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鉄の線路は国境を越えて ~売国奴と蔑まれた令嬢は、敵国の天才技師と未来への架け橋を築く~  作者: ぱるめりあ
第2章:鉄と汗と信頼

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第9話:兵糧攻め

 建設現場には、独特のリズムがある。

 ハンマーが鉄を叩く音、蒸気が噴き出す音、そして男たちの威勢のいい掛け声。それらが複雑に絡み合い、一つの巨大な交響曲のように峡谷に響き渡る。

 私はこの音が好きになっていた。

 帝都の舞踏会で流れる優雅なワルツよりも、ずっと生命的で、力強いこの音が。


「ハンズ! 今月のセメント使用量、予定より3パーセント節約できているわね。素晴らしいわ」

「へへっ、ガストンさんたちに配合のコツを教えてもらったんです!」

「ガストン、貴方の班もペースが上がっているわ。その調子で頼むわよ」

「おうよボス! 今夜の飯は期待してるぜ!」


 現場監督ハンズと、共和国側の親方ガストン。

 かつてはいがみ合っていた二人が、今は図面を囲んで談笑している。

 クロードとの「共犯者契約」から一ヶ月。現場は見違えるほど効率化され、工事の遅れは急速に取り戻されつつあった。

 『特級鋼』の調達ルートも、私の裏工作――共和国の商工会理事への「積極的な」根回しのおかげで目処が立った。


 順調。

 あまりにも順調すぎて、怖くなるほどだった。


 私は仮設オフィスの窓から、秋晴れの空を見上げた。

 このグレンデルの空がこんなに高く、澄んでいるなんて、来た当初は気づきもしなかった。


「……さて、と」


 私はデスクに戻り、一通の封筒を手に取った。

 今朝、帝都からの定期便で届いたものだ。差出人は帝国財務省。今月の建設予算の送金通知のはずだ。


 ペーパーナイフで封を切る。

 中に入っていたのは、いつもの送金小切手――ではなかった。

 たった一枚の、薄っぺらい通達書。


 そこに書かれていた無機質な活字を目にした瞬間、私の指先から血の気が引いた。


『件名:グレンデル橋梁建設プロジェクトに関する予算執行の一時凍結について』


 凍結。

 時が止まったような錯覚を覚えた。

 慌てて読み進める。


『昨今の財政難及び、当該プロジェクトの有用性に関する再審議のため、本日付で予算の送金を無期限停止とする。なお、現地での新たな契約締結及び資材発注もこれを禁ずる』


「……嘘でしょう?」


 私は震える手で、もう一通の封筒を開けた。

 こちらは実家――アルニム公爵家からの手紙だ。

 父の筆跡ではない。執事による代筆だ。


『エリザベート様へ。旦那様より伝言がございます。「アルニム家は国益に反する事業には関与しない。よって、本日をもって当家はお前との一切の経済的関係を絶つ。今後、当家の資産及び名義を使用することは許されない」――以上でございます』


 絶縁状。

 そして、兵糧攻め。


 私は椅子に深く沈み込んだ。

 乾いた笑いが漏れる。


「……ははっ。やってくれるじゃない、お父様」


 これは「再審議」などという生易しいものではない。明確な悪意だ。

 私が現場を掌握し、不正を正し、成果を上げ始めたことが気に入らないのだ。

 彼らにとって、私は「失敗して野垂れ死ぬべき娘」であり、「成功して帰還する英雄」になっては困る存在なのだ。

 だから、最も残酷な方法で息の根を止めに来た。

 「金」という、現場の血液を止めることで。


 バン!


 私は机を拳で叩いた。

 痛みが走るが、そんなものはどうでもいい。


 給料日は明後日だ。

 今月は皆、泥まみれになって働いてくれた。残業も厭わず、危険な作業もこなしてくれた。

 ハンズには「家族に仕送りできる」と喜ばせた。

 ガストンたちには「共和国よりいい条件だ」と約束した。


 もし、給料が払えなかったら?

 「ごめんなさい、国がお金をくれないの」で済むと思っているのか?


 信頼は崩壊する。

 やっと一つになった現場は、また分裂し、暴動が起きるかもしれない。

 そして、工事は止まる。

 中途半端に組み上がった橋は、風雨に晒され、錆びついて朽ちていくだけだ。


 クロードの「夢」も、私の「証明」も、すべて瓦礫の下に埋もれる。


「……ふざけないで」


 奥歯を噛み締めた。

 悔しさで涙が滲む。

 こんな理不尽が許されていいはずがない。現場で汗を流している人間を、涼しい部屋で判子を押しているだけの連中が殺そうとしている。


 私は通達書をくしゃくしゃに丸め、ゴミ箱に投げ捨てようとした。

 だが、その手前で止まった。


 待って。

 ここで感情的になって何になる?

 泣いて喚いて、父に許しを請う手紙でも書く?

 「どうかお金を恵んでください」と?


 ――死んでも御免だわ。


 私は丸めた紙を広げ、丁寧に折りたたんで引き出しにしまった。

 これは屈辱の証として取っておく。いつか奴らの顔に叩きつけてやるために。


 私は深呼吸をした。

 冷静になれ、エリザベート。

 貴女は「予算喰いの魔女」と呼ばれた女でしょう?

 金がないなら、作ればいい。

 国が出さないなら、私が払えばいい。


 私は立ち上がり、部屋の隅にある大きなトランクを開けた。

 帝都から持ってきた、数少ない私物。

 その中から、ベルベットの小箱をいくつも取り出し、机の上に並べていく。


 パカッ。パカッ。


 蓋を開けるたびに、部屋が煌めきで満たされる。

 ダイヤモンドのネックレス。

 サファイアのブローチ。

 ルビーの指輪。

 エメラルドの髪飾り。


 亡き母の形見もある。父が社交界での体裁のために買い与えたものもある。

 どれも一級品だ。帝都の宝石商なら、屋敷が一軒建つほどの値を付けるだろう。


 私は、かつてお気に入りだったダイヤモンドのネックレスを手に取った。

 冷たくて、硬くて、美しい石。

 舞踏会の灯りの下では、これが私の価値そのものだった。どれだけ大きく、輝く石を身につけているかが、女の幸せの尺度だった。


「……綺麗ね」


 私は呟いた。

 でも、今の私には、これがただの「炭素の塊」にしか見えない。


 このネックレス一本で、作業員全員の一ヶ月分の給料になる。

 この指輪一つで、特級鋼の輸送費が賄える。

 このブローチ一つで、現場の食事が豪華になる。


 そう考えた瞬間、この宝石たちが、急に愛おしく、そして頼もしく思えてきた。

 これらは飾りではない。

 私の「弾薬」だ。


 私はペンを取り、ノートにリストを作り始めた。


『ダイヤモンド・ネックレス(カラット数3.5、クラリティVVS1)……推定価格800万』

『サファイア・ブローチ(ロイヤルブルー)……推定価格500万』

『真珠のティアラ……』


 次々と書き連ねていく。

 躊躇はなかった。

 母の形見を手放すことに、感傷がないわけではない。

 けれど、母ならきっと笑って言うだろう。「エリー、貴女の信じる道を行きなさい」と。

 過去の思い出に縋るより、未来の鉄橋に変える方が、よほど有意義だ。


 次に、私はクローゼットを開けた。

 もう着ることのないシルクのドレスたち。

 最高級のレース。銀糸の刺繍。

 これらも全て金になる。共和国の富裕層には、帝国の伝統的なドレスを欲しがるコレクターがいるはずだ。


「……全部、売るわ」


 私は決めた。

 身一つになる覚悟だ。

 公爵令嬢としての最後の鎧を脱ぎ捨て、裸一貫でこの現場を守り抜く。


 問題は、これらをどこで換金するかだ。

 帝国の商人に売れば、足元を見られる上に、父に情報が漏れる可能性がある。

 ならば、売り先は一つしかない。


 リベール共和国。

 敵国の首都には、拝金主義の亡者たちが集まる証券取引所や、富豪たちのサロンがあるという。

 そこなら、私の「名前」と「品物」は、最高のエンターテイメントとして高く売れるはずだ。


 私はリストの最後に、総額の概算を書き込んだ。

 莫大な金額だ。

 これなら、半年……いいえ、節約すれば一年は現場を維持できる。


 その時、ドアがノックされた。


「……ボス、いるか?」


 クロードの声だ。

 私は慌てて宝石箱をトランクに戻し、ノートを閉じた。

 彼にはまだ、言えない。

 彼に心配をかけたくないというのもあるが、それ以上に、これは私のプライドの問題だ。

 「資金繰り」は私の領分。彼には技術のことだけに集中してもらいたい。


「ええ、いるわ。どうぞ」


 ドアが開く。

 クロードが図面を片手に入ってきた。相変わらず油の匂いを纏っているが、その表情は明るい。


「特級鋼を使った新しい補強案ができた。これなら強度は十分、しかも工期も短縮できる。……おい、どうした? 顔色が悪いぞ」


 彼は私の顔を見るなり、眉をひそめた。

 鋭い男だ。


「……なんでもないわ。少し帳簿と睨めっこしていただけよ」

「ふーん。まあいい。で、例の鋼材はいつ届く? ハンズたちが首を長くして待ってるんだが」


 彼の無邪気な質問が、胸に刺さる。

 国からの金は止まった。鋼材を買う金なんて、今は一銭もない。

 けれど、私は完璧な笑顔を作って見せた。


「心配しないで。手配は済んでいるわ。……少し手続きに時間がかかっているけれど、必ず届けるわ」

「そうか。頼んだぜ、パートナー」


 彼は疑うことなく頷き、図面を置いて出て行った。

 ドアが閉まる音を聞いて、私は大きく息を吐いた。


 嘘をついてしまった。

 でも、これは必要な嘘だ。

 この現場の希望を、活気を、絶望で塗りつぶすわけにはいかない。


 私は再びトランクを開け、一番大きなダイヤモンドを手に取った。

 虹色に輝くその石を、ぎゅっと握りしめる。

 尖ったカットが掌に食い込み、痛みを与えてくれる。それが、私の覚悟をより鮮明にした。


「待っていなさい、お父様」


 私は誰もいない部屋で、低く呟いた。


「貴方が兵糧攻めで私を干上がらせるつもりなら、私はその上を行くわ。自分の血肉を売ってでも、この現場を生かしてみせる。……後で泣いて謝っても、絶対に許してあげないんだから」


 私は宝石をポケットにねじ込んだ。

 さあ、忙しくなる。

 明日は早朝から、敵地――共和国の富豪たちが待ち受ける「戦場」へ乗り込むのだ。

 悪女の商談の始まりよ。

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