三話・後 日野咲子
あたしたちは一階の応接室に通された。一転して応接室は事務的な造りだが、壁には子どもたちや職員の写真が貼られていて賑やかな感じだ。
吉村くんが無遠慮にそちらばかり見ていて動かないので、その背中を肘でつつく。
L字ソファにうちら四人が座り、対面ソファにジュン兄とノア姉が掛ける。
ジュン兄が施設のパンフレットを配る。
「そこにも書いてあるけど、うちのスクールは『自分らしく』を理念に掲げているんだ。とはいえ、普通の学校の理念よりさらに柔軟に、もっと広義な意味で『自分らしく』を捉えてる。ここにいる子どもたちは様々な事情を抱えながら、学校に通えない、あるいは通わないという選択肢をとっている。俺たちは彼らの事情を汲みながら、彼らの思想や特性を決して否定せず、徹底して本人の生き方を尊重するようにしているんだ。さっき、トイレにオールジェンダーって書いてあったと思うけど、あれもスクールの理念を体現させるための設備だね。あ、メモとかは大丈夫だよ。ごめんね堅苦しくて」
あたしたちはメモ帳やらノートにペンを走らせながら頷いていたが、それに気づいたジュン兄は照れくさそうに手を振った。
「いえ、これも勉強ですので」と吉村くんが好青年然という。
「本当に先生っぽくて変な感じだね。まぁつまり、日野さんたちも滞在中子どもたちとたくさん接すると思うけど、なるべく彼らの考え方を否定しないであげてほしい、ってことなんだ。ただね、『自分らしく』を貫くのって現実問題難しいことだと思うんだ。学校に行かないのも自由、人から反感を買いかねない思想を押し通すのも自由。だけど、選択した末に起こる結果を自分自身が引き受ける覚悟も、同時に必要になってくるよね。周囲に合わせないということは、必然、社会とぶつかることも多くなるんだ。それから、自分の生き方を常に見つめ直していくというのも大事だね。自分の気持ちを優先するあまりに、自分が不幸な結末に陥ってしまうのは本末転倒だから」
そこで応接室の扉がノックされ、ノア姉より少し若そうな女性が入ってきた。人の良さそうな、ふくよかな人だ。手にはお茶の載ったお盆があった。
「あ、紹介するね。元中学教師で、今はここで事務員をされている小林美彩さん。たまにお勉強も見てもらってるね。みんなからはコバちゃんって呼ばれてるよ」
「ノア姉さんの一番弟子です。姉さんには頭あがんなくて」
コバちゃんはあたしたちの前にお茶を置いていく。「もう、何言ってんの」とノア姉は恥ずかしそうにしている。ごゆっくり、と笑いながらコバちゃんは退室していった。
みんな一旦お茶に口をつける。そこであたしは軽く挙手した。
「そういえば、ここでは子どもや職員さんも皆、名札を着けてるんですね?」
そう、さっきのコバちゃんしかり、すれ違う子どもたちも全員胸や腰に名札を付けていたのだ。そこには手書きらしき名前が書かれていた。
「あぁそうだ、それを説明するんだった」とジュン兄は柏手を打ち、レターケースの棚を探った。
あたしたち一人一人にプラスチックの名札ケースが配られる。
「施設ではみんなニックネームで呼び合う風習があるって言ったよね。これには二つ理由があって、一つは、スクールには自分の名前や性自認にコンプレックスを持っている子も多くいて、そういう子たちにも『自分らしさ』を表現してもらうため、自分が呼ばれたいと思う名前を決めてもらっているんだ。また生き方を常に見つめ直すという観点からも、呼び名の変更はいつでもオーケーということになっている。それから二つ目の理由は、なんだったかな、乃愛」
ジュン兄は軽くノア姉の肘に触れる。
「あ……お察しのとおり、わたし人前でお話しするのがあまり得意じゃないので、分かりづらかったらごめんなさい。ええとね」
ノア姉は軽くせき払いをして続けた。
「実はわたし、相貌失認っていう疾患を患っているの。数年ほど前の事故がきっかけで、発症からまだそんなに長くないんだけど」
数年ほど前の事故、とあたしは心中で反芻する。
「相貌失認っていうのは簡単に言うと、人の顔を見てもそれが誰なのかを判別しづらくなってしまうっていう、認知機能の障がいなの。例えば、水槽の中に同じ種類の魚がたくさん泳いでいるのを想像してもらうと分かりやすいかもしれない。一匹一匹違うけれど、どれがどの子って見分けるのは難しいよね。それと似たような感じで、わたしは人を見るときに顔じゃなく、体の大きさや服装なんかでかろうじて判断するの。でもやっぱり時間がかかるし、間違えることもある。あとは、声と名前は一致することがあっても、声と顔を一致させるのは難しいって感じかな。そこで、みんなが着けている名札には助けてもらってるんだ。名札のおかげで人を判別しやすくなるから」
ノア姉と目が合いづらい理由が分かった。彼女は初対面のあたしたちを顔ではなく、服装や体格で覚えようとしていたんだ。
「あとはもう一つ、わたしに話しかけるときにしてほしいことがあるの。さっき、声と顔が一致しづらいって言ったよね。なので、例えば後ろから話しかけられたり遠くから声を掛けられたりすると、誰が発言したのか分からなくなっちゃうのね。名札があっても、声のする方に何人かいるともう見分けがつかなくなっちゃう。なのでこうやって、」
ノア姉はジュン兄の手をとり、軽く自分の肩に触れさせた。
「こんな感じで、一度わたしにタッチして、それから発言してもらえると助かるな。するとわたしは『あ、今触れてきた人に話しかけられたんだ。名前は何かな』って感じで名札を見るから。わたしは女だから男の子たちは触れるのに抵抗があるかもしれないけど、肩、肘、腕、手の甲あたりに触れられるのは全然慣れっこだから、遠慮しないでね」
「え、さっき何も知らないのにめっちゃノア姉に話しかけちゃいました」と真由。
「いいの。わたし引っ込み思案だし、たくさん話しかけてもらえるのは嬉しいよ。ありがとうね真由ちゃん」
もはや声質と話し方で真由を特定しているのだろう。一人だけうるさいキャラしてるし。
「じゃ、そのやり方でいっぱい話しかけます!」
と、真由はいそいそとメモを取っていく。ジュン兄はパンフレットを置いた。
「最後に、俺たちの苗字が違うのも、フリースクールの理念に俺たち夫婦が深く共感しているからなんだ。まだまだ模索中ではあるんだけどね。自分たちでも、新しい夫婦の形を考え直してみたいっていう思いがあるんだ」
あたしは深く頷いてペンを取る。『事実婚』、『選択的夫婦別姓』などとメモしようとして手を止める。彼らを既存の枠に当て嵌めてしまうこと自体が失礼な気がして、『新たな夫婦の形を模索中』と素直に書き記した。
よし、とジュン兄は自分の膝を叩いた。
「そろそろ見学者棟にみんなの荷物を運ぼうか。制服から普段着に着替えてもらって、夕食の時間まで少し時間があるからそれまでゆっくりしていてもらえるかな? 夕食前に呼び出すから、軽く子どもたちと自己紹介タイムにしよう。それまでに各自、名札も書いておいてね」
はーい、とうちらは揃って返事をした。
A棟の女子部屋で私服に着替え、無印のフルーツスティックキャンディを舐めながら真由とだらだら駄弁っていると、内線電話で呼び出しがかかった。
校舎裏で男子たちと落ち合う。みんな、ちゃんと名札を胸に提げている。あたしのニックネームは『さっきぃ』、真由は『まゆまゆ』、吉村くんは『ヨッシー』。そして、堤くんの名札を見てあたしは唇の裏を噛む。堤信吾で、『しんちゃん』か。
「どうした日野」
「なんでもない」
肩を震わせて笑いを堪える。あたしは堤くんから顔を背けながら歩いた。
食堂で子どもたちとの自己紹介タイムを済ませる。『かざみの里』は全寮制だが、夏休み期間は実家に帰っている子が多く、在籍数十九名に対して現在施設に残っているのは八名のみで、なんとか名前も全員覚えられそう。
夕食はカレーだった。
給食係の職員、ユカコ姉(五十代ほどの溌剌とした女性だ)とノア姉、日替わりの給食担当の子どもたちで作ったのだという。バーモンドのルウを使った普通のカレーだけど、具材には静岡名産の折戸茄子が使われている。施設提携の農家から定期的に頂いているそうだ。
「明日は午前中にホイッスル作りをするからね。みんな、動きやすい服装で十時にグラウンド集合ね」
夕食後、食堂全体に向けてジュン兄はそう告げた。
その夜。
コテージ内のツインルームにて、あたしは隣のベッドから聞こえる声を聞きながらスマホをいじっていた。
「市役所はこの角を曲がった先にあります。いえ、平日の受付時間は午後五時までです……」
真由の寝言である。
あたしはさっきまで何度もベッドから降り、本当にこいつ寝てんのかよと何度も真由の寝顔を確認しにいっていた。寝る前、「マユ、昔からよく人に道尋ねられるんだよねえ」と話していたが、それが頭に残っての寝言だろうか。他にもコテージには寝室が二部屋あるので移動したかったのだが、真由が一緒の部屋がいいと言って聞かなかった。翌朝あたしが部屋を移ったと知ると、きっと怒り出すだろう。
しょうがないので、真由のデカすぎる寝言に耐えながらスマホをいじる。
画面には、吉村くんからのメッセージが表示されていた。
『ノア姉のお姉さんのYouTubeチャンネルだよ』
というメッセージと、一本の動画リンク。あたしは耳にワイヤレスイヤホンを装着し、リンクをタップする。
チャンネル名『meaのおうち』。
動画タイトルは『就寝前ナイトルーティン 夏ver』。投稿日はおよそ三年前。
画面には、芽愛さんと思しき人物がエプロン姿でキッチンに立っていた。画角は常に、首から下を映している。背景音はアコースティックギター風のお洒落なBGM。
『今日も旦那の帰りが遅いので、作り置きをしちゃいます』
台詞は肉声ではなく、全てテロップによるものだ。夕食は鶏肉だんごと野菜の黒酢あんかけ。レシピ紹介のテロップを挟みながら、彼女が料理をする様子が映し出されていく。
まな板のアップ。味噌汁用のネギがリズミカルに刻まれていく。ネギを抑える左手の薬指ではプラチナの結婚指輪が控えめに輝いていた。
料理を終え、旦那さんの分はラップをして冷蔵庫へ。
『平日はこうして、いつも一人ごはん。最初は寂しいなって思ってたけど、もう慣れちゃった(笑)』
手元の様子。いただきますの後、芽愛さんは右手にスプーンを取る。
入浴準備。最近使っているのだというヘアートリートメントの紹介が入る。企業案件も兼ねているのか、商品名やメーカー、値段まで詳細に表示されていた。
『夏でも、保湿は欠かせません』
入浴後、これもまた商品名表示つきの化粧水や乳液等によるスキンケアが行われる。
『最近習慣にしている、お風呂上がりの脚ストレッチ。地味だけど、むくみにくくなった気がする』
余計なものが一切置かれていない生活感の薄いリビング。ストレッチをする芽愛さんの後ろ姿。
次の場面では、寝室で愛用しているらしいアロマディフューザーと、最近買い換えたという間接照明の紹介。
『就寝前の読書は癒しの時間。間接照明はつねに、試行錯誤を重ねています』
そして寝室の照明が落とされる。
『そろそろ寝ようかな』テロップの直後、寝室の外から物音がした。『あ、旦那さん帰ってきた』
カメラは扉側に向けられる。ドアの下の隙間から、廊下側からの白い明かりが漏れていた。
コンコンコン、とドアがノックされる。
『この音が幸せなの』
おやすみなさい、また来週お会いしましょう。そのテロップを最後に動画は終了する。
うん、あたしが好きなタイプのvlogだ。めっちゃ癒される。ワイヤレスイヤホンを外し、ほどよく重くなってきた瞼の感覚に身をゆだねる。
コテージの外ではウマオイの音がさざめいている。隣のベッドからはもう、静かな寝息しか聞こえてこない。
芽愛さんの動画を思い返しながら、そういやあたしちゃんと保湿したっけ、と思ったが、いつの間にか寝てしまっていた。




