1.覆面絵師
窓から差し込む朝の光がワードローブを照らしていた。公爵令嬢のサラ・ブラウンは寝台から飛び起きて、その木製の取っ手を回した。かちり、と小さな音が静かな寝室に響いた。
「エドワード様、おはようございます」
サラは絵に描かれた男の顔に語りかけた。
少し癖のある焦げ茶色の髪、憂いを帯びた瞳、口元に浮かぶ控えめな微笑み――フィリップという覆面絵師が描いた絵。その絵は、本物の人間のように生々しかった。
描かれているのはエドワード・ハリス。ジャック・ローレンの小説『鐘の鳴る丘で、もう一度あなたと』の主人公である。この絵は、サラの心を一年前から捕らえて離さなかった。
この絵に会ったのは、何の変哲もない午後だった。王立学院からの帰り道、サラはいつもの市場が違ったように見えた。どこがどう違ったか、説明が難しい。「きらきら」と「ざわざわ」が混ざったような色をしていた。馬車を待たせたまま、サラは侍女のケリーを連れて市場に足を向けた。
商人の威勢のいい声、焼き菓子の甘い匂い、鮮やかな布が店頭に並んでいた。貴族令嬢が立ち寄るには少し場違いな場所だったけれど、好奇心が勝った。
髭面の店主が営む小さな露店に、粗末な紙に描かれた男性の絵が飾られていた。その中の一枚に、サラの視線は釘付けになった。
「この絵は?」
サラが尋ねると、店主は目を細めて笑った。
「お嬢様、お目が高い。これは人気絵師のフィリップが描いたエドワード・ハリスです」
店主は他の絵も見せてくれた。どれも同じ小説の登場人物を描いたもので、フィリップの絵には、サラを魅了する独特の色気と気品があった。
「フィリップの絵はすぐに売り切れます。運が良かったですね」
店主に愛想笑いしながら、サラは胸が高鳴るのを感じた。
絵の値段は銅貨一枚だった。たった銅貨一枚の絵に、サラはこれまで感じたことのない高揚感を覚えた。その日、店主が勧めるままフィリップの絵を三枚買った。サラが絵の代金として銀貨三枚を渡そうとすると、店主は「それは受取れません」と苦笑いした。サラは銅貨三枚を払って絵を受取った。
それが、サラとフィリップの出会いだった。
それ以来、サラは王立学院からの帰り道、市場を巡ってフィリップの絵を探し求めた。だが、フィリップの人気は凄まじく、店先に並ぶと瞬く間に売り切れた。
絵を手に入れたい一心で、サラは侍女のケリーに頼み込み、あちこちの商店を回らせた。そうしてようやく十枚を買い集めた。
フィリップの絵がここまで入手困難だった原因は、その価格だった。価格の手頃さゆえに、庶民の娘も、貴族の令嬢も、銅貨一枚で同じ絵を手にすることができた。
かつて、フィリップの絵を買い占めて法外な値で転売しようと企てた商人がいたが、その者はほどなくして騎士団に捕らえられたという。それ以来、転売目的でフィリップの絵に手を出す者はいなくなった。
誰も、フィリップの正体を知らなかった。代理人を通じて商会に絵を卸すのみで、交渉の場にも契約の場にも、フィリップ自身が姿を現すことはなかった。
ジャック・ローレンの人気小説の登場人物を描くには、出版社の正式な許可が必要だ。それを得ているということは、フィリップが出版業界に確かな伝手を持つ人物である証だった。さらに、転売を企てた商人をたちまち騎士団に捕えさせるほどの権力も持っていた。
並外れた画力だけでなく、経済力と権力も併せ持つフィリップ。全てが謎に包まれた覆面絵師。それが婦人たちの想像をいっそうかき立てた。
サラは絵の中のエドワードをいつまでも見ていたかった。二次元の彼は、決して裏切らない。決して噓をつかない。いつまでも、優しい笑顔で、サラを見つめ返してくれた。
「お嬢様、そろそろ支度をしないと遅れますよ」
扉が開き、侍女のケリーが寝室に入ってきた。サラは慌ててワードローブの扉を閉めた。この収集癖を知っているのは、ブラウン公爵家の中でもケリーただ一人だった。両親も、兄も、友人も、誰も知らない。もちろん、婚約者であるルイ・リネール第一王子も。
「もう少しだけ」
サラが未練がましく呟くと、ケリーは呆れたように息をついた。
「いい加減にしてください。お嬢様はリネール王国の王妃になる方なのですよ。王国のためにも、そろそろ三次元の殿方に興味を持っていただかなくては……」
「いいの。三次元とは結婚しない。私、子供部屋おばさんになるから」
ふくれっ面をするサラの髪を、ケリーは丁寧に櫛で梳きながら、深いため息をついた。
「子供部屋おばさん……そんな言葉、いったいどこで覚えたんですか?」
窓の外では、朝の光が庭園の薔薇を照らしていた。花びらの上の朝露がきらきらと輝き、風が薔薇の香りを部屋に運んできた。そんな三次元の美しい景色は、サラの心を動かすことはなかった。
サラの父であるブラウン公爵の長年にわたる働きかけによって、昨年ついにルイ第一王子とサラの婚約が成立した。来年にはルイが正式に王太子となり、サラはその妃となる予定だった。誰の目から見ても、サラの未来は輝かしいはずだった。
そのはずだった。




