第39話 前を向くために
翌朝。
いつもなら朝から何かしら喋っているひよりが、その日はほとんど何も言わなかった。
「おはよう」
「……おはよう」
律が声をかけても、それだけだった。
朝食を食べている間も静かで、律に文句を言うこともない。
学校へ向かう時も、ひよりは律より少し前を歩いていた。
「ひより」
「何?」
「昨日は……」
「今、話したくない」
「……分かった」
律はそれ以上、何も言えなかった。
学校へ着いてからも、ひよりはいつもより静かだった。
休み時間。
律は綾乃のところへ行った。
「綾乃、ちょっといい?」
「何?」
綾乃は律を見ると、少し呆れたように言った。
「またひよりのこと?」
「……うん」
「やっぱり」
「ちょっと困ってるんだよ」
「何があったの?」
律は昨日の出来事を話し始めた。
「昨日、相沢さんの家で勉強してたんだけど、本棚から本取ったら写真が落ちてきたんだ」
「写真?」
「相沢さんと女の人が一緒に写ってた。元カノだった」
「元カノ……」
「今は海外に留学してるらしい。向こうでそのまま働きたいって言ってたから、多分もう帰ってこないって」
「そうなんだ……」
「でも相沢さん、その写真をまだ捨てられないって言っててさ。自分だけ少し過去を引きずってるのかもしれないって」
「それで、ひよりが落ち込んだの?」
「うん。写真見てから急に静かになった」
律は少し言いにくそうに続けた。
「前に俺が『忘れられない彼女とかいるんじゃないか』って適当に言っただろ」
「ああ……ひよりから聞いた」
「まさか本当にそうだったとは思わなかったけど」
「それで?」
「帰ってから俺が、『こないだ観覧車で先に進まなかったのも、あの元カノのこと忘れられないからじゃないの』って言ったんだよ」
「……うん」
「それだけじゃなくて、元カノとひよりじゃ月とすっぽんだとか、あの人は美人で大人っぽくてスタイルもいいから、お前みたいな子供っぽいやつ相手にされないって」
「律君……」
綾乃は呆れた顔で律を見た。
「それはひどすぎるよ」
「分かってるって」
「ひより、相沢さんのこと本当に好きなのに」
「言ったあとに、さすがに言いすぎたと思った」
「謝ったの?」
「今朝、謝ろうとした。でも『今、話したくない』って言われた」
「そりゃそうだよ」
「だから困ってるんだよ。俺が何か言ったら余計悪くなりそうだし」
律はひよりの方をちらりと見た。
「俺じゃどうにもならないから、綾乃、何とかしてくれない?」
「私が?」
「ひよりのこと、俺より分かるだろ」
綾乃は少し考えた。
「だったら……相沢さんに話してみない?」
「相沢さんに?」
「うん。ひよりが一番気にしてるのは、相沢さんがまだ元カノのことを忘れられてないんじゃないかってことでしょ?」
「まあ……そうだと思う」
「私たちが何を言っても、今のひよりには届かないかもしれない。でも相沢さん本人からちゃんと話してもらえば違うと思う」
「そっか」
「放課後、一緒に行ってみよう」
「分かった」
放課後。
律と綾乃は相沢の家を訪ねた。
「あれ、律君。それと……」
綾乃が軽く頭を下げる。
「一ノ瀬綾乃です。こないだは、家まで車で送ってくださりありがとうございました」
「ああ、律君と一緒に遊園地にいた子だよね」
「はい」
「どういたしまして。それで今日は?」
「ひよりについて、ご相談がありまして」
「ひよりちゃん?」
「はい」
綾乃は昨日からのことを相沢に話した。
「元カノさんの写真を見てから、ひより、かなり傷ついてるみたいなんです」
「……そうだったんだ」
「そのうえ律君が、元カノさんとひよりじゃ月とすっぽんだとか、ひよりみたいな子供は相手にされないとか言ったみたいで」
相沢が律を見る。
「律君、それはさすがに……」
「分かってます……」
律は気まずそうに答えた。
「ひよりは相沢さんのこと、本当に好きなんです」
綾乃は続ける。
「だから今、私たちが何を言っても、たぶんあまり届かないと思うんです」
「そうだね……」
「相沢さんから、一度ひよりと話してあげてもらえませんか?」
「うん。ちゃんと話すよ」
相沢は少し考えてから続けた。
「ひよりちゃんのことは好きだよ。気になってる」
「……」
「でも、元カノのことを完全に忘れたかって聞かれたら、忘れたとは言えない」
相沢は静かに話す。
「彼女はもう未来に向かって進んでる。向こうでそのまま働きたいって言ってたし、多分もう帰ってこないと思う」
「僕だけが、まだ少し過去を引きずってるのかもしれない」
「でも、それじゃいけないって思ってる。最近は僕も、ちゃんと前を向こうとしてるんだ」
綾乃が尋ねた。
「じゃあ、こないだ観覧車で先に進めなかったのも、元カノさんのことが理由なんですか?」
「それもある」
相沢は頷いた。
「中途半端な気持ちのまま、ひよりちゃんとキスするのは違うと思った」
それから律を見た。
「でも……それだけじゃなかったんだ」
「え?」
「律君とひよりちゃんの距離も、少し気になってた」
「俺とひより?」
「うん」
相沢は率直に答えた。
「二人って、すごく自然に距離が近いだろ。ひよりちゃん本人は何とも思ってないのかもしれないけど、僕から見ると少し気になってたんだ」
「……私も、それは気になってました」
綾乃が静かに言った。
「綾乃も?」
「うん」
「ひよりは何とも思ってないんだろうけど、律君とは何でも話すし、すごく自然に近いから」
律は二人を見た。
「俺たち、ただ一緒に住んでるだけだけど」
「律君たちにとっては、それが普通なんだろうね」
相沢はそう言ってから続けた。
「だからこそ、僕がひよりちゃんと先に進んでいいのか、少し迷ったのもある」
「そうだったんですね……」
「でも、ひよりちゃんが嫌だったわけじゃないよ」
相沢ははっきりと言った。
「むしろ大切にしたいと思ったから、あの時は止めた」
綾乃は少し安心したようだった。
「今すぐ恋人になるのは、まだ難しいかもしれない」
相沢は続ける。
「でも、ひよりちゃんとの関係を終わらせたいわけじゃない」
「今は友達としてもっと一緒に過ごして、少しずつお互いのことを知っていきたいと思ってる」
「その先で、いつかちゃんと恋人になれたらいいなって」
「その頃には僕も、過去じゃなくて今をちゃんと見られるようになっていたい」
「だったら、それをそのままひよりに言ってあげてください」
「うん」
相沢は頷いた。
「僕からちゃんと話すよ」
相沢の家を出たあと、律と綾乃は並んで歩いていた。
「綾乃、ありがとう」
「いいえ」
「一緒に来てもらって助かった」
綾乃は少しだけ律を見た。
「ほんと律君は、ひよりひよりだね」
「そんなことないよ」
「そうかな」
「今回は俺が余計なこと言ったからだって」
「ふーん」
綾乃は少し黙ってから言った。
「じゃあ今度、また私とデートして」
「え?」
「こないだは、ひよりたちと一緒になってデート台無しだったから」
「ああ……」
「今度はちゃんと二人でね」
「分かった」
「ほんと?」
「分かったって」
綾乃は嬉しそうに笑った。
その夜。
ひよりのスマホに相沢から電話がかかってきた。
「もしもし……」
『ひよりちゃん? 今、少し大丈夫?』
「はい」
『今日、律君と綾乃ちゃんが来てくれたんだ』
「え……?」
『ひよりちゃんのこと、心配してたよ』
「そうなんですね……」
『それで、僕もひよりちゃんにちゃんと話したいことがある』
「……はい」
『明日、少し会えないかな』
「分かりました」
『ありがとう。じゃあまた明日』
「はい」
翌日。
学校を終えたひよりは、相沢と待ち合わせていた。
昨日までのひよりとは違い、まだ少し元気がない。
「ごめんね。わざわざ来てもらって」
「いえ……」
相沢はひよりを見た。
「元カノの写真のこと、傷つけちゃったよね」
「……ちょっとだけ」
「ごめん」
相沢は誤魔化さずに続ける。
「元カノのことを完全に忘れたのかって聞かれたら、まだ忘れたとは言えないんだ」
ひよりは黙って聞いていた。
「でも、ひよりちゃんのことは好きだよ」
「……え?」
「気になってる」
ひよりが相沢を見る。
「こないだ観覧車で先に進めなかったのも、ひよりちゃんが嫌だったからじゃない」
「じゃあ……」
「元カノのことがまだ引っかかってるのに、中途半端な気持ちのままキスするのは違うと思ったんだ」
「そうだったんですね……」
「それと、もう一つあった」
「もう一つ?」
「律君とひよりちゃんの距離が、少し気になってた」
「律と?」
「うん」
ひよりは意外そうに相沢を見た。
「でも私と律は、そんなんじゃないですよ。恋愛対象じゃないし、一緒に住んでるから普通にしてるだけです」
「うん。ひよりちゃんはそう思ってるんだろうなって分かってるよ」
「じゃあ何で……」
「僕から見ると、二人はすごく自然に近いから」
「……」
「何でも言い合えるし、一緒にいることが当たり前みたいに見える。それが少し気になってたんだ」
「律はほんと、そんなんじゃないです」
「うん」
相沢はそれ以上、そのことを追及しなかった。
「僕も前を向かなきゃいけないと思ってる」
「はい……」
「その中で、ひよりちゃんともっと一緒にいたいって思うようになった」
「でも今すぐ恋人になるのは、まだ難しいかもしれない」
「……分かりました」
ひよりは少し考えてから頷いた。
「私も、ちょっと先走ってました」
「先走ってた?」
「ネックレスもらって、観覧車であんな雰囲気になって……もしかして私、もう彼女みたいな感じなのかなとか勝手に思ってたから」
「ごめんね。僕も分かりにくいことしちゃったよね」
「でも、ネックレスはすごく嬉しかったです」
「それならよかった」
ひよりの表情が少しずつ戻っていった。
「まずは友達として、もっと一緒に過ごそう」
「はい」
「それで、その先でいつかちゃんと恋人になれたらいいなって思ってる」
ひよりは少し照れながら頷いた。
「私も……そうなれたら嬉しいです」
相沢は笑った。
「じゃあ今度、またどこか行く?」
「え?」
「今度は律君たちと被らないように、二人きりで」
「行きます!」
ひよりの声が一気に明るくなった。
「絶対行きます!」
「元気戻ったね」
「だって今度は二人きりなんですよね?」
「うん」
「じゃあ、次はどこにしようかな……」
「もう考えてるの?」
「もちろんです!」
昨日まで静かだったひよりに、ようやくいつもの笑顔が戻っていた。
元カノをまだ完全には忘れられない相沢さん。
それでも、ひよりへの気持ちや、律との距離が気になっていたことまで正直に話しました。
そして綾乃もまた、ひよりと律の近さを気にしていたようです。
周りから見た自分たちの距離を知ったひよりと律は、これからどう変わっていくのでしょうか?




