五話 後藤仁
奏が学校に登校しはじめたのは、あの涙から間もなくのことだった。
奏はその頃から俺を『兄貴』として慕ってくるようになり、小学校で俺を見かけるたびにちょこまかと後をついてくるようになった。
目に見えて、それこそ見違えるように奏は活発になった。歯列矯正が終わったのもあって、口数も多くなり自分を表現できるようにもなった。
それは、もともと奏が隠し持っていたものを上手に表へ出せるようになったに過ぎないのだと思う。俺があいつを救い出したのではなく、ただ俺の登場が彼の余分なものを切り落とすきっかけになっただけだ。
だから、兄貴なんて呼ばれるほどたいそうなことはしていない。むしろ、俺の方が奏に師事して大切なことを学ばせてもらったという思いの方が強い。
川和姉妹とはすっかり疎遠になった。
俺がずっと奏の蔵に通い詰めていたのに加え、中学も姉妹とは別になってしまったのだ。
逆に奏とは同じ中学に進学し、多くの時間を共に過ごすことになる。
俺はそのまま自宅から通いやすい県立高校へと進学するのだが、一学年下の奏もまた俺を追いかけてくるのかと思いきや、何か考えがあるらしく、家からそれなりに距離のある高校を志望したようだった。
「まだ漠然としてるんだけど、将来は子どもと関われる仕事がしたいなって思ってるんだよね」
いつもの蔵の中で、K高校の真新しい制服姿を見せながら奏は言った。
その高校は、教育学部や福祉系への進学率が高い学校なのだと彼は説明した。
「学校の先生とか、保育士とか、そういうのになりたいってこと?」
「いやそういう感じじゃなくて、なんだろうな……居場所作り? みたいなことがしたいんだよ。子どもたちのためのさ」
あまりピンと来ず、俺は首を傾げた。
「ほら、おれって昔不登校だったじゃん。あの頃って何か日々に閉塞感があってさ、こんなところにずっと一人でこもってたからいつも気分が塞いでたし、親は親で、今の学校に通いなさい、いじめなんかで転校させられるなんて悔しくないのかって。そりゃ悔しかったけど、でも明日は学校に行こうって思うと、それだけで足がすくむ。自分がこの蔵から出て、行く場所はあの学校しかないんだって思うと、とにかく絶望感的な気分になったんだ」
いやこれまじで、と奏は過去など感じさせない晴れやかさで笑う。
「でも今考えてみるとさ、そういうのっておかしくねーか? だっておれの人生だぜ。お前は学校に行くしかないんだって、たとえ親だからってそんなこと決める権利あるのかよ。もっと他になんかないのかよって。でさ、こういうことって絶対おれだけじゃないと思うんだよね。おれみたいな子どもが学校以外の選択肢として選べる、かつ親目線にも選んでもらいやすい、そんな居場所が作れたらなって思う」
俺はずっと木を削りながら奏の話を聞いていたのだが、いつしかナイフを止めてその話に聞き入っていた。
「奏、お前はやっぱすげえよ。なんていうか、すげえ」
そのときの俺の言語化能力では上手く言い表すことができなかったが、とにかく感心していた。
やはり奏は物事の根本、正体を洗い出すことに長けている。そして、たった十五歳でさらに一歩、具体的な改善策や夢へと昇華するステージに立っているのだ。
「仁くんのおかげだよ」
奏は鼻を掻いてはにかむ。
「学校、行きたきゃ行けばいいし、行きたくなきゃ行かなくていいって言ってくれただろ。なんか、視界が開けてく感じがした。選んでいいんだって。じゃあ試しに行ってみて、やっぱり嫌だと思ったら行くのやめればいいのかって思えた。まぁおれの場合、仁くんも学校にいたし、運良くそのまま通いつづけられたんだけどさ」
その頃、俺はもう兄貴扱いはやめてくれと奏に言っていて、普通に『仁くん』と呼ばせていた。けれど奏は、「だからおれにとっちゃ、永遠の頼れる兄貴なんだよな」と照れくさそうに言った。
芽愛との再会を果たしたのは高校二年の春。
入学したての芽愛とたまたま廊下で鉢合わせたのだ。中学時代は全く会っておらず、急に大人になってしまったように感じたが、それでもすぐに芽愛だと分かった。
「乃愛も同じ学校に来たんだろ?」
再会のハイタッチを交わしたあと、俺はそう尋ねる。
「それが違うんだ。お互いちょっとやりたいことが違ったし、一回別々の学校行ってみるのも面白いかなって。ちょっと離れてるけど、乃愛はK高。知ってる?」
知らないわけがなかった。
その夜、奏から電話で「乃愛ちゃんって覚えてるよね? 隣のクラスにいるんだよ」と言われた。
芽愛と付き合いはじめるのにそう長い時間はかからなかった。
再会した途端、昔のように一緒に過ごす時間が増えていった。たまに奏や乃愛を含めて四人で遊ぶ機会もあったが、昔馴染みな上に同じ学校、ほぼ同じ通学路というのは、距離が縮まるのは必然だった。
「仁ちゃん、角が取れたよね」と、あるとき芽愛が言った。
「角?」
「うん。昔はなんか、恐かったもん」
角と言われると、俺はやはり木材の角を思い浮かべてしまうのだから、我ながらどうかしている。
あの頃の俺は、また同じ時を共有してくれる芽愛に対して、ある種のやりがいを感じていたのかもしれない。
姉妹クイズで人を見抜けるようになったという勘違いから、奏との交流により本当の意味で中身を見ることの奥深さを知った。いわば、これはリベンジだった。
今度こそ目の前の芽愛を知ろうとしていくうちに、それはいつしか恋心へと変化していった。
奏と乃愛が付き合い出したのは、俺たちより先だったのか後だったのか、今となっては思い出すことも難しい。
奏と乃愛は同じ山岳部に所属していると聞いた。
奏から作ってもらったのだという山登り用の竹のホイッスルを、乃愛は四六時中身につけているらしい。
川和家に芽愛を送ったとき、乃愛からそのホイッスルを見せてもらったことがある。
サイズは親指程度の可愛らしいサイズ感で、ネックレス代わりに首から下げていても違和感はなさそうだ。筒の右側には指がかりの窪みが掘られおり、奏らしい細やかな気配りがうかがえた。漆も丁寧に塗りこんである。
なにより、竹全体には植物の葉っぱや風をイメージしたと思われる抽象模様が彫り込まれていた。その繊細な仕事ぶりに、流石は奏、と俺は素直に感心する。
「奏ちゃんから何か彫ろうかって言われたとき、二人のイニシャル彫ってよってお願いしたの」
「のろけちゃって」
芽愛が乃愛のお腹をつついた。
「でもね、それは恥ずかしいからって、代わりにこの模様を彫ってくれたの。芸術家って感じだよね」
「いや、ちょっと待て」
と俺は手の中のホイッスルをよく観察した。彫り込まれた風の模様の、ある一点を指さした。
「ここのとこ、風のラインの中にさりげなく『S』と『N』って彫られてあるように見えるな。きっと二人のイニシャルだろ」
驚いて乃愛はホイッスルを見つめる。それから、おー、と感嘆の息を漏らすのだった。
「よく分かったね。さすが仁くん」
「ほんと親友だよね。ていうか、奏くんらしくて可愛い」と芽愛。
これは奏の芸術家らしいロマンチックな仕掛けなのだから、ここで俺が褒められる筋合いはない。
それでも俺は誇らしかった。奏の考えていることならなんでも分かる。口にはしないが、たとえ付き合っているからとはいえ、そこに関しては乃愛にだって負けないという自信があった。
あの頃は楽しくて、幸せだった。大人となった今では水を差すようなしがらみも増えてしまったが、数日前までは確かに、あの頃の幸せが現在まで地続きに繋がっていた。
ほんのりと漂い出した腐臭から逃れるように、俺は手のひらを強く顔に押しつける。
あれは、高校生も終わり頃だっただろうか。
奏の蔵の中で一人、俺は作業台に向かって木彫りに没頭していた。奏はさっきまで隣にいたのだが、「カンナの調子が悪いんだよな、そろそろ買い替えなきゃ」と、自転車で出かけてしまっていた。
開け放していた引き戸の方から、ふと声がした。
「あ、仁ちゃん。ここにいると思ったよ」
ナイフを止めて顔を上げる。そこにいたのは芽愛、のフリをした乃愛だった。
芽愛は俺のことを『仁ちゃん』と呼び、乃愛は『仁くん』と呼ぶ。ただ、そんな呼び方を変えたくらいで俺を騙せるわけがなかった。
「乃愛だろ」
「ばれちゃった」
乃愛は肩をすくめて笑う。
「でも、そのクイズ久しぶりだな」
ただ、もう見分けるという段階ではなかった。芽愛との付き合いを重ねる中で、俺の中では二人はとっくに完全な別人格として映るようになっていた。それこそ、こうしてたまに乃愛と二人きりになると何を話せばいいのか分からなくなるほどに。
乃愛は今日、奏と一緒に勉強をする約束をしていたのだという。
「そうなのか? あいつさっきまでここに居たけど、そんなこと何も言ってなかったぞ」
「そうなんだ。奏ちゃん、どこ行ったんだろう」
「木工道具、近くのホームセンターまで買いに行ってる。あいつ、乃愛との約束忘れてやがるな」
「いつものことだよ」
乃愛は苦笑した。
そのとき、俺のスマホに奏からの着信があった。スピーカーにして応答する。
『店にいい道具なくてさ。隣町の方も見てくるわ』
「乃愛が来てるぞ。お前、約束忘れてるだろ」
『え、あっ! そこに乃愛いる? 代わって。謝んなきゃだわ』
乃愛が俺のスマホに顔を近づけた。
「大丈夫だよ奏ちゃん! 隣町まで見てきて。わたし、のんびり勉強しながら待ってるから」
奏は何度も謝りながら、急いで買ってくると言って電話を切った。
「あいつ、天才のくせにどっか抜けてるんだよな」
俺の言葉に乃愛は小さく笑う。
俺は作業に戻り、乃愛は作業台の隅で参考書を広げた。しばらくは木を削る音と、ページをめくる音だけが蔵の中を満たしていた。
恋人二人の時間を邪魔したくないから、奏が帰ってきたら俺はすぐに退散するつもりだった。そして、乃愛を一人にして今すぐ立ち去るのも、違う気がする。
だけどやっぱり、乃愛とは何を話したらいいのか分からない。
途中、木材の在庫が心許ないことに気づいて、俺は椅子を立った。
「どこ行くの?」
「山の先の作業所。端材もらってくる」
「じゃあ、わたしも行く。暇だし」
気まずいんだけどな、と思ったが断る理由もなく、俺たちは二人で蔵を出た。
道すがら、大した会話はなかった。天気の話、学校の話、奏と乃愛の山登りの話から、疲れにくい山の登り方まで教えてもらった。やがて俺たちの言葉は途切れ、斜面の土を踏む静かな音だけが響く。
芽愛となら間断なく続いていた雑談も、一晩中掛け合えるのではないかという漫才みたいなやりとりも、乃愛が相手だとどこか宙に浮いたまま、音もなく地へと落ちてしまう。
顔は同じなのに、こんなにも違う。
幼い頃、あれだけ躍起になって見分けようとした二人が、今では全くの別人へと変貌している。あるいは、姉妹と付き合いの浅い者や、付き合いが長くても鈍感な者は未だに間違えてしまう程度の差異なのだろう。だが俺にとってはあまりに顕著だった。そして、恐らく奏にとっても。
作業所に到着し、俺たちはそれぞれ両手に端材を抱えて山を下りはじめる。
あの岩の高台に差し掛かったところだった。突然、山特有の強い風が吹き抜けた。足場の悪い斜面で、乃愛の体がぐらりと傾く。
考えるより先に、俺は抱えていた端材を放り出し、乃愛の体を抱きとめる。
そのまま、二人とも動けなかった。端材が地面に散らばり、やがて音も途絶える。それでも俺はまだ、彼女を抱きしめたままでいた。
「間違えてないよね」
乃愛の声は小さかった。
俺は何も答えられない。彼女の細い体を抱きとめた腕が、関節が、硬直したようにびくとも動かせない。
この腕の中にいるのは誰だろうと、俺は思った。全くの別人であるはずのその人物は、どうしてなのか、俺の腕に信じがたいほど馴染んで離れない。もしかして俺は、彼女を芽愛だと錯覚しているのか。少なくとも身体つき、匂い、感触はそっくりだった。だから、俺が間違えたことにするのであれば、その理由はいくらでも見つけることができた。自分を許せないという思いや、芽愛への申し訳なさはあっても、誤認の事実そのものは理解はできる。
だが、俺は間違えない。
腕の中の人物が芽愛でないことを俺は知っている。
知っているのに、手が離れなかった。
黙ったままでいると、彼女の腕がそっと、俺の背中に回された。
耳の奥をさわる風の音と、衣服越しに伝わってくる二人の鼓動音が、ずっと俺を叩いていた。
「間違えてないよね」
声が聞こえた気がした。
はっとして顔をあげる。気づけば、カーテン越しの外が暗くなっていた。声の主を探すようにあたりを見回す。
「間違えてないよね」
視線を落とす。芽愛にそっくりな女は顔中に青紫の死斑を浮かべ、乾ききった長い舌をだらりと垂らしていた。おぞましい腐臭が、俺を苛むように鼻先にまとわりつく。




