い。
積んでも積んでも流されそうになる土嚢の壁を、最後は人間が背中で支えた。
「押せぇぇぇっ!」
「負けるなぁぁ!」
クロードが最前列で叫び、その隣で私が支え、その後ろをハンズやガストンたちが支える。
限界だった。
腕の感覚はない。足は震えている。
それでも、誰も引かなかった。
やがて。
空が白み始めると同時に、雨脚が弱まってきた。
水位の上昇が止まる。
決壊箇所に積み上げられた土嚢の山は、どうにか水圧に耐え抜いていた。
「……止まったか?」
誰かが掠れた声で呟いた。
静寂が戻ってくる。
川の轟音はまだ続いているが、先ほどまでの殺気立った勢いはない。
私は土嚢に手をつき、荒い息を吐いた。
生きている。
そして、守りきった。
クロードがゆっくりと体を起こし、周囲を見渡した。
泥だらけの男たちが、その場にへたり込んでいる。誰も彼も、泥の彫像のようだ。
「……おい」
クロードが私を見た。
その顔も酷いものだ。髪はペシャンコで、顔半分が泥で黒い。
きっと私も同じ顔をしているのだろう。
「無事か、エリザベート」
「……ええ。なんとかね。ドレスは台無しだけど」
私が強がって見せると、彼はフッと笑い、そして作業員たちに向き直った。
「聞いたか、野郎ども! ボスのドレスが台無しだそうだ!」
「ぶははっ! そりゃあ一大事だ!」
「俺たちの給料から天引きかぁ!?」
ドッと笑いが起きた。
緊張の糸が切れ、安堵の笑い声が波紋のように広がっていく。
その時、ガストンが泥だらけの手を突き上げて叫んだ。
「見ろよ! 俺たちの橋だ!」
朝霧の中。
第三橋脚は、傷だらけになりながらも、その場に屹立していた。
流木に削られた跡が痛々しいが、倒れてはいない。
私たちが、体で守り抜いた証だ。
「……勝ったな」
「ええ。私たちの勝ちよ」
私はクロードと肩を並べ、その光景を見つめた。
かつてない達成感が胸を満たす。
数字上の利益でも、政治的な勝利でもない。
ただ、自然の猛威に抗い、何かを守り抜いたという原始的な喜び。
ふと、ハンズが私に近づいてきた。
彼は泣いていた。泥水と涙で顔がぐしゃぐしゃだ。
「エリザベート様……!」
「な、何よ。泣くようなことじゃ……」
「一生ついていきます! 俺、貴族なんてみんな冷血漢だと思ってました。でも、あんたは違う! あんたは俺たちの……最高の親方だ!」
ハンズの言葉に、周囲の男たちが一斉に頷く。
帝国人も、共和国人も。
そこにあるのは、もはや「雇用主と労働者」という契約関係を超えた、血の通った絆だった。
私は目頭が熱くなるのを堪え、努めて傲慢に顎を上げた。
「……当たり前よ。私は貴方たちに投資しているの。簡単に壊れられては困るわ」
そう言って、私はハンズの肩をポンと叩いた。
私の白い手袋の跡が、彼の泥だらけの肩につく。
「さあ、休憩よ! 厨房に言って、ありったけのスープとパンを用意させるわ。……今日だけは特別に、酒も許可してあげる」
「うおおおおおっ!!」
「ボス最高!!」
歓声が再び爆発した。
男たちは互いに肩を叩き合い、泥を擦りつけ合いながら、食堂テントへと向かっていく。
その背中は、昨日までとは比べ物にならないほど大きく、頼もしく見えた。
***
人々が去り、静かになった川岸。
私とクロードだけが残った。
全身の力が抜け、私はその場に座り込みそうになった。
それを、クロードの腕が支えた。
「……お疲れさん、お姫様」
「誰がお姫様よ。今はただの泥棒猫みたいな顔をしているでしょうね」
「ああ、ひどい顔だ。……だが」
彼は私の顔についた泥を、親指で乱暴に、しかし優しく拭った。
「今まで見た中で、一番美人だぜ」
ドキリとした。
不意打ちすぎる。
この男は、時々こういう心臓に悪いことを言う。
「……貴方もよ。泥パック、似合ってるわ」
「減らず口を」
彼は苦笑し、私の肩を抱き寄せた。
私たちは泥だらけのまま、互いの体温を分け合うように寄り添った。
雨上がりの冷たい風が吹く。
けれど、寒くはなかった。
「……なあ、エリザベート」
「何?」
「俺たちは、この橋を架けられると思うか?」
「愚問ね。架けられるか、じゃないわ」
私は朝日を受けて輝き始めた橋脚を指差した。
「架けるのよ。……世界中の誰もが『不可能だ』と笑っても、私と貴方と、あいつらがいれば、必ずできる」
確信があった。
今夜の戦いで、私たちは本物のチームになった。
もう、誰にも止められない。
「……そうだな。俺もそう思う」
クロードは満足げに頷き、そして立ち上がった。
「さあ、戻るぞ。風邪を引いたら元も子もない。……風呂を用意してやる。俺の部屋のシャワーだがな、宿舎の井戸水よりはマシだろ」
「あら、技術者様の特権? ありがたくお借りするわ」
彼に手を引かれ、私は立ち上がった。
足取りは重い。体はボロボロだ。
けれど、視線は前を向いていた。
嵐は去った。
雨降って地固まる、とはよく言ったものだ。
この泥だらけの背中たちが作る未来を、私はもう少しだけ、夢見てもいい気がした。




