file6 獣の影
甲高い金属音が、路地裏に響いた。
振り下ろされた爪を、俺の剣で受け止める。
重いっ……腕が軋む。俺は低く息を吐いた。
「隊長……!」
背後でロゼが息を呑む。
目の前の男……いや、人狼は、既に人の形を失いかけていた。
筋肉が異様に膨れ上がり、皮膚を裂くように灰色の毛が生える。口元は前へ突き出し、獣の牙が剥き出しになる。
俺とて、その姿を見るのは初めてだ。
王国には人狼はいない。少なくとも、そうされている。
奴らがいるのは北部以北。凍土と山岳地帯のさらに先だ。
だが、人の姿では見分けがつかず、北部では昔から恐れられてきた。
人と獣の境界が曖昧だからこそ、厄介なのだ。
単純な膂力は一般的な兵士の三倍から五倍とも言われる。
実際、力比べなら俺も敵わない。
「ロゼ!」
「は、はい!」
「人狼は強い。故に、真正面からやり合うのは極力避けろ」
人狼が吠える。腕を振り回すだけでは、俺を捕まえられないと察したのだろう。
人狼は一瞬、まるで本物の狼のように身を屈めると、高速で突進してきた。
「流石に体のバネが凄いなっ! この突進は一瞬、タメがあるから注意だ」
横にズレて間一髪躱せた。
狼人の爪が石壁を抉り、砕けた石片が飛び散る。
それを見たロゼが、目を見開く。
「……た、隊長」
「よく見ろ!」
俺は剣を構え直した。
「人狼は、人から化けると知性が落ち、攻撃は単調になる!」
人狼が再び腕を振るうが、大振りで直線的、そこに技術は無い。
俺は身を沈めて懐へ入り、脚へ浅く斬撃を入れた。
かすり傷程度だ。仕留めるには足りない。
だが深追いはしない。すぐ離脱する。
「人狼の攻撃は受けるな、例えこちらが攻撃に転じても、避けられる体勢は崩すなよ」
俺はロゼへ言う。
「浅くていい! 一撃離脱だ!」
ロゼは唇を噛んだ。
即席で人狼の戦い方を教えてみたが、ロゼも戦闘の反省から掴んではいたのだろう。
その目は、リベンジに燃えていた。
「……はいっ!」
人狼が捉えきれない俺から、標的をロゼへと変える。
また一つ咆哮。
人狼を知らない者なら、混乱して取り乱すに十分な威圧感のある声音だ。
だが、ロゼは今度こそ冷静だった。
紙一重で避け、短剣が人狼の脇腹を掠める。
浅い。
だが、それでいい。
「その調子だ」
北部戦線が長く苦戦してきた理由は、人狼の爆発力にある。
人間以上の筋力、俊敏性、そして凶暴性。
一度、人狼化してしまえば、手がつけられない化け物だった。
……だが弱点もある。
人狼化は肉体への負荷が大きく、長く続かない。
だから北部では、人狼とは殺し合わず消耗させる戦術が定着していった。
といっても、言うは易し。その技術と体術を身につけるまでに、どれほどの練成が必要かは、言うまでも無いが、一方的な蹂躙を避けるために、その戦術が必須とされていたのだ。
だが、今の北部は事情が違う。
俺の剣の師匠、アオバ少将が戦線に出ている。
【現代の剣聖】
あの人が前線に立ってから、人狼側は圧倒的に押されていると聞く。
師匠は笑って言っていた。
『人狼か? 私なら容易く斬れるが、確かに並の剣士なら刃も立たないだろうな』
木刀を肩に担ぎながら、思案するように師匠は言う。
『でも、ちゃんと弱点もある。勝つだけなら、時間が解決してくれるさ』
そして。
『だけどなケイン。お前は斬れ』
……余計なことを思い出した。ここで斬っては、意味がない。
やがて人狼の呼吸が乱れ始めた。
動きがより粗くなり、疲労が見える。
「隊長! これって、あともう少しってことっすか!?」
「いや、終わりだ」
人狼の身体が痙攣する。
膨れ上がった筋肉が萎み、灰毛が抜け落ちる。
やがて、男は、人の姿へ戻った。
荒い呼吸、汗、膝から崩れ落ちる姿は、まさに限界といった様相だった。
俺は剣先を男の喉元へ向ける。
「お前を捕縛する。逃げようとしても無駄だ」
既にロゼが男の背後に回っていた。
男は憎悪と敵意のこもった目で、俺を睨んでくる。
「聞きたいことがある」
俺は静かに言う。
「どうやって王都へ入った。誰の指示だ」
男は答えない。ただ口元が歪んだ。
……嫌な笑い方だった。
「隊長、こいつ……」
ロゼが警戒する。俺も何かを感じた。
「待て!」
くっ! 遅かった。
男は自ら口内を噛み砕いた。
黒い液体が男の口から溢れ、直後、男は血を吐いて倒れた。
「毒だとっ!? おいっ!?」
俺は身体を掴み、揺らしたが、男は数秒で動かなくなった。
夕暮れの風だけが路地を抜ける。
自害用の薬を口内に仕込ませ、いざとなったら噛み砕く……ただの盗人が、ここまでするか?
「……ただの盗賊じゃない」
ロゼが青ざめる。
「スパイ……っすか?」
「あるいは、もっと悪い」
俺は答えた。
「テロ要員だ」
◇
その夜、黒鷲隊本部では緊急会議が開かれた。
重苦しい空気だった。
総隊長アリージャ公爵。
第一隊隊長ルーナ=アルテミス。
第二隊隊長ゴドリゴ=ゴレムス。
全員が揃っている。俺は戦闘経緯を報告した。
沈黙が落ちる。
最初に口を開いたのはルーナだった。
「人狼の王都での明確な目撃例は……今回が初です」
「だが」
アリージャ公爵が机上の資料を示す。
「王太子もおっしゃられていた、住民が夜に襲撃を受ける事案は以前からあった」
資料に目を落とす。
行方不明、正体不明の襲撃、夜間騒乱、身元不明者。
「……これを遡ると?」
アリージャ公爵は静かに言った。
「一年ほど前だ」
空気が凍った。
一年。
もし、獣人が密かに王都へ侵入していたとしたら。
それほど長期間。
誰にも気付かれずに。
冷や汗が背を流れた。
「冗談じゃねぇな……」
ゴドリゴが声を漏らす。
ルーナの表情も硬い。
王都の中に敵がいる。それも、一匹ではないかもしれない。
その脅威はあまりにも大きく、不安となり、口を噤む。
沈黙を破ったのは、アリージャ公爵だった。
「第一隊、第二隊」
灰銀の瞳が鋭く光る。
「警備人員を増強せよ。各門、市街、夜間巡察を強化する」
「承知しました」
「了解だ」
そして。
その視線が俺へ向く。
「ケイン。明朝、王太子殿下へ報告する。同行しろ」
「了解しました」
王都は、俺が思っていた以上に、危ういのかも知れない。




