2.覆面作家
朝の王立学院には澄んだ空気が漂っていた。馬車置き場には、馬の蹄の音、御者の掛け声、貴族子女の話し声、雑多な音が混ざり合っていた。
「おはようございます」
馬車を降りたサラが振り返ると、キャサリン・アルベス伯爵令嬢が会釈した。淡い金色の巻き毛がきらきらと輝き、微笑みには親しみがこもっていた。キャサリンはサラの幼馴染であり、互いの屋敷を頻繁に行き来する仲だった。幼い頃は一緒に庭を駆け回った。王立学院に入ってからは一緒に刺繍をしたり、恋の話に花を咲かせたりした。
「あら、サラ様、手が汚れていますわ」
キャサリンはサラの右手を指差した。見ると、手の平に黒いインクの跡が残っていた。昨夜遅くまで書き物をしていたときに付いたものだ。羽根ペンを握りしめ、何度も書いては消した。手に染みついたインクはよく洗い落としたはずだったが、残っていたのだろう。
「あら、手紙を書いたときに付いたのね」
サラは軽く笑ってごまかした。サラにとってキャサリンは親友であったが、決して知られてはならない秘密が二つあった。
一つは、サラが二次元の男性――とりわけフィリップの描くエドワード・ハリスに夢中であるという事実。
もしキャサリンがそれを知れば、何かの拍子にサラの両親に伝えてしまうかもしれない。そうなれば、サラの留守中に父がフィリップの絵を処分してしまう可能性もある。想像するだけで恐ろしかった。あの絵がなければ、サラはどうやって日々を生きていけばいいのか。
もう一つの秘密は、さらに重いものだった。サラが小説『鐘の鳴る丘で、もう一度あなたと』の著者、ジャック・ローレンだということ。昨年出版されたその物語は、リネール王国はじまって以来の販売数を記録し、王国でその名を知らぬ者はいない。しかし、ジャック・ローレンの正体を知る者はどこにもいなかった。覆面作家として、サラは秘密を隠していた。
事の始まりは、侍女のケリーが書いた小説だった。
**
あの日の夜、月が窓からよく見えた。寝室の窓から空を見上げていると、普段は礼儀正しいケリーが、ノックもせずに入ってきた。
「お嬢様、お願いがあります」
寝室に入ってきたケリーの声は、珍しく上ずっていた。その手には、紙の束が握られていた。小説を書いたので、サラに感想を聞かせてほしいのだという。几帳面な字でびっしりと埋め尽くされていた。物語を心から愛するサラは、二つ返事で快諾した。
夜更けまでかけて読み終えたサラは、率直な感想をケリーに伝えた。
「貴族令嬢がなぜこの男に惹かれるのか……理由が分かりませんね」
「理由ですか?」
ケリーはこめかみに手を当て、しばし考え込むように黙り込んだ。ろうそくの灯りが、ケリーの困惑した横顔を淡く照らしていた。
ケリーの書いた物語は、身分差を抱えた貴族令嬢と平民の青年の恋を描いたものだった。周囲からの猛烈な反対、価値観のすれ違いに苦しんだ末、青年は貴族令嬢の元を去っていく。無骨な男だった。貧しい生まれで、これといった夢も持たず、日々の生活に追われるだけの人生。令嬢と釣り合う自分になろうと努力はするものの、結局、彼は変わることができなかった。
「この物語の想定する読者は女性ですよね? この人のためなら死ねる、家を捨てても構わない……そう読者に思わせなくてはいけないの。でも、この男にはその魅力が足りないわ」
サラは静かに語りかけた。
「どうすればいいのでしょうか」
すがるようなケリーの眼差しに、サラは頬を緩めた。窓の外では、月明りに揺れる木の影が壁に映っていた。
サラは丁寧に解説した。二人の出会いをどう描くべきか、一見地味に見える男にどんな内面の魅力を持たせるか、そして読者が最後まで期待し続ける結末とはどのようなものか。
ケリーに説明するうちに、かつて夢中になった物語の情景が、サラの頭の中に鮮やかに蘇った。
説明を聞き終えたケリーは、しばらく呆然とした様子でサラを見つめていたが、やがて「わたしには、とても書けそうにありません」と静かに首を振った。
そして、目を輝かせて、こう続けた。
「お嬢様が書いた小説を読んでみたいです」
その一言が、すべての始まりだった。
王立学院から帰ると、サラは小説を書いた。夜には蝋燭の灯りの下で羽根ペンを走らせた。その時間は、サラにとってこの上ない喜びだった。
頭の中で男女の出会い、恋の気付き、心情の変化を妄想した。その妄想を文字に変える作業は、まるで自分だけの小さな王国を作り上げるようだった。
そうして書き上げたのが、『鐘の鳴る丘で、もう一度あなたと』だった。
読み終えたケリーの頬には、涙の粒が止めどなく流れた。
「もう一度、読み返してもいいですか?」とケリーは原稿を借りると、サラに何も告げぬまま、こっそりと原稿を出版社に持ち込んだ。
結果はケリーの予想した通りだった。出版社の担当者は物語の完成度に目を見張り、編集長に原稿を渡した。編集長はその場で出版会議を開催し、出版を決定した。
しかし、ここで一つの問題が持ち上がった。著者は、ルイ第一王子の婚約者の公爵令嬢である。もしサラが恋愛小説の著者である事実が世間に知られれば、ブラウン公爵家による国民の誘導、思想教育と受け取る者が現れるだろう。対立する派閥の貴族たちが、この作品を口実にブラウン公爵を糾弾する事態も十分に考えられた。
熟考の末、サラは出版社とのやり取りをすべてケリーに託し、自らはジャック・ローレンを名乗ることにした。
そして、あの覆面絵師フィリップの描く絵――それは、サラが心の中で思い描いていた登場人物の姿と、あまりにも似通っていた。まるで、サラの妄想から抜け出したかのような。それこそが、サラがフィリップの絵に執着する本当の理由だった。
キャサリンの話に相槌を打ちながら、サラは並木道を歩いた。
その胸の内には、誰にも打ち明けられない秘密があった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
よろしければ、下の☆☆☆☆☆で評価していただけると大変励みになります!




