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第5話 私のいた場所

次の試験へ向け、朝から放課後まで一緒に勉強するようになったひよりと律。


二人の姿を見つめる一ノ瀬綾乃の中で、ある感情が大きくなっていきます。

翌朝。


ひよりが教室へ入ると、律が数枚のプリントを机の上へ置いた。


「これ」


「何?」


「今度の試験範囲をまとめたプリント」


ひよりは鞄を置き、表紙を見た。


教科ごとに見出しがつけられ、試験範囲の重要な部分が整理されている。


「これ、私のために作ったの?」


「違う」


律はすぐに否定した。


「俺が自分の試験対策用にまとめた。自分の分を印刷するついでに、君の分もコピーしただけだ」


「ついでなら、いらない」


「そうか。じゃあ返せ」


律がプリントへ手を伸ばすと、ひよりは慌てて自分の方へ引き寄せた。


「まだ中を見てないでしょ」


「いらないんじゃなかったのか?」


「見てから決めるの」


ひよりは最初のページを開いた。


英語は、試験範囲の文法が短い例文と一緒にまとめられている。


数学には公式だけでなく、間違えやすい計算や途中式の注意点まで書かれていた。


地理は、地形や気候の特徴だけでなく、地図や統計資料を見る時のポイントまで整理されている。


授業中に分からないままになっていた部分も、これなら一人で復習できそうだった。


「……これ、本当に自分のために作ったの?」


「そう言っただろ」


「私が分からなかったところまで、ずいぶん詳しく書いてあるけど」


「試験に出そうなところをまとめただけだ」


律は何でもないことのように答えた。


けれど、これだけのプリントを作るには、かなりの時間がかかったはずだ。


ひよりは認めるのが悔しかったが、素直にすごいと思った。


「それで、いるのか、いらないのか?」


「せっかくコピーしたみたいだから、もらってあげる」


「ありがとうくらい言えないのか?」


「私のために作ったわけじゃないんでしょ?」


ひよりはプリントを鞄へ入れた。


「昼休みまでに、英語の一枚目を覚えろ」


「急に命令しないでよ」


「賭けに勝ちたいんだろ?」


「分かってるわよ」


こうして、ひよりと律の試験対策が本格的に始まった。


朝のホームルームが始まるまでは、前日に覚えた内容の確認。


「次。increase」


「増える。増やす」


「例文は?」


「意味だけじゃ駄目なの?」


「文章の中で使えなかったら、覚えたことにならない」


「今から言うから、急かさないでよ」


授業の合間の休み時間には、プリントの問題を一問ずつ解いた。


「ここ、また符号が逆になってる」


「あっ……」


「計算を急ぎすぎだ」


「休み時間が終わるからでしょ」


「急いで間違えたら意味がない」


「分かってるわよ」


昼休みには、ひよりが弁当を食べながら、午前中の授業で分からなかった問題を律に教えてもらった。


「この式に変わるところが分からない」


「だったら、一つ前からやり直すぞ」


「答えだけ教えてくれたら早いのに」


「自分で解けるようにならなきゃ、試験では使えないだろ」


律はすぐに答えを教えず、ひよりが自分で考えられるところまで順番に説明した。


放課後、ひよりにアルバイトがない日は、二人で教室に残った。


ひよりが問題を解き、分からないところを律に聞く。


律は自分の勉強も進めながら、ひよりの手が止まるたびに教えた。


アルバイトがある日は、一緒に学校を出て、駅までの道や電車の中で問題を出し合った。


「次は地理。偏西風の影響を受ける地域は?」


「まだ問題を出すの?」


「次の駅まで時間があるだろ」


「少しくらい休ませてよ」


「160位以内に入りたいんじゃなかったのか?」


「分かってるわよ。もう一回、問題を言って」


ひよりは文句を言いながらも、以前より答えられる問題が増えていた。


一ノ瀬綾乃は、そんな二人の姿を毎日見ていた。


朝、教室へ来れば、律はひよりへ英単語の問題を出している。


休み時間には、二人で同じプリントを見ている。


昼休みも、律はひよりの机のそばにいた。


放課後になっても、二人だけで教室に残っていることがある。


教室を出たあとは、並んで駅へ向かっていた。


以前、その時間を律と一緒に過ごしていたのは綾乃だった。


休み時間には、互いに難しい問題を持ち寄った。


放課後は図書室で勉強し、帰り道では模擬試験や志望大学について話した。


学年1位の律と、2位の綾乃。


二人で同じ大学へ進み、大学でも互いに高め合っていく。


綾乃は、そうなるものだと思っていた。


けれど今、律の隣にいるのは自分ではない。


試験対策を始めて数日が過ぎた昼休み。


ひよりが教室を出ると、綾乃は律の前へ立った。


「律、少し話があるの」


「今から?」


「すぐに終わるから」


綾乃は律を、人気のない階段の踊り場へ連れていった。


「何の話だ?」


「最近、小日向さんとずっと一緒よね」


「次の試験まで、勉強を見る約束だから」


「朝も、休み時間も、昼休みも一緒じゃない」


綾乃の声が強くなった。


「よく放課後まで教室に残ってるし、毎日一緒に帰ってる」


「帰る方向が同じだから、その時間も勉強してるだけだ」


「小日向さんのことが好きなの?」


律は一瞬、返事を止めた。


「別に、好きとかそういうんじゃない」


「だったら、どうしてあの子にそこまでするのよ」


「次の試験で上半分に入れるって約束したからだ」


「でも、前は私と一緒に勉強していたでしょう?」


綾乃は律を見つめた。


「私たち、同じ大学を目指すって約束したよね?」


「覚えてる」


「だったら、私と勉強した方が効率的じゃない」


綾乃は悔しさを抑えながら続けた。


「私は学年2位よ。小日向さんは学年最下位でしょう?」


「あんな成績の子にばかり時間を使って、律まで成績が下がったらどうするの?」


「俺の成績は俺が管理する」


律は落ち着いて答えた。


「それに、小日向も最下位のままじゃない」


「どうして、そこまであの子を信じられるの?」


「入学した時は、俺と同じ点数だった。一度は俺を抜いて1位にもなってる」


「それは昔の話でしょう?」


「今は勉強する時間がないだけだ」


「だからといって、律が小日向さんにそこまでする必要ある?」


「ああ」


律は迷わず答えた。


「放っておけないからな」


「どうしてよ」


「小日向は家庭の事情で、塾へ行く金も、まとまった勉強時間もない」


律は綾乃を見た。


「お前、前に言ってたよな。現役生向けの予備校にも通って、家庭教師もついてるって」


「それが何?」


「それだけ勉強できる環境があるなら、十分だろ」


「何よ、それ」


「俺がつきっきりで教えなくても、お前は上位を維持できる」


「私だって努力してるのよ」


「知ってる。お前が努力してないなんて言ってない」


律は綾乃の努力を否定しなかった。


「でも、俺たちには予備校へ通ったり、家庭教師をつけたりする金なんてない」


「俺たち……?」


綾乃の声が止まった。


「俺と小日向だよ」


律は当然のように答えた。


「塾へ行けないなら、自分で勉強するしかない。時間がないなら、細かく分けて作るしかないんだ」


「律と小日向さんは違うでしょう?」


「何が違うんだ?」


「だって、律はずっと1位で……」


「成績の話じゃない」


律は綾乃から視線をそらさなかった。


「金や時間がないせいで、勉強することまで諦めなきゃならない気持ちは、俺にも分かる」


もう一度、律は「俺たち」と言った。


その中に、綾乃はいなかった。


「お嬢様のお前には、分からないだろうけどな」


その言葉が、綾乃の胸に突き刺さった。


「そんな言い方しなくてもいいじゃない」


「それに、俺がお前に何か言われる筋合いもない」


「え……?」


「俺はお前の彼氏でも何でもない」


綾乃の表情が固まった。


「誰と勉強しようが、誰と一緒に帰ろうが、俺の自由だろ」


「でも、私たちは同じ大学を目指すって……」


「それは進路の話だ」


律はそれだけ言うと、教室へ戻っていった。


綾乃は一人で階段の踊り場に残された。


昼休みが終わるまで、まだ時間がある。


綾乃は教室へ戻らず、そのまま屋上へ向かった。


扉を開けると、強い風が吹き抜けた。


綾乃はフェンスの前まで歩き、誰もいない校庭を見下ろした。


『俺たちには、そんな金なんてない』


『俺はお前の彼氏でも何でもない』


律の言葉が、何度も頭の中で繰り返される。


「ずっと私が隣にいたのに……」


声に出した途端、涙が頬を流れた。


律と同じ大学へ行くために、誰よりも勉強してきた。


予備校の授業も、家庭教師から出された課題も、決して手を抜かなかった。


いつか律を抜きたい。


けれど、それ以上に、律の隣にいたかった。


それなのに律は、自分ではなくひよりを選んだ。


私だけが、ずっと一人で勘違いしていたの?


綾乃は何度も涙を拭った。


その時、屋上の扉が開いた。


「一ノ瀬?」


聞き覚えのある声に、綾乃は慌てて顔を背けた。


「……何しに来たのよ」


扉の前に立っていたのは、学年3位の高橋蓮だった。


「昼飯を食べに来ただけ」


高橋は、綾乃が泣いていることに気づいた。


「篠宮のことか?」


「違うわよ」


「そうか?」


高橋は綾乃から少し離れた場所に立った。


「でも、ちょうどいいじゃないか」


「何がよ」


「篠宮が相手にしてるのは、あの学年最下位の小日向だろ」


綾乃は涙の残る顔で、高橋を見た。


「あいつが小日向に時間を使ってる今が、絶好のチャンスだよ」


「絶好のチャンス?」


「ああ」


高橋は綾乃へ手を差し出した。


「俺たち2位と3位が組めば、次の試験で篠宮を抜けるかもしれない」


「律を……抜く?」


「一ノ瀬」


高橋は差し出した手を動かさず、綾乃の返事を待った。


「俺と組まないか?」

律の隣を奪われたように感じる綾乃。


そんな彼女へ、学年三位の高橋蓮が手を差し出します。

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