第41話 水族館デート
春休み。
待ち合わせ場所で相沢晴真と合流したひよりは、水族館へ向かう前に、どうしても伝えておきたいことがあった。
「相沢さん、最初に言っておきたいことがあるんです」
「何?」
「私と律、今まで自分たちでも気づかないうちに距離近くなってたみたいで」
「うん」
「だから二人で話して、これからはちゃんと気をつけようって決めました」
「そうなんだ」
「律は綾乃ちゃんのこともあるし、私だって相沢さんとうまくいきたいから。変に誤解されるようなことはやめようって」
ひよりは晴真を見た。
「相沢さん、気にしてたんでしょ?」
「……うん。正直、少しね」
「だったら、もう大丈夫です」
「ありがとう。ひよりちゃんがそうやって考えてくれたの、嬉しいよ」
「はい」
ひよりは笑った。
「じゃあ今日は、律たちのことは気にしないで、二人で楽しみましょう」
「そうだね」
水族館へ入ると、ひよりはすぐに館内マップを確認した。
「あ、もうすぐイルカショー始まりますよ!」
「ほんとだ」
「行きましょう!」
二人がイルカショーの会場へ着くと、前の方の席にはまだ空きがあった。
ひよりは迷わず一番前の方を指さした。
「相沢さん、私、前で見たい!」
「え、前?」
「はい!」
「前は濡れるから嫌だよ」
「いいじゃん。せっかく来たんだから前で見ようよ」
「注意書きにもかなり濡れるって書いてあるけど」
「大丈夫、大丈夫!」
「僕は大丈夫じゃないんだけどなあ」
「ほら、早く!」
ひよりは先に席へ向かってしまう。
晴真は少し呆れながらも、そのあとをついていった。
「ひよりちゃん、今日は全然遠慮しないね」
「だって前で見たいんだもん」
「いつもは『どこでもいいです』って言うのに」
「今日はここがいいです」
「分かったよ」
晴真は笑いながら、ひよりの隣に座った。
やがてイルカショーが始まった。
イルカが次々と水面から高く跳び上がり、会場から歓声が上がる。
「すごい!」
ひよりは夢中になって拍手をしていた。
そしてイルカが客席のすぐ近くで大きく跳ねた瞬間、大量の水しぶきが二人を直撃した。
「きゃー!」
「うわっ!」
二人とも一瞬でびしょ濡れになった。
「ほら! だから言ったのに!」
晴真が濡れた髪を気にしながら言う。
けれどひよりは大笑いしていた。
「でも楽しい!」
「ひよりちゃん、びしょ濡れだよ」
「相沢さんもじゃないですか!」
「僕は前に座りたくなかったんだけど」
「でも笑ってるじゃん」
「まあ……思ったより楽しいかも」
「でしょ?」
ひよりは満足そうに笑った。
そんなひよりを見ているうちに、晴真も自然と笑っていた。
イルカショーが終わり、二人は館内へ戻った。
「あっ、相沢さん!」
「今度は何?」
「あっち! ラッコいる!」
「ほんとだね」
「先にあっち行きたい!」
「ジンベイザメは?」
「あとで!」
「さっき、ジンベイザメ絶対見たいって言ってなかった?」
「ラッコは今見たいの!」
「はいはい」
「ほら、早く!」
ひよりは晴真を急かしながら、ラッコのいる水槽へ向かった。
「あ、可愛い!」
水の中を泳ぐラッコを見ながら、ひよりは楽しそうに水槽へ近づく。
「見てください。めっちゃ可愛い!」
「うん」
「相沢さん、ちゃんと見てます?」
「見てるよ」
「ラッコじゃなくて私見てない?」
「ばれた?」
「何で私を見るんですか」
晴真は少し笑った。
「今日のひよりちゃん、楽しそうだなって思って」
「楽しいですよ」
「それに、今日は行きたいところもちゃんと言うし」
「……迷惑ですか?」
ひよりが少し気にするように尋ねる。
「逆だよ」
「え?」
「僕は今日みたいなひよりちゃんの方が好きだな」
ひよりは少し黙った。
「いつも『どこでもいいです』『何でもいいです』って言われるより、行きたいところとか見たいものとか、ちゃんと言ってくれた方が嬉しい」
「わがままでも?」
「そのくらいなら可愛いよ」
「……じゃあ、もっと言っていいんですか?」
「ほどほどにね」
「じゃあ次、クラゲ見たい!」
「もう決まってるんだ」
「はい!」
晴真は笑いながら、ひよりと一緒にクラゲの展示へ向かった。
薄暗い空間の中、いくつものクラゲが淡い光に照らされながらゆっくり漂っている。
「……綺麗」
さっきまで賑やかだったひよりが、急に静かになった。
「こういうのも好き?」
「はい。何かずっと見てられます」
「ほんとだね」
二人は並んでクラゲを眺めた。
ひよりはいつものように騒ぐこともなく、静かに水槽を見つめていた。
晴真もそんなひよりの隣で、同じ景色を眺めていた。
そのあと二人は、大きなジンベイザメが泳ぐ水槽へ向かった。
「大きい……」
「近くで見るとすごいね」
「相沢さん、上!」
巨大なジンベイザメが二人の頭上をゆっくり通り過ぎていく。
ひよりは夢中になって見上げた。
さらに進むと、巨大な水槽の中を無数のイワシが泳いでいた。
銀色の群れが一斉に方向を変えるたび、水槽の中に大きな波のような模様が生まれる。
「すごい……」
「綺麗だね」
「はい」
二人は同じ水槽を眺めながら並んでいた。
いつの間にか、ひよりの手と晴真の手が触れる。
ひよりは一瞬だけ自分の手を見た。
晴真の手が、そっとひよりの手を握る。
ひよりは何も言わなかった。
ただ、その手を握り返した。
二人はそのまま手をつないで、イワシの大群を眺め続けた。
水族館を出た頃には、外はすっかり暗くなっていた。
晴真の車に乗り、二人は帰路につく。
途中、晴真は夜景の見える場所へ車を停めた。
窓の向こうには、街の明かりが広がっている。
「綺麗……」
「ここ、前から一度来てみたかったんだ」
「すごく綺麗ですね」
「今日は楽しかった?」
「はい。すっごく楽しかったです」
「僕も」
「イルカショー、前で見てよかったでしょ?」
「びしょ濡れになったけどね」
「でも楽しかったじゃん」
「うん。楽しかった」
ひよりは嬉しそうに夜景を眺めた。
少しして、晴真が名前を呼ぶ。
「ひよりちゃん」
「はい」
ひよりが振り向く。
二人の顔が自然に近づいた。
こないだの観覧車と同じように、ひよりの胸が急に高鳴る。
けれど今回は、晴真は止まらなかった。
二人の唇が、そっと重なった。
短いキスだった。
離れたあと、ひよりは晴真を見つめた。
「……今度は、止めなかったですね」
「うん」
「私、ちょっと期待してました」
「やっぱり?」
「はい」
ひよりは照れながら笑った。
晴真も少し笑ったあと、真面目な表情になる。
「ひよりちゃん」
「何ですか?」
「これから、ちゃんと付き合おうか」
「……はい!」
ひよりはすぐに答えた。
「私、相沢さんの彼女ってことですよね?」
「そうだね」
「やった……」
嬉しそうなひよりを見ながら、晴真は続けた。
「ただ、一つだけ約束しておきたいことがあるんだ」
「何ですか?」
「ひよりちゃんはまだ高校生だから、今はキスより先はお預けにしておこうか」
ひよりは晴真を見る。
「ひよりちゃんが大学生になって、その時もまだ僕たちが一緒にいたら、その先のことはその時に考えよう」
「……分かりました」
「嫌だからじゃないよ。大切にしたいから、今は急ぎたくないんだ」
「はい。私もそれでいいです」
「ありがとう」
しばらくして、晴真がふと思い出したように言った。
「それと、もう一つお願いしていい?」
「まだあるんですか?」
「これから僕のこと、晴真って呼んでくれない?」
「え?」
「律君のことは『律』って呼んでるでしょ?」
「それはずっと一緒にいるから……」
「僕も呼び捨てで呼ばれたい」
ひよりは少し恥ずかしそうに晴真を見る。
「……晴真」
「うん」
「何か変な感じ」
「そのうち慣れるよ」
「じゃあ私も」
「何?」
「もう『ひよりちゃん』じゃなくて、『ひより』って呼んでください」
「分かった」
晴真は少し間を置いてから、改めて名前を呼んだ。
「ひより」
「……はい」
ひよりは嬉しそうに笑った。
「こっちの方が恋人っぽいですね」
「そうだね」
「じゃあもう一回呼んで」
「ひより」
「ふふっ」
「そんなに嬉しい?」
「嬉しいです」
二人はもう一度、窓の向こうに広がる夜景を眺めた。
こないだの観覧車では、あと一歩のところで止まった二人。
けれど今夜、その距離は少しだけ先へ進んでいた。
こないだの遊園地とは違い、今回は最初から最後まで二人きりで水族館を楽しんだひよりと晴真。
少しずつ自分を出せるようになったひよりを、晴真も嬉しく感じていたようです。
そして二人はついに恋人同士となり、呼び方まで少し変わりました。
これから二人の恋は、どんな時間を重ねていくのでしょうか?




