幕間1:天才技師の独白
月明かりが差し込む設計室で、俺は一人、紫煙を吐き出した。
右手の平に、まだあの女――エリザベートの体温が残っている気がする。
「……共犯者、か」
俺は苦笑し、吸いかけのタバコを携帯灰皿に押し付けた。
一ヶ月前なら、考えられないことだ。
帝国の貴族、それも公爵家の令嬢と手を組むなんて。
最初に奴が来た時、俺は心底うんざりしていた。
帝都から送られてくる「監査役」なんてのは、相場が決まっている。現場のことも知らずに数字だけをいじくり回す文官か、あるいは箔付けのためだけに来た無能な貴族だ。
あの派手なドレスを見た瞬間、「ああ、一番厄介なタイプだ」と吐き捨てたのを覚えている。
だが、奴は違った。
俺が差し出した泥だらけの油拭きを、顔色一つ変えずに握り返してきた時。
「ん?」と何かが引っかかった。
さらに翌日、自慢のドレスを切り刻んで作業着にして現れ、あの腐った現場監督どもを粛清した時、認識を改めざるを得なかった。
ただのお人形じゃない。
中身は、俺たちと同じ――いや、それ以上に気性の荒い猛獣だ、と。
だが、俺が奴に本当の意味で「堕とされた」のは、そんな度胸や政治力じゃない。
俺は椅子を回し、壁に貼られた図面を見上げた。
そこには、俺が何年も悩み続けていた「夢の橋」の計算式が書かれている。
黒いインクの横に、鮮烈な赤いインクで書き足された、美しい補助線。
あの朝。
この部屋に入って、あの赤文字を見た時の衝撃は、一生忘れられないだろう。
雷に打たれたような感覚だった。
俺が泥沼の中でもがいて探していた答えを、奴は空から俯瞰するように、鮮やかに一本の線で射抜いてみせたのだ。
悔しさ?
いや、そんなちっぽけな感情は一瞬で消し飛んだ。
湧き上がってきたのは、もっと根源的な興奮だ。
美しい、と思った。
ドレス姿の奴を見ても何とも思わなかったが、奴の書いた数式を見た瞬間、背筋がゾクゾクと震えた。
無駄がなく、論理的で、それでいて大胆。
それは、奴の生き方そのもののように見えた。
技術者というのは因果な生き物だ。
どんなに性格が悪かろうが、敵国の人間だろうが、「正しい解」を出せる奴には敬意を払わざるを得ない。
ましてや、俺の思考を理解し、俺が見ている景色を共有できる相手なんて、この世界に一人もいないと思っていた。
それが、あんなお嬢様だったとはな。
「……参ったな」
俺は自分の右手をじっと見つめた。
さっき握った手は、貴族にしては少し荒れていて、インクの痕があった。
必死に勉強した証拠だ。
俺を認めさせるために、睡眠時間を削って、慣れない数学書を読み漁った姿が目に浮かぶ。
健気だなんて思わない。
ただ、その執念深さと、負けず嫌いな性格が、俺には酷く心地よかった。
鉄と蒸気だけが信じられる世界で生きてきた。
人間なんて不確定で、非論理的な変数は邪魔なだけだと思っていた。
だが、エリザベート・フォン・アルニムという変数は、俺の計算式を狂わせるどころか、思いもよらない「解」へと導いてくれるかもしれない。
「……せいぜいこき使ってやるさ、パートナー」
俺は図面に向かって、誰にともなく呟いた。
口元が勝手に緩むのを止められない。
この退屈で色のない峡谷が、急に鮮やかに見えてきたのは、きっと気のせいじゃないだろう。
俺は新しいタバコに火をつけ、図面の続きに取り掛かった。
奴が持ってくるであろう『特級鋼』を、どう組み込んでやろうか。
想像するだけで、腕が鳴る。
夜明けはまだ遠い。
だが、俺たちの戦いは始まったばかりだ。




