第25話 最後の日
以前暮らしていたアパートの引き渡しの日を迎えたひよりたち。
そしてこの日は、ひよりにとってアルバイト最後の日でもありました。
土曜日の朝。
ひよりは美咲と健一と一緒に、以前暮らしていたアパートへ来ていた。
先週、冷蔵庫や洗濯機、食器棚、古い布団などの大きな物は回収してもらっている。
今日は残っていた細かな物を処分し、部屋を掃除して引き渡すだけだった。
「こっち終わったよ」
ひよりが雑巾を洗いながら言う。
「ありがとう。洗面所も終わったわ」
美咲は棚や収納をもう一度確認した。
「忘れ物ない?」
「大丈夫。押し入れも見た」
「キッチンも何も残ってないぞ」
健一も確認を終えて戻ってきた。
家具も家電もなくなった部屋は、以前よりずっと広く見える。
しばらくして、管理会社の担当者がやって来た。
部屋の中を一通り確認してもらい、美咲が鍵を渡す。
「ありがとうございました」
玄関を出る前に、ひよりは一度だけ部屋を振り返った。
「少し前までここに住んでたんだよね」
「そうね」
「なんか変な感じ」
「そろそろ行くか」
「うん」
三人は部屋を出た。
美咲が最後に扉を確認し、そのまま階段を下りていった。
◇
午後。
ひよりはアルバイト先へ向かった。
今日が最後の出勤だった。
いつも通り仕事をして、休憩に入ると晴真が声をかけてきた。
「今日で最後か」
「はい」
「もうここで会わなくなると思うと、ちょっと寂しいな」
「私もまだあんまり実感ないです」
「これからは勉強?」
「その予定です」
「ちゃんとやるの?」
「やりますよ」
晴真が笑った。
「分からないところあったら連絡してよ。前にも言ったけど、俺、家庭教師やってるし」
「ありがとうございます」
「今度うちにおいでよ。勉強教えるから」
「相沢さんの家ですか?」
「うん。家庭教師で使ってる教材もあるし」
「じゃあ、分からないところいっぱい持っていきます」
「そんなにあるの?」
「ありますよ」
「それは教えがいがありそうだな」
ひよりも笑った。
休憩が終わり、最後の勤務もいつも通り過ぎていった。
仕事を終えると、店の人たちに挨拶をして外へ出る。
晴真も一緒に店を出た。
「今日も送っていくよ」
「ありがとうございます」
ひよりが助手席に乗ると、晴真は車を走らせた。
しばらくして、晴真が言った。
「今日は最後だから、少し遠出しようか」
「今からですか?」
「うん。今まで行ったところとは違う夜景、見に行かない?」
「行きたいです」
「じゃあ決まり」
晴真はいつもの帰り道から外れた。
ひよりは美咲へ、少し帰りが遅くなるとメッセージを送った。
◇
車は街を離れ、山道を上っていった。
着いたのは、山の中腹にある展望台だった。
車を降りると、眼下いっぱいに街の灯りが広がっている。
「わあ……すごい」
ひよりは手すりの近くまで歩いた。
「ここ、少し遠いけど綺麗だろ?」
「はい。今まで連れてきてもらったところと全然違います」
「最後の日だから、たまには遠くてもいいかなと思って」
「ありがとうございます」
二人は並んで夜景を眺めた。
「バイト辞めたあとも、またどこか行こう」
「はい」
「今度はもっと遠くでもいいかもな」
「楽しそう」
「勉強ばっかりじゃ疲れるから。息抜きも必要だよ」
「それ、律にも言ってほしいです」
「あ、同居の子?」
「いつも勉強、勉強ってうるさいんですよ」
「真面目なんだな」
「真面目すぎるんです」
ひよりは笑った。
◇
その頃、篠宮家のリビングでは、美咲と健一が晩酌をしていた。
テーブルにはつまみと二人分のグラスが置かれている。
階段を下りる音がして、律がリビングへ入ってきた。
冷蔵庫を開け、水を取り出す。
美咲がグラスを持ったまま律を見る。
「律君、また来たの?」
「またって何ですか」
「さっきも水飲みに来たじゃない」
「今日は部屋の暖房が効きすぎて、喉が渇くんですよ」
「そうなの?」
「そうです」
律は水を飲む。
「いつもなら部屋にこもって勉強してるのにね」
「だから喉渇くんですって」
「ふーん」
美咲は楽しそうにグラスへ口をつけた。
律が時計を見る。
「ひより、まだ帰ってこないんですか?」
「少し遅くなるって連絡来てるわよ」
「帰り遅くなるって、またあの大学生と寄り道?」
「そうみたい。今日は最後のアルバイトだから、少し遠くまで行ってくるって」
「……またですか」
美咲が律を見る。
「そんなにひよりの帰りが気になる?」
「別に。遅いから聞いただけです」
「律君、ひよりのこと好きなの?」
「は!?」
律が振り返った。
「だったら私、応援するわよ」
「美咲」
健一が横から声をかける。
「からかうなって」
「いいじゃない。ちょっと聞いただけよ」
「酔ってるだろ」
「そんなに飲んでないもん」
「十分飲んでる」
「健一、怒らないでよー」
美咲は笑いながら健一の腕に寄りかかった。
「怒ってない」
「じゃあいいでしょ」
「よくない」
美咲はまた律を見る。
「律君、頑張ってね」
「だから違いますって」
律は水を持って二階へ戻っていった。
美咲はその背中を見送って笑う。
「分かりやすいのにね」
「放っておいてやれよ」
「だって、さっきから何回も降りてくるんだもん」
「美咲」
「はいはい。もう言わない」
そう言いながら、美咲は健一の肩に寄りかかった。
それからしばらくして。
また階段を下りる音がした。
律がリビングへ入ってくる。
美咲が顔を上げた。
「また喉渇いたの?」
「……休憩です」
「はいはい」
美咲は笑いながらグラスに口をつけた。
◇
晴真の車が篠宮家の前に停まった。
「今日はありがとうございました」
「こっちこそ。最後のバイト、お疲れさま」
「ありがとうございます」
「また連絡するよ」
「はい」
「勉強の方もな」
「いっぱい持っていきます」
「覚悟しとく」
ひよりは笑って車を降りた。
晴真に手を振り、車が走り去るのを見送ってから玄関を開ける。
「ただいまー」
「おかえり」
美咲の声が返ってきた。
ひよりがリビングへ入ると、美咲と健一がまだ飲んでいて、律もソファに座っていた。
「律、休憩?」
「……遅いぞ」
「え?」
「一緒に勉強しようと思ってたのに」
「アルバイトがある日ぐらいゆっくりさせてよ。今日、最後のアルバイトだったんだし」
「今日で最後だな。こんな遅くなるの」
「え? 最後じゃないかも」
律がひよりを見る。
「何が?」
「アルバイト辞めても相沢さんと会う約束したから」
「……は?」
「今度、相沢さんの家で勉強教えてもらうの」
「家?」
「うん」
「相沢さんの家に?」
「そうだけど」
「勉強なら俺だって教えられるし、いつも一緒だろ?」
「いいじゃん。たまには息抜きも必要だよ」
「息抜き?」
「相沢さん、息抜きにって車でいろいろ連れていってくれるし」
「……」
「だって律、いつも勉強、勉強だもん」
「受験生なんだから当たり前だろ」
「律って勉強以外にないの?」
「あるよ」
「何?」
「……」
「ないじゃん」
「あるって」
美咲が隣で笑い出した。
「何笑ってるの、お母さん」
「別にー」
美咲は健一の腕に寄りかかりながら、二人を見る。
「健一、若いっていいねー」
「美咲、またからかうなよ」
「だって二人とも素直になればいいのに」
「何が?」
ひよりは首を傾げた。
「何でもないわよ」
「美咲さん、余計なこと言わないでください」
「あら、律君は分かってるじゃない」
「美咲」
「健一、怒らないでよー」
美咲が健一に寄りかかる。
「怒ってないって」
「じゃあいいでしょ」
「飲みすぎるなって言ってるんだよ」
「はーい」
ひよりは二人を見てから、律に向き直った。
「で、勉強するの?」
「今日はもういい」
「何それ」
「なんか機嫌悪くない?」
「普通」
「変なの」
ひよりはそう言って、自分の部屋へ向かった。
以前暮らしていたアパートを引き渡し、アルバイトも最後の日を迎えたひより。
アルバイトを辞めても晴真との交流は続くことになり、今度は晴真の家で勉強を教えてもらう約束まで。
その話を聞いた律は、どうにも面白くないようです。




