第10話:悪女の商談
リベール共和国の首都、ニューポート。
そこは、蒸気と欲望で膨れ上がった怪物のような街だった。
空を覆う煤煙はグレンデルの比ではない。林立するレンガ造りの工場、道路を埋め尽くす蒸気自動車、そして行き交う人々の熱気。
帝都のような優雅さや歴史の重みは微塵もない。あるのは「今、稼げるか」という剥き出しのエネルギーだけだ。
「……野蛮ね。でも、嫌いじゃないわ」
私は馬車の窓から街並みを眺め、口元を緩めた。
この街の空気は、金貨の匂いがする。そして今の私にとって、それは何よりも魅力的な香水だった。
私が向かっているのは、街の中心部に建つ高級ホテル『ゴールデン・ライオン』。
今夜、そこのバンケットホールで、共和国の財界有力者たちが集まる晩餐会が開かれるという情報を、現地の協力者(という名の、金を掴ませた情報屋)から得ていた。
招待状?
もちろん、持っていない。
だが、今の私の懐には、招待状よりも遥かに効力のある「通行手形」がある。
馬車がホテルの正面玄関に停まる。
私は深呼吸をし、鏡で自分の姿を確認した。
身につけているのは、昨日「売り物リスト」に入れた中でも、最も豪華で、かつ攻撃的な深紅のイブニングドレス。
首元には大粒のダイヤモンド・ネックレス。指にはルビーのリング。
全財産を身に纏った私は、さながら歩く宝石箱だ。
「行きましょう。……狩りの時間よ」
私は馬車を降り、レッドカーペットを堂々と歩き出した。
***
ホテルの入り口では、屈強なドアマンたちが招待客のチェックを行っていた。
私が近づくと、彼らは怪訝な顔で立ちはだかる。
「お嬢さん、招待状は?」
「ないわ」
私は足を止めず、真っ直ぐに答えた。
ドアマンたちが呆れたように顔を見合わせる。
「ここは会員制のサロンだ。お引き取り願おうか」
「あら、残念ね。……中におられる鉄道王、モルガン氏に『帝国の手土産』を持ってきたのだけれど」
私は懐から、布に包まれた「ある物」を少しだけ覗かせた。
それは宝石ではない。
グレンデルの現場から持ってきた、一塊の黒い石――リベール側で採掘された、高純度の石炭だ。
ただし、ただの石炭ではない。私が磨き上げ、宝石箱に入れたことで、まるで黒ダイヤのように輝いている。
「……なんだそれは?」
「未来の燃料よ。モルガン氏なら価値がわかるはずだわ。……通してくださる? それとも、貴方がたの給料の十年分を積んで、ここを通行料とする必要があるかしら?」
私は別のポケットから、サファイアのブローチを取り出し、弄んで見せた。
ドアマンたちの目が釘付けになる。
彼らは共和国人だ。権威には弱いが、金にはもっと弱い。
圧倒的な「富」のオーラを放つ謎の美女。追い返して、もし本当にモルガン氏の客だったら……という計算が彼らの脳裏をよぎる。
「……ど、どうぞお入りください」
ドアマンが恭しく道を空けた。
勝った。
私は優雅に微笑み、重厚な扉をくぐった。
***
バンケットホールは、タバコの煙と喧騒に包まれていた。
シャンデリアの輝きの下、燕尾服を着た男たちがグラスを片手に談笑している。話題は株価、鉄道、そして戦争の噂。
私がホールに足を踏み入れると、一瞬にして静寂が広がった。
深紅のドレス。
帝国の貴族特有の、冷ややかで傲慢な美貌。
場違いな異物の登場に、数百の視線が突き刺さる。
「……誰だ、あの女?」
「見たことのない顔だ。帝国のスパイか?」
ひそひそ話が聞こえる中、私は迷うことなくホールの中央へと進んだ。
目指すは、一番奥のソファー席。
そこに、葉巻を燻らせる白髪の老紳士が座っていた。
リベール共和国の経済界を牛耳る「鉄道王」、アーサー・モルガン。
私は彼のテーブルの前に立ち、無言で見下ろした。
周囲の護衛たちが動き出そうとするのを、モルガンが手で制する。
「……見ない顔だな、お嬢さん。私の席に近づくには、それなりの理由が必要だが?」
老練な瞳が、私を値踏みする。
私はニッコリと微笑み、カーテシーの代わりに、手に持っていた黒いベルベットの袋をテーブルの上にひっくり返した。
ジャラララッ!
硬質な音が響き、テーブルの上に宝石の山が築かれた。
ダイヤモンド、ルビー、エメラルド。
シャンデリアの光を反射して、目が眩むような輝きを放つ。
ホール中の人々が息を呑んだ。
「理由ならここにございますわ。モルガン様」
「ほう……」
モルガンは眉一つ動かさず、宝石の山を指で弾いた。
「随分と派手な名刺だ。……だが、ここは質屋じゃないぞ。金を借りに来たなら帰れ。帝国の貴族様が没落して泣きついてくる話は、聞き飽きている」
周囲から嘲笑が漏れる。
「帝国の貴族」というだけで、ここでは負け犬扱いなのだ。
だが、私は動じない。
扇子を開き、彼の目の前で優雅に仰いだ。
「お金を借りに? 冗談ではありませんわ。……私は、貴方がたに『儲け話』を持ってきて差し上げたのよ」
「儲け話だと?」
「ええ。帝国の……いいえ、大陸の物流地図を書き換える、世紀の大事業への投資案件を」
私は懐から、折りたたまれた大きな紙を取り出し、テーブルの上に広げた。
私が昨夜徹夜で書き上げた「物流予測図」だ。
「グレンデルの大鉄橋。現在、私が総責任者を務めるプロジェクトです」
私がそう言うと、モルガンは鼻で笑った。
「ああ、あの泥沼工事か。帝国がメンツだけで続けている、金食い虫の橋だろう? もうすぐ中止になると聞いているが」
「ええ、その通り。……『帝国の予算』ではね」
私は地図上のグレンデルを指差した。
「帝国は今、財政難で喘いでいます。このままでは橋は未完成のまま廃棄されるでしょう。……ですが、もしこの橋が完成したら? 誰が一番得をすると思いますか?」
私はモルガンの目を真っ直ぐに見つめた。
「帝国ではありません。……貴方がた、リベールの商人です」
ざわめきが広がる。
モルガンが目を細めた。「……続けろ」
「現在、両国の交易は山越えのキャラバンか、遠回りの海路に頼っています。これにかかるコストと時間は莫大だわ。……でも、この橋ができれば?」
「鉄道で直結できる。輸送コストは10分の1、時間は20分の1だ」
「ご名答。そして、帝国は今、物資不足でインフレが起きています。つまり……貴国の商品が、飛ぶように売れる市場が目の前に広がっているのよ」
私は地図の上に、赤いペンで一本の線を引いた。
リベールからグレンデルを通り、帝都へ至る太い動脈。
「この橋は、帝国のためのものではない。共和国が帝国経済を『侵略』するための、巨大な注射針なのよ」
ホールが静まり返った。
「侵略」。
その言葉の響きに、商人たちの目の色が変わった。彼らは愛国者ではないが、支配欲と征服欲の塊だ。経済的な支配という甘い蜜に、反応しないはずがない。
「面白い詭弁だ」
モルガンが葉巻の灰を落とした。
「だが、リスクが高すぎる。帝国政府がそんな『侵略ルート』を黙って見過ごすとは思えん。完成した途端に軍に接収され、投資がパーになる可能性が高い」
鋭い。さすがは古狸だ。
帝国の腐敗と、軍部の専横をよく理解している。
「ええ、そのリスクはありますわね。……だからこそ、私は『保険』を用意しました」
私は懐から、もう一通の書類を取り出した。
これが本命。
私が考え抜いた、悪魔の契約書。
「これは投資契約書の草案です。……第15条をご覧ください」
モルガンが書類を受け取り、老眼鏡をかけて目を走らせる。
読み進めるにつれ、彼の表情が変わった。驚愕、そして……歓喜に。
「……本気か? お嬢さん。これほどの契約、本国の承認なしに結べば、貴様は正真正銘の反逆者だぞ。契約自体が無効とされるリスクもある」
「ええ、わかっていますわ。……ですが、私の肩書きは『全権』委任された総責任者。解任されていない以上、私のサインは帝国のサインと同義です」
私は妖艶に微笑んだ。
「それに、相手が『世界銀行連盟』となれば、帝国政府も『無効だ』とは言えませんわ。言った瞬間に国債が紙屑になりますもの。……これは、国家を人質にした脅迫なのです」
そこに書かれていたのは、帝国を破滅させかねない「毒」だ。
『万が一、帝国政府による不当な介入、接収、または工事の妨害があった場合、本プロジェクトに関する全ての債権および担保権は、即座に中立機関である【世界銀行連盟】へ譲渡されるものとする』
「世界銀行連盟……。大陸中の銀行を束ねる、あの巨大組織か」
「はい。もし帝国軍が橋に手を出せば、その瞬間、彼らは世界中の銀行を敵に回すことになります。……融資の停止、資産の凍結、国債の暴落。帝国経済は一夜にして死にます」
私はモルガンの目を覗き込んだ。
「これは、ただの橋ではありません。帝国という巨人の首にかける『首輪』です。……その鎖を握る権利を、貴方に差し上げようと言っているのです」
売国奴。
父が聞けば卒倒し、皇帝陛下なら即刻処刑を命じるだろう。
私は今、祖国の喉元にナイフを突きつけ、その柄を敵に渡そうとしているのだから。
モルガンは長い沈黙の後、テーブルの上の宝石の山を見つめ、そして私を見た。
「……その宝石は?」
「私の覚悟の証よ。……もし私が嘘をついていたり、プロジェクトが失敗した場合は、これを全て賠償金として差し上げます」
私は首にかけていたダイヤモンドのネックレスを外し、山の上に放り投げた。
「そして、足りない分は……私の首で贖いましょう。腐っても公爵令嬢の首よ。帝国のスキャンダルとして、それなりの値はつくはずだわ」
会場の空気が張り詰める。
誰もが息を殺して、この狂った賭けの行方を見守っていた。
モルガンがゆっくりと立ち上がった。
彼は私の顔を間近で覗き込み、そして……ニヤリと笑った。
「……いい目だ。金持ちの道楽娘の目じゃない。飢えた狼の目だ」
彼は懐から小切手帳を取り出し、万年筆でサラサラと金額を書き込んだ。
そして、それを私の胸元――ドレスの谷間にねじ込んだ。
「乗った。……ただし、条件がある」
「何かしら?」
「橋が完成した暁には、一番列車の一等席を俺に寄越せ。……帝国の皇帝よりも先に、この俺が橋を渡るんだ。痛快だろう?」
私は胸元の小切手を取り出し、金額を確認した。
ゼロの数が、目が眩むほど並んでいる。
私の全財産よりも遥かに多い、莫大な出資金。
「……ええ、約束するわ。最高の席をご用意しておきます」
私が答えると、モルガンは豪快に笑い、グラスを掲げた。
「聞いたか、野郎ども! 帝国の悪女様が、俺たちに新しい『狩り場』を提供してくれるそうだ! 投資の準備をしろ! 乗り遅れるなよ!」
わっと歓声が上がった。
先ほどまでの冷ややかな視線は消え失せ、会場は熱狂に包まれた。
次々と投資家たちが私の元へ押し寄せ、名刺と小切手を突き出してくる。
私は笑顔でそれらを捌きながら、心の中で安堵の溜息をついた。
勝った。
祖国を守るために、祖国を売る契約を結んだ。
矛盾しているかもしれない。けれど、これが私なりの愛国心だ。
この契約書は、ただの紙切れではない。
いつか来るかもしれない「裏切り」の時に発動する、致死性の猛毒。
そのスイッチは、今、押されたのだ。
テーブルの上に残された宝石の山を、私は一瞥もしなかった。
あんな冷たい石ころより、今手の中にある、男たちの欲望と熱意が詰まった紙切れの方が、ずっと価値がある。
***
数時間後。
私はフラフラになりながら、ホテルを出た。
夜風が汗ばんだ肌に心地よい。
懐には、現場を一年維持してもお釣りが来るほどの巨額の資金と、世界を揺るがす契約書が入っている。
「……疲れた」
馬車の中で、私は泥のようにシートに沈み込んだ。
緊張の糸が切れ、指先が微かに震えている。
怖かった。
本当は、足がすくんで立っているのもやっとだった。
「……でも、これで戦える」
窓の外、ニューポートの夜景が流れていく。
帝都の父よ、震えて眠りなさい。
貴方が捨てた娘は、貴方が想像もしない怪物を連れて帰るわ。
ふと、クロードの顔が浮かんだ。
彼は今頃、現場で図面と格闘しているだろうか。
私がこんな危ない橋を渡っているとも知らずに、「遅いな」と不機嫌になっているかもしれない。
「……早く帰って、自慢してやりたいわ」
私は小切手の束を抱きしめた。
早くあの汚い現場に戻りたい。
油と鉄の匂いがする、あの場所へ。
そこが今の私にとって、世界で一番落ち着く「家」なのだから。
私は目を閉じた。
耳の奥で、蒸気機関車の汽笛が、勝利の凱歌のように鳴り響いていた。




