37.『ここ! レナレイ屈指の名シーン! マジで切なくてエモいの! ねえねえ、超良くない?!』
押し潰されそうなほどに重い闇が世界を覆っている。
死だ。ここには覆しようのない絶望しかない。
永遠の静寂。
それが結末。
本来なら、これで終わりだ。
だが。
物言わぬ屍の中で、脈動する光がある。
それは血に塗れた二人の胸元から浮き上がり、互いを求めるように宙を舞いながら近づいていき、そっと触れ合った。
光が闇を照らす。
死の上に、場違いな文字が表示された。
・『流山令』☆☆☆(レア) 状態:死亡
職業:『高校生』 前世の魂:『不死騎士』
・『三島礼奈』☆☆☆☆☆(ミシック) 状態:死亡
職業:『高校生』 前世の魂:『死霊術士』
二つの光は、それぞれが意思を持つかのように無惨な死に寄り添う。
光が触れ合うたび、喜びと悲しみが重なって悲鳴に変わった。
音は反響を繰り返し、いつしか遠い情景を呼び覚ます。
『死でさえも俺たちを引き裂くことはできない! レナは俺が守る。この命が尽きるとも、彼女だけは必ず守り抜いてみせると誓う!』
誰かの叫びが闇に響く。
小さな灯火が、暗い場所をわずかに照らした。
『たとえ死んでしまっても、変わり果てた姿になっていても、私はずっとずっと、あなたと一緒だよ。何があっても、この気持ちだけは変わらない』
誰かの祈りが闇を震わせる。
冷たい漆黒の世界に、温かな光がひとつ、ふたつと降り積もる。
『死んで』
『死ねよ』
互いを拒絶する暗がりを照らしているのは、ひどく弱々しい思い出だけ。
それはささやかで他愛のない記憶の欠片たち。
二つの輝きが、希望を探して欠片の海へと飛び込んでいく。
そこにあったのは、数えきれないほどの喜び。
声が響く。
『レイくーん、そのパン半分こしよーよ。てかよこせ』
『なあレナ、こないだおすすめされたの、よくわかんなかったんだけど』
『宿題やった~? レイくんの見せて~』
『今から二人でやるんだよ。ノート出せ』
『午後って眠くなるよね~』
『球技大会ってなに出る?』
『これ! ドリームボーダー! めっちゃ期待してるやつ!』
『あー、レナが好きそう。面白かったら教えて』
なんてことのない日常風景が現れては消えていく。
同じ時間を過ごして、他愛のないやりとりを繰り返す。
ただそれだけの、煌めくような瞬間。
『ねえねえねえ、これめっちゃヤバい! この幼馴染カプ、名前がさ~』
『まあまあ気まずいっつーかハズくね?』
『え~超好きかも! やだ~悲恋でエモ~い!』
『露骨に泣かせにきてんな』
同じものを見て、違うことを想う。
それでも夢の境界が触れ合う時、人は共感という錯覚を得る。
『レナレイ! 夢境はレナレイで行きます!』
『何の宣言なんだよ』
『レイくんも履修しなさい。義務教育だよ』
『ええ? いいよもうプレイ動画で』
『だめでーす!』
二つの光が喜びを表現するかのように一際つよく輝いた。
触れ合いは抱擁。
歓喜に震えながら、思い出の中を更に進んでいく。
『ここ! レナレイ屈指の名シーン! マジで切なくてエモいの!』
『うん、横でコメントされると切なさエモさが半減だけどな』
『ねえねえ、超良くない?!』
『まあ演出と音楽はいいよな。ベタだけど』
『でもやっぱりハピエンが良かったよ~!』
『来世で結ばれてくれ』
そうして、記憶への潜行を続けていた一対の光がようやく停止した。
必要な記憶を、遂に探し当てたからだ。
『二周目救済、ありました! レナレイ勝利! ぶい!』
『おー、よかったじゃん。で、レイって強いの?』
『男子はすぐ性能の話する~!』
『てかネクロマンサーじゃないレナって二軍落ちでは?』
『レイくんちょっと黙りなさい。お家帰って頭冷やしてきて』
『ここ俺の部屋だけど?』
光が弾けた。
記憶が混ざり合い、感情が解けていく。
隠されていた死の真相が明かされて、魂の記憶は闇に包まれた。
魂の接触によって、最初の嘘は暴かれている。
流山令の真実の記憶、本当の感情、罪の正体は全て開示された。
だが、まだ見えていないものがある。
二つの光が強く、更に強く互いを求めて引き合っていく。
手を伸ばす。
そして知る。
三島礼奈の心。その記憶と痛みを。
『流山令のことなんて別に好きじゃない』
照れ隠しじゃなくて本当にそうだと気付いた時、私の初恋だと思っていたものは終わり、同時に本当の初恋が始まった。
中学二年生の時に一目惚れした、ひとつ年上の先輩。
みんなが憧れるかっこいい人で、ほとんどの女子がそうであるように憧れるだけで終わったつまらない初恋だった。
その次は高一の時に出会ったサッカー部の先輩。
それから何人かと付き合ってみたけれど、はっきりと恋だと思えたのはこの二人と、あとは矢田部カイだけだった。
恋した相手と身体を重ねて実感したのは、幼馴染に抱いていた『好き』は恋愛感情とは根本的に性質が異なっていたということ。
『私が好きになるのは、強くて、かっこよくて、背が高くて、自信があって、リーダシップがあって、男らしくて、頼りになって、たくさん愛してくれる素敵な彼氏』
流山令とは全く違うタイプ。正反対と言ってもいい。
彼は強くなろうとしていて、線が細くて、体格は私の理想に届かなくて、自信を持つよりも先に自分の能力不足を疑って慎重になりがちで、ぐいぐい自分から動くタイプの横で冷静にマイナスの意見を言うことが多くて、男らしさとか女らしさみたいな考え方に批判的で、支えてくれるけど縋らせてはくれなくて。
そして、私のことが好きじゃない。
『レイくんは私みたいな悪いコを好きになんてならない』
中一の時、私は初恋だと思い込んでいたものに裏切られて、あっけなく失恋した。
その時にはそれが失恋だと思っていた。
実際には違ったけれど、幼馴染は正しさとか優しさとか道徳とかを持ち出すばかりで、一緒に『悪いこと』をしてくれなかった。
あたりまえだ。
だって、彼は私と違って正しくてちゃんとしてるから。
恋人同士が愛し合って生まれた、理想的な夫婦の子供。
両親からのまっすぐな愛を受けて育ったいいコなんだ。
『それは正しくない』
『簡単に間違ったことをするな』
なんて立派で模範的な子供なんだろう。
育ちのいい優等生。授業態度もきちんとしていて、おバカな男子たちが騒いでいる時だって簡単には流されない。先生や真面目な女子たちからの評判もいい。
反吐が出る。
私は違う。『間違った生まれの子供』だ。
母親の語る綺麗な愛は大嘘で。
父親は私という寄生虫を憎んでる。
「ごめんなさい、生まれてきてごめんなさい」
破綻した家族の関係。空っぽなお芝居でどうにか維持しているようなふりをして、終わりを強引に先延ばしにしているだけ。
大好きだった母の瞳は、幸福そうなのに空っぽだと気付いてしまった。
幼い頃に自然と言えていた言葉は、いつしか義務になっていく。
「お母さん、いつになってもお父さんとラブラブだよね~」
たぶん、母親似だったのだ。
救ってくれる王子様が大好きで。
窮屈な世界から連れ出してくれる理想の人を求めてる。
まるで目の前の現実ではなく、遠い幻想だけを見つめている幼い子供。
私がフィクションに耽溺していたように。
母は刺激的な不倫の物語と理想的な家庭の物語を、交互に味わっていたのだ。
そこにいるのが、生身の人間であることにはまるで頓着せず。
「レナちゃん、おっきくなってもお父さんと仲良しだね~」
「う~ん、私ってファザコンかも~」
へらへらと笑う。笑えと暗に命令されていたから。
母が好むのは無痛の幸福と快楽。
不倫は罪じゃない。単に自分にとっての最善を追求しているだけ。
効率を突き詰めれば、自分以外の『モノ』に対しては鈍感になれる。
世界はゲームだ。
割り切ってしまえば、悪だってスパイスになる。
私に備わっていた気質は、母親譲りの無邪気な邪悪さだ。
そう思わなければ耐えられなかった。
「私は寄生虫です。お父さんに罰を受けて当然の悪い子です」
謝ると、『お父さん』と呼んだことを詰られた。呼ばなければ否定されたと泣かれた。可哀そうで慰めたら、傷だらけの手首と震える指が伸びてきた。謝罪と怨嗟を交互に聞かされながら首を絞められた。泣いて懇願して媚びて笑って。
「お父さんの人生を無駄に浪費させてごめんなさい。お父さんの子供じゃなくてごめんなさい。お父さんのお金は働いてちゃんと返します」
痛み。痛み。痛み。我慢できるけど終わらない痛み。
小さくて些細な、後に残ったりしない弱々しい暴力。
もっと苦しい思いをしている人なんて大勢いるだろう。
私はそんなに苦しんでない。お父さんは優しい人だから。
大丈夫。
あとで『完全自殺マニュアル』を読めば、少しだけ安心できるから。
たまに妄想する。
自殺した場合でも、異世界に転生できるのかな、とか。
「私は、まだ平気」
母親は交友関係が広く、よく『友人』と遊びにいっていた。
ご丁寧にインスタでアリバイ工作までしてくれる、仲良しの共犯相手がいるらしい。多分、上手に不倫をこなすために協力し合える仲間なんだと思う。ご同類というわけで、大変結構な友情だと思う。
だから休日でも遅くまで父と一緒のタイミングがあって。
幼馴染に用事があったりして彼の部屋に逃げ込めない時に、それは起きてしまう。
それでも、致命的な一線を父は越えなかった。
まだ私を娘だと思ってくれている証拠のはずだった。
愛は壊れてしまったけれど、いつかは元に戻ってくれると信じたかった。
けれど。
「ただいま~。ちょっと早めに帰ってきちゃった~」
予定にない母の行動。連絡なしでの帰宅。
言えなかった。恐かった。それでも希望だった。
いつも朗らかで優しい母が、それを見ればきっと。
でも。それなのに。
私は、馬乗りになった父に首を絞められていたのに。
「レナちゃん、おっきくなってもお父さんと仲良しだね~」
それは、台詞だった。
笑顔が白々しくて、吐きたいほどに怖かった。
母は気付いたのに、見なかったことにしたのだ。
私は、言ったのに。
「助けて、お母さん」
「レナ~? 晩御飯まだ食べてなかったの? あっためるよ?」
まるで、何にもなかったみたいに。
理想の家族を演じ始める。
決定的に壊れたのはそこから。
エスカレートした。
母の前で堂々と暴力を振るうようになった。
両親はお互いのいまある現実を無視しながら、架空の家庭を演じるようになった。
徐々に徐々に、時間と共に崩壊は加速していって。
それから。
それから。
それから。
お母さんの名前を、たくさん呼ばれた。
(死ね。今すぐ死ね。わざとらしく泣いて謝るな。証拠を押さえて、警察、それより先にレイくんに言えばきっとすぐになんとかしてくれる。レイくんならきっと)
そうだ。どんなときも助けてくれる幼馴染なら、王子様みたいに私を助けに来てくれて、きっと全部を解決してくれる。
いいや、そんなの面倒だ。
いっそ台所から包丁を持ってきて、弱々しく震えているこの男を滅多刺しにしてしまえば話が早い。この暗い気持ちだって晴れるだろう。
(殺す。殺してやる。こんなやつ人間じゃない。生きている価値なんてない。生まれてきたこと自体間違ってるんだ)
妄想の中で、何度も父親を殺した。違う、これは父親ですらない。
敵だ。私を不幸にする、敵。
想像する。胸を一突きする。血が出て、男の顔が絶望に染まる。
何の価値もない人生が、それで終わる。
幼馴染と結ばれて幸せに暮らしました。めでたしめでたし。
その先に待つ終わりを、自分の手で締めくくるのだ。
私が最初に憧れた幸福の象徴を、私自身が終わらせる。
本当に、それでいいのかと思った。
「かわいそうなお父さん。私だけは、ずっと大好きでいるからね」
気が付くと、私はお父さんを抱きしめながら感情とは逆の言葉を口にしていた。
先に限界を迎えて死にそうなのは、むしろ父の方だったから。
私よりも弱くて。
私よりも哀れで。
私よりも苦しくて。
私のせいで、不幸になった人。
ほんの少しだけど、幼馴染に似ていた。
優しくて素敵な人だったのに。
私をずっと守ってくれる味方だったのに。
こんなにも、大好きなのに。
「大丈夫だよ。お母さんだって、きっといつか元通りになるから。そしたらまた、みんなで旅行とか行こうよ。ね、だから泣かないで」
私がお父さんを見放したら、お父さんは誰からも愛されなくなってしまう。
そうしたら弱いこの人はきっと死んでしまうだろう。
本当は、心の底から死んで欲しかったけれど。
大好きなお父さんを見捨てることなんてできない。
(レイくんに、相談したら)
考えたことは何度もあった。
そのたびに怖くなって言えなかった。
幼馴染は正しい人だ。
間違った家庭、間違った父、間違った母、間違った娘。
全てが否定されて、壊れてしまったらどうしよう。
『間違ったことをするな』
まっすぐな言葉が、もしも私を否定したらどうしよう。
穢れていない彼が、穢れた私を拒絶したらどうしよう。
そうなる可能性はとても高い。
(レイくんは、私と一緒に『悪いこと』をしてくれなかった)
父の暴力は私に対する正当な罰だ。
私という罪。生まれてはならなかった穢れた子供。
裏切られて傷ついた父には、私に罰を与える権利がある。
(レイくんは、お父さんの方を助けるかも)
彼だって傷ついたはずだ。
自分にとって大切な父親が、よその女に誑かされたのだから。
罪深い母の犠牲者である父に、同情を寄せるかも。
(こわい。本当のことを知ってしまうのなんて嫌だ)
幼馴染が、私という罪深い存在のことを本心ではどう考えているのか、知ってしまうのが怖い。汚らわしくて醜い私のことを全て知っている彼が、内心では私を軽蔑していて、ただ幼馴染だから良くしてくれているだけだとしたら。
(違う。そんなことない。レイくんはずっと仲良しでいてくれる)
でも、彼は私を好きじゃない。
流山令の異性の好みは良く知っている。
彼のことなんて好きじゃないけど、ずっと一緒だったからそれくらいわかる。
髪は短い方が好き。細身で背は高めがいい。垂れ目より吊り目が好き。フェミニンなのよりクールなのが好き。芯が強くて自立してるタイプが好き。真面目で正しい人が好き。甘えてこないタイプに興味を持つ。お互いに必要とし合えるくらいのバランスが好き。理性的で素直に感情表現ができる賢い人が好き。
(要するに、私じゃない人によく目を奪われてる)
幼馴染が運命の相手じゃないことを実感するたび、息苦しくなる。
流山令は本当は私なんかとは違う世界の住人だ。
ずっと仲良し? そんなわけがない。
素敵な愛。美しい恋。理想的な正しさ。心地良い善良さ。
そうした全ての『あって当然のもの』が羨ましくてたまらなかった。
(ずるい。レイくんは、全部持っててずるい)
遠い光の中にいる彼がずっと眩しくて、そして。
喩えようもないほど憎らしかった。
間違いを否定するレイが嫌い。
正しいことにこだわるレイが嫌い。
悪いことを一緒にしてくれないレイが嫌い。
その切っ掛けとなった出来事がレイの傷になっている事実に耐えられない。
(言えないよ。言いたくない)
だって、そんなの悲し過ぎる。
『悪いこと』がなければ。
三島礼奈は、この世に生まれることはなかった。
流山令と出会うこともなかった。
生まれてきたことさえ罪で、愛する人にその罪ごと否定されてしまったら。
『私に、生きている価値なんてないんだ』
記憶が闇に溶けていく。
魂に刻まれた痛みが、冷たい血となって暗がりを染めていった。
全ての破綻は人知れず進行していて、隠されたまま致命的なまでにエスカレートを続けていった。暴力は罪の輪郭を際立たせ、その暗さが濃くなればなるほど、輝かしい場所からは遠ざかっていく。
言いたいのに言えない。
拒絶が怖くて遠ざかる。
少しずつ距離が空いていき、逃げ場であった幼馴染の隣を失っていく中で、それを察した父親からの暴力は歯止めを失う。
そうして、全ては終わった。
死が二人の人生を断ち切ったのだ。
光が記憶の底から浮上する。
救いを求めるように。息継ぎをするかのように。
生きようとする意思を、魂が示した。
意識が、ゆっくりと過去と記憶の闇から戻ってくる。
そして俺は、流山令としての自分に立ち返った。
冥府の底で触れ合う二つの魂は心を通じ合わせているはずだが、レナの心は閉ざされたまま。強引に手を伸ばして記憶を探りはしたが、彼女は対話を拒絶している。
『レナ。聞いて欲しいことがある』
思い出した前世の顛末に救いはない。
レナがやってしまったことも、俺が吐き出した言葉も、取り返しがつかない。
『俺たちの人生はあの時に終わった。けど、それでも今、俺たちはまだ生きてる』
闇の中で灯った熱が、まだ消えていない。
遠い記憶、美しい情景を蘇らせてくれた二つの魂を、俺は知っていた。
俺は死の絶望の中で、あの二人に救われたのだ。
『レイとレナは、どんな絶望の中でも立ち上がって戦える。だってゲームのキャラなんだから。ハッピーエンドを目指すのは当然だよな』
俺は沈黙したままのレナに心で触れた。
探し当てた記憶の情景を差し出すようにして見せる。
それはゲームのワンシーンだった。
破壊された村。
次々と犠牲になっていく人々。
『レイ』が死霊と化して『レナ』を害そうとする。
「やめろ、俺は、こんなことがしたかったわけじゃない!」
しかし『レイ』は正気を取り戻し、動きを止める。
だが喜ぶ『レナ』に対して、恋人の青年は残酷な要求を突き付ける。
「今のうちに、俺を殺してくれ。正気を保っていられるうちに、終わらせるんだ。俺はこれ以上、レナやみんなを傷つけたくない」
葛藤の末、『レナ』は死霊術士として覚醒し、倒すべき敵を打ち破る。
『レイ』は倒された直後のわずかな時間だけ正気を取り戻す。
そして謝罪を繰り返す恋人の心を救うため、死にゆく男はこう言うのだ。
「赦すよ。レナになら、殺されたっていい」
俺には言えなかった。
そんな理想的な赦し、苦し過ぎて言う余裕なんて持てなかった。
俺は彼のように強くはなかったから。
弱くて愚かな流山令でしかなかったから。
「レナが生きて幸せになってくれることが、俺にとっての救いだから」
心からそう思える『レイ』のことが、俺は羨ましいと思った。
『レナ。俺はこんなふうにはなれなかった。俺は正しくなんてないから』
『レイ』の言葉で気付けた。
俺はレナの幸福を純粋に喜んでなんていなかった。
流山令の本当の感情は、綺麗で正しくなんてない。
それは、三島礼奈を救うことで救われている捻じれた自己愛だ。
『レナの世話を焼く自分に酔ってた。レナより精神的に優位でいるつもりだった』
俺たちにとって恋は罪で、叶わないからこそ愛情は永遠に理想でいられた。
安全に、無制限に、何度でも救い続けられる遠い片思いの恋人。
報われない愛に殉じる自分に酔っていれば、その痛みすら快楽に変えて、触れることもできない偶像と恋愛の夢を見続けることができた。
庇護欲と救世主願望に包まれた、疑似恋愛と自己愛の倒錯。
「俺がレナを縛っていたんだ。もっと冷たくしていれば。執着していなければ。何度も呼び出しに応じなければ。見捨てていれば。笑顔に救われなければ。愛おしいなんて思わなければ。レナは俺を頼ることをやめて、自分で自分を救えたのかもしれない。誰かもっと頼りになる相手と一緒に救われてたかもしれない」
その可能性を、俺が横から邪魔していた。
中途半端な過保護さで、庇護者の顔をしながら依存していただけ。
肝心な時に何もできない、自己満足の役立たず。
彼女の本当の苦しみに、気づくことさえできなかったくせに。
「弱くて、役立たずでごめん。赦してくれなんて言えない。俺はきっと、レナを救えなかったことをずっと後悔する。それでもごめん。死ねなんて言って、ごめん」
もし、違う結末があったなら。
俺では言えなかった言葉を、誰かが言ってくれたらと夢想する。
だから俺は、その願いを役の台詞にして代弁してもらった。
本当はできなかったこと。
剥き出しの魂になった今だから、そうすべきだとわかった。
俺の罪が何だったのか。
『死んでよ、ねえレイくん、私と一緒に死んで!』
『ふざけんな。死ねよ』
破局の瞬間。最期の光景が目の前に蘇る。
俺は手を伸ばして、そこに新しい台詞を重ねた。
書き換える。
『赦すよ。レナになら、殺されたっていい』
俺ではなく、レイならこれが言えるはずだ。
この世界でなら、虚構の中でなら。
俺はもっとましな人間になれるのだと信じたかった。
心の世界で再現された俺たちの影が重なる。
刃が腹部に突き刺さり、俺はレナを抱きしめるように死を受け入れた。
痛みと熱を、絶望ごと受け止める。
「レナの痛みが、わかって、よかった」
気付けなかった。頼ってもらえなかった。
レナの苦しみに寄り添えなかった。
自己満足の庇護欲を、自覚さえしていなかった。
それでも、間違ったこの恋の全てを嘘にしたくない。
「これだけは、独り占めにできるな」
「え?」
終わりの直前。
みすぼらしい嬉しさが湧き上がって、思わず笑みが零れた。
レナが恋をしたのは俺ではなかったし、俺の片思いは歪んでいたけれど。
俺はやっぱり彼女が欲しかったから。
たったひとつだけでも、レナの特別になりたかった。
だから、この瞬間が誇らしい。
そう思うことで、俺は次に進めるはずだ。
「お前が殺していいのは、俺だけだ」
レナの恋人も夫も、きっと死が二人を別つまでしか一緒にいられない。
だけど、レナと俺の死は誰にもやらない。
自己犠牲なんかじゃない。
俺が手に入れた、俺だけのレナの特別だ。
この愛おしい死を、永遠に抱きしめていよう。
悲劇を、幸福で美しい物語に変えるために。




