第38話 静かになるひより
春休みを目前に控えたある日。
ひよりと律は、相沢晴真の家を訪れていた。
「お邪魔します」
「どうぞ。そんなにかしこまらなくていいよ」
相沢は二人を部屋へ案内した。
机の上には、すでに大学の教科書やノートが広げられている。
「僕もこっちで大学の勉強してるから、分からないところが出たら声かけて」
「はい!」
ひよりは嬉しそうに返事をした。
「じゃあ俺たちも始めるか」
「えー、来てすぐ?」
「何しに来たんだよ」
「分かってるけど、ちょっとくらい休憩してからでもいいじゃん」
「今来たばっかりだろ」
「だから今から休憩」
「意味分かんねえ」
律は問題集を開き、ひよりの前へ置いた。
「ほら、ここから」
「はいはい」
ひよりも仕方なく椅子に座った。
しばらくは静かに問題を解いていたものの、すぐに手が止まる。
「律、ここ分かんない」
「そこ、さっき説明しただろ」
「分かんないからもう一回教えてって言ってるの!」
「ちゃんと話聞いてたのか?」
「聞いてたわよ!」
「じゃあ何で分かんないんだよ」
「分かんないものは分かんないの!」
二人の声を聞きながら、少し離れたところで勉強していた相沢が笑った。
「二人って、ほんとよく喧嘩するね」
「だって律がいちいち偉そうなんですよ」
「お前が全然覚えないからだろ」
「またそういうこと言う!」
「はいはい。喧嘩するなら問題解いて」
「律に言われたくない!」
結局いつものように言い合いながら、勉強は進んでいった。
少し休憩に入ったところで、律が相沢に尋ねた。
「そういえば相沢さん、高三の春休みってどんな感じで過ごしてました?」
「僕?」
「はい」
相沢は少し考えた。
「あの頃は予備校に行って、一日中勉強してたかな」
「一日中……?」
ひよりが嫌そうな声を出す。
律はすぐにひよりを見た。
「ほら、相沢さんも勉強してたぞ」
「だから何よ」
「お前だけだよ。春休み遊びたいって言ってるの」
「いいじゃん! 春休みなんだから遊んだって!」
「もうすぐ受験生だろ」
「だからって一日中勉強なんて無理!」
「相沢さんはやってたって言ってるだろ」
「相沢さんと私を一緒にしないでよ!」
相沢は二人のやり取りを見ながら笑った。
「まあ、ずっと勉強だけじゃ疲れるし、息抜きも必要だと思うけどね」
「ほら! 相沢さんもこう言ってる!」
「都合のいいところだけ聞くなよ」
「だって相沢さんが言ってるんだから正しいでしょ」
「さっきまで一日中勉強してたって話は無視かよ」
「それはそれ!」
「ほんと都合いいな」
ひよりは不満そうに律を見た。
休憩の間、律は部屋の本棚へ視線を向けた。
「さすが相沢さん。ひよりと違って、興味を引く本がいっぱいありますね」
「ちょっと、それどういう意味よ」
「そのままの意味」
「私だって本くらい読むわよ」
「お前の本棚、教科書と問題集以外、ほとんど恋愛漫画じゃん」
「いいでしょ、別に! 恋愛漫画だって面白いんだから」
「はいはい」
「何よ、その言い方」
律はひよりの文句を聞き流しながら、本棚を眺めた。
「相沢さん、この本読んでいいですか?」
「いいよ。自由に読んで」
「ありがとうございます」
律が本棚から一冊の本を取り出す。
その瞬間。
一枚の写真が、本の間から滑り落ちた。
「……ん?」
律は床に落ちた写真を拾い上げた。
そこには、相沢と一人の女性が写っていた。
美人で大人っぽく、スタイルのいい女性。
相沢と肩を寄せるように並び、二人とも楽しそうに笑っている。
「これ……」
ひよりも律の手元を見た。
相沢が写真に気づく。
「あ……まだあったのか」
律は写真と相沢を見比べた。
「相沢さん、この人、彼女ですか?」
「え?」
「彼女いるのに、ひよりにちょっかい出してるんですか?」
「ちょっと律!」
ひよりがすぐに止める。
「そんなんじゃないよ! 私と相沢さん、まだ付き合ってないし!」
「まだって何だよ」
「そこはいいでしょ!」
相沢は律から写真を受け取った。
「ごめん。この人は元カノなんだ」
「元カノ……?」
ひよりの声が少し小さくなる。
「うん。今は付き合ってないよ」
「じゃあ、その人は今どこにいるんですか?」
「遠い海外。留学してるんだ」
「海外……」
「多分、もう帰ってこないと思う」
相沢は写真へ視線を落とした。
「向こうで、そのまま働きたいって言ってたから」
「そうなんですね……」
「この写真も、処分しなきゃとは思ってるんだけど……どうしても捨てられなくて」
ひよりは何も言わなかった。
相沢は少し間を置いてから続ける。
「彼女はもう、未来に向かって進んでるんだと思う」
写真を見つめたまま、静かに言った。
「僕だけが、まだ少し過去を引きずってるのかもしれない」
「……」
「でも、それじゃいけないって思ってる。最近は僕も、ちゃんと前を向こうとしてるんだ」
それまで律と何度も言い合っていたひよりは、急に静かになった。
「ひよりちゃん?」
「……大丈夫です」
そう答えたものの、その後のひよりはほとんど喋らなかった。
勉強を終え、相沢の家を出る。
「今日はありがとうございました」
「うん。またいつでも来て」
「はい……」
ひよりは小さく答えた。
帰り道。
いつもなら、ひよりは何かしら律に話しかけてくる。
相沢の話だったり、勉強への文句だったり、どうでもいい話だったり。
けれど、その日はずっと黙って歩いていた。
律も何も言わなかった。
二人はそのまま、ほとんど会話をしないまま家へ帰った。
「ただいま」
「ただいま……」
ひよりは鞄を置くと、すぐに自分の部屋へ向かおうとした。
その背中に、律が声をかける。
「ほら」
ひよりが止まる。
「こないだ観覧車から先に進まなかったの、やっぱりあの元カノのこと忘れられないからじゃないの?」
「……」
「写真だって捨てられないって言ってたし」
「分かってるよ……」
ひよりは小さく答えた。
それでも律は続けた。
「それに、あの元カノとお前じゃ月とすっぽんやな」
「……は?」
「あの人、美人で大人っぽくて、スタイルも抜群だったぞ」
「だから何よ……」
「お前みたいな子供っぽいやつ、相手にされるわけないじゃん」
ひよりはしばらく何も言わなかった。
いつものように怒鳴り返すことも、律に言い返すこともしない。
「……律、最低」
それだけ言って、自分の部屋へ入った。
扉が閉まる。
「……言いすぎたか」
律は一人、廊下に残された。
部屋へ入ったひよりは、ベッドに腰を下ろした。
頭に浮かぶのは、さっき見た写真だった。
相沢と並んでいた、大人っぽくて綺麗な女性。
楽しそうに笑う二人。
そして相沢の言葉。
『僕だけが、まだ少し過去を引きずってるのかもしれない』
「……分かってるもん」
ひよりは俯いた。
「私が子供っぽいことくらい……」
こらえていた涙が、静かに頬を伝った。
相沢さんの元カノの存在を知り、急に静かになってしまったひより。
そこへ律の一言が追い打ちをかけ、いつもの喧嘩では済まないほど傷ついてしまいます。
普段は何でも言い合える二人ですが、今回は少し違うようです。




