36.両片思い
「レイくん? あのね、いま大丈夫?」
くぐもった声が聞こえた途端、俺の中にあった心地よさがすうっと引いていくのがわかった。胸の奥から熱く苦しい衝動が湧き上がり、何かに急き立てられるように当たり前のことを実行する。それは身体に染みついた反射だった。
「レナ? どうした、何かあったのか?」
顔が見えないことがもどかしい。意味もなく携帯端末を握る手に力がこもった。声の調子から不安そうな表情を想像してしまい、今すぐにでも駆け出したい気分になる。
「う、ぐすっ。あ、あのね。私、もう駄目かも」
「レナ? 泣いてる? いま一人か?」
かすかに漏れ聞こえた音が更に俺の心をざわつかせた。
状況がまるでわからない。外村たちとのパーティはもう解散した頃だろうか? カイは何をやってるんだ? あいつが一緒にいてどうしてレナが泣くことになる? そこまで考えて、腹の底で得体のしれない感情が煮え滾った。
「カイと喧嘩でもした? あいつに何か言われたのか?」
「助けてよぉ、レイくん。す、すぐに、来て欲しいの。いま、駅前のカラオケにいるんだよね? 私、まだ同じ所にいるから」
尋ねてみても涙まじりの声が俺を呼ぶばかりで、まるで要領を得ない。
こういうことはたまにあった。
例えば彼氏とトラブルがあったとか、傷つけられたとか、別れ話を切り出したら激怒されたとか。そういう感じの愚痴を聞いたり、問題に割り込んで仲裁に入ったりといったことをする羽目になるパターンはだいたいこれだ。その度に俺はレナの曖昧だが必死な懇願に折れてしまい、何もかもを放り出してレナの下に馳せ参じることになってしまうのだ。
(あ、ダメだこれ。今回も終わりか)
諦念じみた虚脱感に襲われながら、せめてもの抵抗として言葉を重ねてみる。
「レナ、あのさ。俺いま真壁と一緒なんだけど、マジで何かあって助けが必要なら、事情説明してもらえれば一緒にそっち行くよう頼んでみるから。場所ってカイが言ってたレンタルスペースだよな? すぐ向かうから少し待」
「レイくんひとりで来て。他の人に相談できないことなの。お願い」
それだけ言って、レナはぶつりと通話を終了させた。
携帯に視線を落としてGPSアプリでレナの位置を確認。確かにカイ主催のパーティ会場から動いていない。レナも俺の位置を把握している。来れない距離ではないのだから、つべこべ言わずに来いということだろう。
呆然としていると、真横で冷ややかな声がした。
「また呼び出し? あたし、振られるの?」
「違う、ただ様子がおかしかったから心配で」
慌てて否定したが、かなり苦しい状況であることは俺にもわかっている。
もう無理かな、と半ば諦めつつ真壁の顔色を窺う。
意外なことに、気遣うような視線がこちらに注がれていた。
「ね、今までもそうやって呼び出される度にあっち優先してたの? もしかして、そういうことしてるから振られるんじゃないの」
「いや、それは」
「うわ、『やってる』じゃんあいつ。最悪」
露骨な舌打ち。レナとカイの話をするとき、真壁はかなり柄が悪くなる。
おそらく意図しての振る舞いであり、彼女は俺にも『あたしを見習ってストレスを溜め込まないように』と常日頃から忠告してくれていた。そういう時、俺はいつもの潔癖さを発揮して尻込みしてしまうのだが、それを受けて『じゃ、流山くんのぶんまであたしが陰口叩いてあげる』と張り切るのが真壁綾だ。
要するに、真壁綾がこういう態度を取るのは彼女なりの優しさの発露だった。
「あんたも悪いけど、甘えてるあいつはもっと悪い。やめなよ、不健全だから」
ぐうの音も出ないほどの正論だ。
彼女の意見はいつだって俺を正しい方向に導いてくれている。
その手を掴みたいと、心から思った。
けれど。
「それでも心配なんだ。お互いの関係が変わっても、誰か好きな人ができても。大切なことだけは変わらないから。何かあった時に後悔したくない」
このまま絶縁されてもう目すら合わせてもらえなくなるんだろうな、と思いながら言い切った。真壁はじっと俺の目を見ながら、ピアスホールを開けたばかりの耳たぶに指先で触れた。少しだけ痛そうに眉根を寄せて、不快さを堪えるように口を開く。
「ふーん。正直もうやってらんない気分なんだけど、これで終わってレナの思い通りになるのも嫌だな」
俺はびくりと身を震わせた。
真壁が部屋のテーブルを下から蹴り飛ばしたからだ。
かなり大きな音がして、氷の溶けたほぼ空のグラスが揺れた。
深く息を吐いて、吸って、吐いて、吸って、ということを数回ほど繰り返したあと、真壁は顔を伏せてから暗い声でこんなことを尋ねてくる。
「ここであたしがみっともなく縋り付いて『行かないで』って泣いてみせたら思いとどまってくれる?」
「それは、ごめん。できない。振られても仕方ないって思ってる」
我ながら迷いが無さ過ぎたと思う。だが反射的に出てきた答えなのだからどうしようもない。自分が嫌いになりそうだが、そんな俺の手を真壁が握った。
目が合う。切実な感情が揺れていた。
「やめて。それなら『浮気するけど別れたくない』って言われた方がまだマシ。流山くんがレナを大事にするのはもう止められないってわかってる。でもあたしに執着してないみたいな言われ方は傷つく」
勝手に諦めていた俺を叱りつけるように、真壁は俺が自分で正解にたどり着けるように導いてくれていた。彼女は『物分かりのいい女』をやらされそうになっているのに、辛そうな顔ひとつせずにちゃんと前を見ようとしていた。
俺も、このままでは駄目だ。
「真壁。俺は今から身勝手なことを言うけど、できれば怒らずに聞いてほしい」
「無理。キレる。でも聞いてあげる。どうぞ」
それはそう。厳しい。
だが同時に限りなく優しい。真壁は俺の女神かもしれない。
「えっと、そりゃそうか。わかった。とにかく、俺はこれからレナの様子を確認して問題があれば対処して家まで送ってくる。でもそれは、真壁がどうでもいいとかじゃないってわかってほしい」
「ほんと? 『アヤむかつくから別れて』って言われて頷いたりしない?」
「しない。ちゃんと伝えるよ。真壁と付き合うことになったって。これからはなんでもかんでも助けてやれないって伝える。その上で、友達として、幼馴染としてやっていきたいって、全部言ってわかってもらう」
探るような眼が心の中まで入ってくるような錯覚。
疑いは不安の証拠で、不安は好意の証明だと思う。
真壁の疑念と不安が、たとえようもなく嬉しい。
だからこそ、俺は必ずその暗い気持ちを晴らしてみせなければならない。
「だったら、ちゃんと区切りつけて、あたしに『終わったよ』って報告してね」
声がわずかに震えていた。
これはきっと、真壁が俺に与えてくれた最後の機会だ。
生き方と、人生の優先順位。
縛られていた過去と決別するための猶予時間。
「すぐ報告するよ。今日でレナと距離を置くってちゃんと伝える。どの道、カイともそういう約束だったし。あいつの無事を確認して家まで送り届けたら速攻で戻る」
「なに? まだ連れまわすつもり?」
せめて拙くとも俺の感情を伝えたいと思った。
真壁にどれだけ救われているか。
心から大切だと思える人を、レナ以外で生まれて初めて見つけられた。
いや、彼女に見つけてもらった。そのことに対する感謝をわかってほしい。
「一応、予定ではせっかくハロウィンだし夜も遊ぼうって話だったし。途中離脱するだけで、まだデートは続いてるから。今日中にちゃんと終わらせる。だから待つのは夜まででいいよ」
精一杯の好意の表明。
せっかく付き合い始めたのに、その日に別の女のところに走ってそれでデートが終わりなんて思い出にはしたくなかった。
この特別な時間を、もっと特別にしたい。
俺の下心を見透かしたように、真壁は少し意地の悪い笑みを浮かべた。
「そんなにあたしと一緒にいたいわけ?」
「ほんとは、このままもっと一緒にいたい」
「ん。ならよし」
どうやら、ぎりぎり合格点をもらえたらしい。
真壁は手のかかる子供を見るように、仕方なさそうに微笑んだ。
「そんなこと言われたらさ。あたし、期待しちゃうからね」
柔らかくそう言って、俺をやさしく送り出す。
二人でカラオケを出て、待ち合わせの約束をして別れた。
ふと不安に駆られて振り返る。
日が沈みゆく夕暮れ時の街に、真壁綾は一人きりで立っていた。
まるで、光と音から切り取られて世界にぽつりと取り残されているかのよう。
待たせ続けるわけにはいかないと感じた。
名残惜しさを断ち切って、俺は彼女に背を向ける。
真壁綾と言葉を交わしたのは、それが最後になった。
記憶が飛ぶ。焦りながら移動してその場所に辿り着いたとき、もう既に日は沈みつつあった。冷えてきた肌が、室内の暖気で生気を取り戻す。
指定された部屋の扉を開いたときに思ったのは、パーティの後なのに片づけはちゃんと済んでいることでもなく、レナしかいないことでもなく。
もっと俗っぽい感動だった。
「天使だ」
レナを見た俺は思わずそう呟いて、感嘆の溜息を吐いてしまう。
違う。確かにレナは常に世界一可愛いし天使のようだが俺はそういう本心を口に出してしまったわけではない。
単純に、その日のレナが天使の仮装をしていたというだけの話である。
「あは。天使だよ」
レナがどこか力なく笑った。
バレリーナが身に着けているような、薄い生地を何枚も重ねたチュチュ。肩こそ出ていたものの、たっぷりとした布が体のラインを隠しており、汚れひとつない純白が清楚な雰囲気を演出している。ヘッドドレスに固定された天使の輪っかはファー付きでふわふわしており、安物であるためか少しだけ傾いていた。
駄目だ。どっちにしろ世界一可愛いかった。
いやこれ浮気だろ。
内心で真壁に謝罪しつつ、いや真壁は美人系だからとよくわからない弁明を重ねる。自分がわからなくなりながら、俺は招かれるまま部屋に足を踏み入れた。
「あれ」
見る角度が変わって気付いた。レナの背中に違和感がある。
どこかにぶつけたのだろうか、小さな翼は片方だけが欠けていた。
室内もパーティが終わって片付いているはずなのに、何かに荒らされた後のような痕跡があり、レナのバッグも部屋の奥に放り出されている状態だった。
千切れた翼が、バッグの下に挟まっているのが見えた。
俺の視線に気づいて、レナは困ったような顔をする。垂れ目がちで下がり眉だから、こういう顔をすると小さな子供みたいに見えて、思わず守ってやりたくなるところがあった。
「ちょっと、揉み合い? みたいになって。弾みで取れちゃった」
何でもないように言っているが、カイがそういうことをするのは珍しい、というより記憶にある限りでは初めてのことだ。
レナも動揺しているのか、肩のあたりで外に跳ねている毛先を指先で神経質そうにいじり続けている。幼少期の彼女には不安な時に爪を噛む癖があって、俺が何度もやめさせようとした結果、別の癖が出来てしまったのだ。
(まだ爪から血は出てない。いちおう、幼児帰りはしてないな)
泣き喚いて物を投げる段階にはなっていない、ということだ。
少し安心するが、ますます何があったのかわからない。
レナの感情は彼氏がいるときは比較的安定しているのだが、破局が近くなるとその反動のように揺れ幅が大きくなる。刺激しないように、そっと尋ねる。
「それで、何があったんだ? カイは?」
「カイくんは付き合いきれないって。捨てられちゃった、私」
一瞬、意味が理解できなかった。
よりにもよって、今日?
「はぁ?! どうしてだよ。お前ら上手く行ってたはずだろ」
交際一周年とかではしゃいで、ハロウィンパーティにかこつけて友達にまで祝わせようとしていたくせに? 自信満々に俺に勝利宣言をしたがっていたあいつが?
(ふざけるなよ。何様のつもりだ)
レナが完全無欠で世界一の女性だなんて言うつもりはないが、それでも一方的に捨てるなんてありえない。探し出して必ず殴ると誓ってからレナに事情説明を求めた。
「何かきっかけがあったはずだよな? 喧嘩したとか?」
レナはすぐに答えることができずに暫く黙りこくる。
俺が立ち話もなんだから座ったらどうかと提案しても曖昧に頷いてその場から動くことはなかった。どうしてか、レナは説明を嫌がっている。
というより、何か怖がっているようにも見えた。
がらんとした部屋は静かで、外では人々がハロウィンに浮かれているのが嘘のようだ。俺の預かり知らぬところで友達とのパーティが終わり、恋人との時間が破綻し、全てはあとの祭り。俺の関与できない所でレナが傷ついて苦しんでいたという事実が胸を締め付けた。俺はいったいこんな風になっているレナを放置して何をしていた?
(違う、駄目だ、こういう考え方はもうやめろ)
気が付くといつも通りの思考に陥りそうになる。
知らない場所でレナが自分の人生を進めていくのは当たり前のことだ。
ずっと一緒にいることはできない。そう願っていても叶いはしない。
だから、今日こそ区切りをつけるはずだったのに。
そうできないほど、今のレナは危うい精神状態に思えた。
俺と目を合わせない時間が続く。
それとも、見ることができないのか。
静寂が恐ろしくなった頃、ぽつりとレナが呟いた。
「子供、できちゃったの」
自分の呼吸音が鮮明に聞こえた。
不思議と耳を疑うことはなく、自然にその事実を受け入れている自分がいた。
思っていたより早かっただけで、覚悟はしていたから。
レナが妊娠した。
嫌だ。
(落ち着け。嫌だ。これは悪夢じゃない。現実だ)
レナの衣装は胴のラインが見えにくいが、はっきりとわかるような変化はまだないように思える。嫌だ。それなら学校で会ったときに気付くからだ。
もっと詳しい事情を聞かなければならない。嫌だ。
理性が下す答えは明白だったので俺は口を開こうとした。
嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。
何も音が出ない。舌が引き攣って、呼吸さえ失敗しそうだ。
急に自分の状態に気付く。じっとりと全身に不快感。
(嫌だ、やめろ)
服の中が汗でびしょびしょに濡れていた。
俺の方を見ないまま、レナが言葉を連ねていく。
「レイくん、前に言ってくれたよね。先輩と揉めた時も『俺がなんとかしてやる、もしものことがあっても不安がる必要はない』って私のこと優しく慰めてくれた」
「あ」
『ああ、その通りだ、安心しろ』と言いたかったが、喉からは引き攣ったような呻き声しか出てこなかった。自分を叱咤しようにもその気力さえ湧いてこない。
じわじわと、ここにいないカイに対する黒い感情が腹の底を満たす。
(絶対にレナの前で土下座させる。拒否したら殺してやる)
そんな俺の感情を見ることもなく、レナは俺に一歩近づいて言った。
必死なまなざしは俺を見ているが、俺を映していない。
レナはいま、不安だけが見えている。
「だ、だからさ! 今度も助けてくれるよね?」
当たり前のこと。いつものやりとり。変わらない関係。
幼馴染だから、そうするのが当たり前だった。
どんな状況であっても、俺はレナを助ける。
レナが不安がる必要などどこにもない。
そのはずだった。
「私っ、わたし、レイくんがいてくれたらどんなことがあっても平気だからっ」
レナが何を言っているのか、半端にしか頭に入ってこない。
彼女は俺に対して話しかけているのではなくて、自分自身に話しているようにも見える。あるいは、精神を安定させるための自己暗示を試みているのか。
理屈はわかる。だが、何かが致命的に損なわれていく。
俺たちは、二人同時におかしくなっていた。
「ていうか、むしろちょうどいい機会じゃない? レイくんは私と子供作るの無理なんでしょ? だったら精子提供とかそういう方法だってあるわけだし、考えてみたんだけど、このまま結婚しちゃうのもありじゃないかなっ?」
「は?」
流石に意味がわからない。思わず声が出た。
普段ならレナに向けることのない、相手を威圧するような敵意を込めて。
自分で自分が信じられない。どんなに喧嘩をしても、レナにここまでの態度を取ることはなかったのに。
案の定、レナはすっかり怯えた様子で身を縮こまらせてしまった。
「とか、思ったりしたんだ、けど」
声が萎んでいく。
罪悪感で胸が痛むが、思考の冷静な部分がレナの言動を全否定しているのは変わらない。どう考えても、彼女は常軌を逸したことを喋っている。
「あ、あれっ、変なこと言ってる、かな? えと、さすがにおかしいか。でもほら、こういう考え方をすることで状況を好転させる、みたいなの、あるじゃん。うん、そうだよ。これってお互いにとっていい機会なんだよ!」
精神的な動揺。あるいは現実逃避。
カイに捨てられた、とレナは言った。
そのショックが、ここまで彼女の心を傷つけてしまったのだろうか。
不安に揺れる瞳は俺に縋りつくようだった。
「ねえ、何か言ってよ。頷いてよ。これでいいよ。私たちの血が繋がってるのが問題なんだよね? ならこれで解決じゃん。そうだよ。私の親もそっちの親も、表沙汰にしたくないのバレバレだし。『他の人と子供できたので、いつも私のことを助けてくれるレイくんと結婚します』って言えば反対されなくない? だってする理由がないわけだし。ほらっ、これって名案だよ! ずっと一緒にいられるし、ね?」
そんなわけがない。
あり得ない想定の中で、虚構のキャラクターが破綻した芝居を行ってもそういう展開にはならないだろう。レナは思い付きで喋ったことを自分自身に信じ込ませようとしているだけだ。そうすれば俺が助けてくれるのだと信じているかのように。
「落ち着け。極論に走り過ぎだ」
確かに他人の子供を産むのであれば、近親相姦が抱える遺伝的な問題はクリアされる。俺たちはバレさえしなければ法的には他人だ。別にスウェーデンに行かなくたっていい。親を黙らせることさえできればレナの理屈は確かに通る。
「レナ。監視カメラに映っていなければ万引きをしていいわけじゃない」
レナがはじめて俺を見た。
虚構の中にいる、いつでも助けてくれる幼馴染ではなく。
考え方の違う他人でしかない俺がここにいるのだと、ようやく認識したのだ。
呆然としているレナは、現実逃避しているだけだ。
俺自身が考えていた『スウェーデンに行く』とかいう妄想も似たようなものだ。
遠回りで実現可能性の低そうな現実逃避でしかない。
レナだって、そのくらいはわかるはずなのに。
「お前、自分が何を口走ってるのか理解してるか? やってることが俺らの親と変わらないだろ。それを生まれた子供が知った時にどう思う? カイの気持ちは? そもそも親に止められるだろ。そもそも、そんなのは不貞だ。間違ったことはできない。とにかく落ち着け。お前はちゃんとカイと話をしろ」
必要なことを一気にまくし立てた。
レナを傷つけることになっても、軌道修正しなければいつまでもこいつは戻って来れないままだ。今は現実的にどう行動するべきかを考えなければならない状況だ。
「出産するにしても堕胎するにしても、俺はお前を見捨てたりしない。ちゃんとこれからどうしたらいいのか一緒に考えよう」
正論を並べる。あたりざわりのない、この場で適切と思われる言葉をどこかから借りてきて口から吐き出す。作業のような時間だった。
ここに俺の感情はいらない。
レナのためにも、俺が冷静になる必要があるはずだ。
「レナはカイに拒否られてパニックになってるだけだ。頭冷やしたら、ちゃんとカイと話し合った方がいい。あいつも動揺してるだけだろ。また逃げたら俺が引っ張ってくるよ。金が必要ならカンパでもなんでもして工面するからさ。おじさんとおばさんに言うのが恐かったら俺も一緒についてくから。てか病院はもう行ったか?」
「レイくん? なんか、なんか冷たくない?」
レナの不安そうな指摘は当たっていた。
親身になるようでいて、俺はレナを突き放そうと考えている。
ただカイのようにはなりたくないから、拒否だけはできなくて、取り繕うように見た目だけ正しそうな振る舞いを演じているだけだ。
俺だって人のことを言えないほど動揺している。
錯乱して、わけのわからないことを捲し立てて、叫びながら周囲に当たり散らしたい感情を必死に宥めているのだ。
レナの前でそんなことはできない。
だから、こうするしかなかった。
「そんなことないよ。それから俺、真壁を待たせてるんだけど。あいつに相談してもいいか? 友達だし、信頼できるし、こういう時に頼りに」
心乱れる中、俺は無意識に縋る相手を求めていた。
地雷とわかっていたはずなのに、真壁に言及してしまったのはそのせいだ。
レナが目を見開き、強い拒絶の意思を示す。
「なにそれやめて、アヤと会わないで」
「悪い。けどとにかく、まずはカイを呼び出して」
「カイくんは関係ないじゃんっ!」
不可解な反応だった。
動揺からうっかり零した反応だったのか、思わず口を押さえている。
違和感。とてつもなく嫌な引っ掛かりがある。
「いや、カイは当事者だろ。ちゃんと話さないと。レナ?」
声を掛けると、レナは口を開いて、何かを言おうとしては失敗するということを繰り返した。目を背け、指が口の前をさまよう。あからさまに動揺している。
「あっ、えと、うん、そうなんだけど」
何かがおかしかった。
そもそも、あのカイがこの手のことで責任を放棄して逃げ出すだろうか。
あいつはそこまでクズだったか?
そういう事情まで突っ込んで聞いたことなどないが、避妊に失敗するほど迂闊なタイプにも思えない。まあやらかしてる可能性はあるが。
「レナ。正直に言って欲しいんだけど、本当にカイと」
「カイくんとの子だもんっ!」
異様な剣幕だった。叫びが室内に反響し、消える。
レナの目が、ふたたび虚構を映していた。
「私、カイくんとの子供なら平気だから」
連なる言葉が、レナの感情と整合していないように思える。
断片的に、ただ並べられていく音は記号じみていた。
「だってカイくんのこと好きだし」
「いいひとだし、かっこいいし」
「レイくんと一緒に遊びに行ってくれるし」
「私たちのこと馬鹿にしないし」
「否定しない」
「私、カイくんなら許せる」
「子供育てられる」
「だから」
独白が続く。
まるで自分自身と対話しているような。
強迫的な意思の確認。
レナは今、誰に何を説明しようとしている?
「レナ、ちょっと落ち着こう。今日の所はまず家に帰って」
「いやあっ!」
近付いて肩に手を伸ばそうとした俺の手を払い除けて、レナは悲鳴を上げた。
信じていたものに裏切られたかのような絶望が、その目に宿っている。
「やだ、やだやだやだなんでレイくんそんなこと言うの、私が嫌いになったの? 私が悪いの? 私が穢れてるから? 私が寄生虫だから?」
「いや、なにを」
おかしい。
言葉の選び方が明らかに異常だ。
俺がもっと寄り添ってやらなかったから?
カイの話をしたから?
それとも家に帰れと言ったから?
レナは、いま何を恐れている?
「待て、誰かに何か言われたのか? 誰だ。カイがそんなこと言うはずないよな? 前の彼氏の誰かに会ったとかか? 何かされた? 大丈夫だレナ、俺はそんなこと思わないし、言ったりしないから」
レナがこんなふうに怯えている所なんて見たことがない。
どんなにつらい失恋をしても、俺の部屋で愚痴を零してから盛大に泣いた次の日にはけろりとした顔で立ち直っているようなメンタルの強さがレナにはある。
そのレナがこれほど不安定になったのは、記憶にある限りでは中一になったばかりの頃、万引きなどの非行に走って荒れていた時期くらいだ。
俺の問いには答えないまま、俯いたレナは沈黙を続ける。
辛抱強く待っていると、絞り出すような小声で望みを口にしてくれた。
「私、私は、帰りたい」
掠れ声の願い。
少しだけ安心した。
俺はできるだけ優しく聞こえるように心がけて話す。
「じゃあ家に」
「違う、違うの。あんなところ、私が帰りたい場所じゃないの。私は、帰ってもいいって言ってくれる人の所に帰りたいの」
悪寒がする。
遅すぎる直観に総毛立つ思いがした。
レナがカイに拒絶されたあと、独りきりで待っていた理由。
俺だけを呼び出した理由。
家に帰らなかった、帰りたがらなかった理由。
レナに、もう帰る場所がないのだとしたら。
(いつからだ? どうして気づけなかった?)
幼馴染と話す頻度は確かに減っていた。
俺の部屋に入り浸ることだってもう日常とは呼べない。
レナに彼氏ができるたびに距離を置いていたが、カイと付き合い始めてからは特に俺との適切な距離を見つけたように思っていた。
『三人で出かける』という選択肢が増えたからだ。
(もっと前から? 時期的にはここ数か月? 状況が悪化した? 疎遠になっていたせいで? カイは何をしてたんだよ)
レナはしきりに『愛されたい』と『家に帰りたい』を繰り返す。
彼女にはもう、帰るべき家などない。
俺のいる場所か、肯定してくれる恋人がいれば話は違うかもしれない。
信頼できる友人がいれば、相談できたかもしれない。
だがそれがなければ、どこにも行けなくなる。
「ねえレイくん。私と結婚してよ。私を選んで」
これは悲鳴だ。
レナは俺を愛情によって選んでいるのではない。
俺しか頼れないから。
愛してくれそうな相手が俺しかいないから必死に縋っているだけだ。
帰る場所がないレナは、帰る場所を作るしか道がない。
必要なのは、彼女を迎え入れてくれる『家』だ。
だが、だとしても。
「ごめん。それは無理だ」
できない。
正しくないからという以上に、俺にはもっと優先すべき相手がいる。
(抱きしめたい。せめて味方だって、友達ではいるからと伝えたい)
思考ばかりが空回りする。
言葉が出てこない。舌が、喉が動かない。
言い訳を考えながら、俺は静かに絶望していた。
どうすればレナを救えるのか、咄嗟に思いつけなかった。
とてもカイを笑えない。
無力感に感情が沈み込む。何が正しい選択なのかさえわからない。
俺は両親から生まれている。帰るべき家庭がある。
そんな俺に、何が言えるというのか。
「なんで。嘘だよ。レイくんは私の味方でしょ? ねえなんでっ」
信じられないと俺の言葉を拒否して、レナが俺に掴みかかる。
揺さぶり、八つ当たりのように胸を叩き、泣き喚き、それから揉み合いのようになって、レナが勢い余って俺を突き飛ばす。
その時、俺のスマホが落ちて床を滑った。
暗かった画面に光が灯る。
表示されたのは、いま届いたばかりのメッセージだ。
『彼氏に放置されすぎて泣きそう。夜風がピアス穴に沁みるんだけど』
『待ってるからね。はやくめんどくさい女フってこーい』
レナがそれを見ていた。
いつもは穏やかな目が見開かれ、不規則な呼吸を繰り返しながら身体を震わせる。
やがて、血を吐くような絶叫が室内に響き渡った。
「どうして、何でよりによってあいつなの?! 私たちのこと何もわかってないくせに、知ったふうなことばっか言って! レイくんに私の悪口吹き込んで! 私のこと馬鹿にして、見下して、私からレイくんを取ろうとするような女!」
燃えるような憎悪がレナの目を焼いた。
溢れ出す涙は心から流れ出す血液で、彼女の身体からは刻一刻と生きるための熱が奪われ続けている。魂を擦り減らしながら、死に近づくように感情が焼けていく。
「やだ、他の人ならまだ我慢できる。けどあんな奴を好きにならないでよ! 嫌いだって言って! 大事にしないで! なんでなんでなんで! 私はレイくんがいなくなったら生きていけないのに、私からレイくん取らないで! 置いてかないで!」
圧倒されて、俺は何も言えなかった。
俺の選択。正しいと信じていた道。
誰もが幸福になって、正しい収まり方をすると思っていたのに。
それが、ここまでレナを追い詰めるだなんて想像もしていなかった。
「誰も、私を愛してくれないんだ」
熱が冷める。
怒りと憎しみを振り撒くことに疲れてしまったかのように、レナはすっと感情を平坦にして、全身から力を抜いてへたりこんだ。
俺はそんなことはないと否定しようとした。
そんな資格はなかった。
俺はレナを選ばなかったのだから。
「じゃあもういいや」
ぞっとするような声で、全てを見限るようにレナが呟いた。
死んだように立ち上がり、亡霊のように部屋の隅へと歩いていく。
ふらふらとした足取りが心配で声をかけた。
どんな音を出したのかわからない。
俺の言動にはもう何の意味もなかった。
レナとの間に、二度と埋まらない断絶が横たわっている。
自分のバッグに手を入れてごそごそと何かを探る。
何か、沸き立つような小さな音が聞こえた。
加熱された水面に、泡が浮かぶ。
「アヤなんかにレイくんは渡さない。私がどこにも帰れないのに、二人で幸せになるなんて許さない。レイくんが誰かと幸せになるのを見せつけられるくらいなら、死んだ方がマシ。死んでくれた方がいい」
レナがバッグから取り出したのはどこの家庭にもある普通の道具で、日常的に目にするものだったから、俺の反応は一瞬だけ遅れた。
致命的だった。
鋭利な包丁を両手で構えて、レナが勢いよく突進してくる。
「死んでよ、ねえレイくん、私と一緒に死んで!」
それはきっと、突発的な激情だけではなかった。
パーティ用にしては大きすぎる。果物ナイフくらいのサイズがあれば事足りるし、そういった道具をわざわざバッグに入れて持ち歩くのは妙だ。
最初から包丁を用意していたレナは、この結末を予想していたはずだ。
いま思えば、心のどこかでレナは自分が幸福になれるはずがないと諦めていたように思う。俺に縋り付きながら、冷静に自分を見限っていた。
「どこにも行かないで! 捨てないで! ずっと傍にいて! もう離れないで! 私以外の誰も見ないで!」
痛み。熱。現実離れした結末を信じられなくて、ただ茫然と天井を見上げる。
熱。熱。熱。衝撃。繰り返し繰り返し、絶望が降り注ぐ。
何かを言った気がする。何も言えなかったような気もする。
鮮血が純白の衣装を染め上げて、泣き続ける片翼の天使が穢れていく。
「ふざけんな。死ねよ」
吐き出した言葉は呑み込めない。
それが、レナの心を殺すとわかって口にした。
自分が死ぬことがわかって、俺の中で何か大切なものが壊れた。
こんな状況に陥っても、俺が思ったのはレナの身を案じることなどではなかった。
(結局、ずっと、片思いだったな)
レナにとって俺は最後まで縋りつくためだけの存在だった。
レナが俺を異性として好きになったことは一度もない。
最期の瞬間、剥き出しになった俺の魂が発したのは、自分が決してレナには愛されないという残酷な事実に対する怨嗟だった。
なんて醜悪で、吐き気のするような罪。
俺を殺したのはレナだ。
けれどレナを殺したのは、間違いなく俺だった。
俺の最期の言葉を聞いたレナの顔が、痛みに歪んで。
それが終わりの瞬間だった。




