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四話 後藤仁

 カーテンから差し込む朝日が、眼前で横たわる女の頬に落ちている。どうやら俺はあのまま寝てしまっていたらしい。


 置き時計を見ると、もう出勤の準備をしなければいけない時刻だった。だが、とても仕事に向かえる状況ではない。

 上司に体調不良のため有給を頂く旨のメールを送り、改めて女を見下ろす。昨晩、俺が眠りに落ちる直前から一ミリも動きがないところを見ると、もはや息を吹き返す見込みはないと言っていいだろう。これは完全に遺体、いや、身元が分からない場合は死体と呼ぶのか。

 結局、女の死体にはぬいぐるみのような縫い目や、着ぐるみのジッパーらしきものは見当たらなかった。

 ……当たり前だ。

 この状況で精神がすり減っていたのかもしれない。力尽きて眠ってしまう寸前の自分は、確実に気が違っていたという自覚がある。


 ベッドの下に落ちていた女のパジャマを手に取る。裸にして悪かった、と心中で謝罪しながら、袖を通すべく女の腕を取った。

 が、腰まで下げたその腕はガチガチに固まって動かなかった。死後硬直というやつだろうか。力ずくで胸もとあたりまで引き上げることは出来たが、それ以上は反発して元の位置へ戻ろうとするので、服を着させてあげるのは厳しそうだった。

 諦めて俺は女の体に毛布を被せ、ベッドに腰掛けたまま両手で顔を覆う。

 もう、女の顔を見るのにも疲れてしまった。

 代わりに、閉じた両瞼の暗闇に本物の芽愛を映し出す。

「昨日作り置きしといた黒酢あんかけ、美味しかった?」

 寝起きでコーヒーをすする俺の前に朝食の皿を並べながら、芽愛はにっこりと微笑む。

「まじで最高だった。特にあの茄子な、いい感じに味が染みててさ」

「わかる? 実はあのお茄子、一手間かかっててさ。今度動画で紹介してみようかなって」

 自慢げに女は語りながら、トーストに自家製ジャムを塗る。そして女は──。

 女。

 女じゃない。芽愛だ。

 俺は覆った顔の下でくぐもった呻きをあげた。頭がおかしくなりそうだった。


 本物の芽愛を見分けられる。その自負は揺るぎないと思っていた。だが、その自負に一切の後ろ暗さ、精度への疑いがなかったかといえば、やはり今一度自分に問いただしてみる必要がありそうだった。

 例えば、幼少期から連綿とつづくとある成功体験。俺は川和姉妹と幼馴染ではあるが、幼馴染ということを差し引いても、俺にはちょっとした才能があった。

 それは一卵性双生児の川和姉妹を正確に見分けられる才能、あるいは執念とも呼ぶべき能力だ。


 物心つく頃から川和姉妹と関わってきた。住んでいる地域が同じで、通っている保育園も一緒だったのだ。初めは普通に、何の気も置かず姉妹と遊んでいた。

 だが四歳の時分、着ぐるみへの不信感を植え付けられてからというもの、川和姉妹との接し方も変わった。

「どっちが芽愛で、どっちが乃愛でしょうー?」

 姉妹はよく、そんなクイズを俺に出してきた。最初の頃は平気で間違えて、「ぜんぜん分かんないよ」などとお気楽に笑っていた。だが着ぐるみの件以降、姉妹を見間違えるということに俺は一種の強迫観念を覚えるようになった。

「こっちが、芽愛?」

 いつものクイズに、俺は左手側の女の子を指す。

「ぶっぶー。こっちは乃愛」二人同時に笑い出す。

「じゃ、こっちが芽愛か」

「ぶっぶー、そっちも乃愛っ!」

「え……」

 また両者ともに笑い出す。本当に他愛のない、姉妹なりの冗談だったのだろう。だけど俺は指し示した右手を宙に泳がせたまま、声を上げて泣き出してしまう。

 芽愛がいない、と泣き喚いたのだ。

 やがて先生がやってきて俺をなだめる。俺は先生に「芽愛がいなくなった」と泣きついた。

「どっちかは芽愛ちゃんでしょう?」

 しょんぼり顔の姉妹の顔を見比べながら、先生は困ったように言った。


 川和姉妹は俺を泣かせてしまったことを反省しているのか、それ以降自ら姉妹クイズを出してくることはなかった。

 姉妹は学年が一つ下なので、保育園内で頻繁に会うことはない。しかし、俺は彼女らを園庭などで見かけるたびに積極的に絡んでいき、「クイズ出して」とせがんだ。姉妹や先生たちはきっと、俺がむきになっていると思っただろう。だが俺はひどく冷静で、かつ真剣だった。

 もう騙されてなるものか。そんな思いが俺を心底燃え上がらせていた。

 二人を目の前に立たせ、「そこから動かないで」と指示をし、長い時間をかけて観察した。顔立ちや体格の差は全くないと言っていい。では、どこで二人の違いを判断するか?

 中身を見るしかない。

 俺は試しにいくつかの質問を投げかける。好きな先生は、嫌いなおかずは、好きなアニメは、嫌いな野菜は。

 これらの質問には成果がなかった。大人になった今ならいざ知らず、一卵性双生児で同じ環境、同じ食事、同じ生活ルーティンで暮らす幼少の姉妹に、好き嫌いの差異は生じないようだった。

 仕方がないので俺は二人の挙動に目をつける。

 早くクイズから解放されたがってる姉妹の動きをつぶさに見つめた。どっちが先に飽きてお気に入りの滑り台へと意識が向くのか、俺の睨むような視線にどちらが先に嫌な顔をするのか、眉の動き、手先足先の癖などに必死で目を凝らす。

 時間をかけた末に俺は、「こっちが乃愛だ!」、「そんでこっちが芽愛!」と力強く指さした。当たると二人はほっとしたように「あたり!」と声を揃え、俺は諸手を上げて奇声じみた歓喜をあげる。外れると二人同時に眉を下げ、「はずれ」と申し訳なさそうに言う。そんなとき、俺は地団駄を踏み、ときに泣き出したりしてしまうのだった。

 あるときでは、「こっちが芽愛」と指した瞬間、姉妹の一方が目を泳がせ、一拍遅れてもう一人も同じ方向に視線を流した。

「……あたり」

 嘘だと分かった。クイズは失敗したのだ。姉妹を見抜けなかったくせに、そこだけは確信を持てた。きっと、俺がまたクイズを外して癇癪を起こすのが嫌だったのだろう。視線の動き、言葉の含みなど、当時は言語化して彼女たちが嘘を吐くときの癖を説明できなかったが、それでも直感として理解できた。


 そんなことを何年も続けていると、俺はほぼ完璧に姉妹を見分けられるようになっていた。

「このクイズ、もうやらなくて大丈夫でしょ」

 そう言われてしまったのは俺が小学四年生、川和姉妹が三年生の頃だった。

 確かにもうやらなくてもいいかもしれない。そう思える程度には自信があったし、そもそもこの遊びに飽きていたのもある。答えの分かりきったクイズほど盛り上がらないものはない。姉妹だっていい加減うんざりしていたのだろう。

 二人の違いはすっかり頭に入っていた。

 どちらかといえば芽愛の方が堪え症がなく、乃愛の方がやや我慢強い。芽愛がほんの少しお喋りで、乃愛は姉より一言二言ほど口数が少ない。芽愛の方がよく髪を触り、乃愛の方が若干姿勢が良い。顔が全く同じでも、俺は様々な情報から彼女たちを瞬時に判別することができた。

 それは俺や、きっと姉妹の両親でもなければ見抜けない程度の差でしかなかった。他の者から見れば、二人とも全く同じ、大人しめな性格をした心優しい少女にしか見えなかっただろう。


 着ぐるみの中身にトラウマを植え付けられ、それを克服するように姉妹を見分けることで、俺は人間の本質を見抜く術を手に入れた。そう思い上がっていた。

 今にして思えば、あれは自信過剰の世間知らずだった。

 俺がそれまで見てきたのは人間の本質などではなく、本質のわずか一部が外側へ溢れ出しただけの、ほんの小さな機微に過ぎなかったのだ。


 あるとき、川和姉妹がとあるものを見せてきた。

「クラスの子がね、わたしたちに作ってくれたんだ」

 彼女たちが差し出した両手のひらには一つずつ、小鳥の像のようなものが乗っていた。俺は顔を近づける。それは木材を掘り出して作ったような木彫りの像だった。

「学校に来てない子なんだけどね、家が近いからプリント届けてきてって先生に言われて、会ってきたの。すごいんだよ。木でなんでも作っちゃうの」

 二羽の鳥を遊ばせるように突かせ合いながら、川和姉妹は楽しそうに話した。

 姉妹のクラスの子、ということは自分より一つ年下の児童なのだろう。姉妹の手に乗った小鳥の像はまるで大人の芸術家が作ったものみたいに緻密な造形で、とても子どもが作ったものには見えなかった。

「またそいつにプリント持っていくことある?」

「たぶん、ある」姉妹は同時に言った。

「じゃあ、次行くときは声かけて。俺も会ってみたい」

 姉妹は一緒に頷き、小鳥の木彫りで遊びながら帰っていった。


 一週間後。

 川和姉妹が溜まったプリントを手に俺の教室へとやってきて、待ってましたと言わんばかりに俺は椅子から立った。この一週間ずっと、俺は無性にそわそわしながら日々を過ごしていた。

 ただの木材から形のあるものを掘り出す。そんなことができるなんて、一体どんな子なんだろう。何故自分がそこまで興味を惹かれるのか分からなかったが、とにかく居てもたってもいられなかった。


 朝田奏、という名前の少年らしい。

 彼の家は盆地の隅、山の裾野にあった。長い外塀に囲まれた奥にその屋敷は建っていた。立派な門扉を茫然と見上げていると、乃愛が門扉に設置されたインターホンを押した。

「はーい、いつもありがとうね」

 門扉は遠隔操作式なのか、インターホンの返事のあとに重い音を立てて勝手に開いた。長い石畳の路の先には母屋と思しき屋敷が見えるが、川和姉妹はその脇を素通りしていく。朝田奏は、いつも離れの蔵にいるらしい。

 大きな蔵の前に着くと、古ぼけた木造の引き戸を姉妹が同時にドンドンと叩いた。中からくぐもった声が返ってくる。

 扉を引いて出てきたのは、肌の浅黒い小柄な少年だった。姉妹を見るなり、無言でぺこりと頭を下げる。直後、姉妹の背後にいる俺に気づいてびくりと身を震わせた。

 姉妹が阿吽の呼吸でプリントを重ね、芽愛が手渡した。

「この子、仁ちゃん。一個上の友だち」芽愛が言った。

「仁くんも、小鳥の像が欲しいんだって」乃愛が言った。

 それから二人とも俺を振り返り、「帰っていい? これからスイミングだから」と声を揃えた。

「うん、ありがとう。バイバイ」

 姉妹が駆け足で去っていくと、俺と奏の間ではしばし気まずい沈黙が流れた。

「とりあえず、入っていい?」

 奏は自分のつま先を見下ろしたまま頷いた。


 蔵の中は雑然としていた。

 中央に置かれた作業台は子ども用の背の低いものだが、造りはしっかりしていそうだ。台の上には開きっぱなしの工具箱、木工用の各種ナイフ、ノコギリなどが置かれている。

 壁際に設置された巨大なスチールラックには、夥しい数の木工細工や木彫りの像が並べられていた。

 思わずそちらに目が吸い寄せられてしまう。遠目にも伝わってくる。木材の作品たちからは、とても目の前の生命力の弱そうな少年が作ったとは思えない圧迫感、生命力があった。

「なんの、鳥がいいの」

 長い沈黙を経て、奏がやっと口を開く。暗闇に溶けてしまいそうな声量で、一瞬、自分に話しかけられたのだと分からなくなる。

 また声に躊躇いがあったのは、その滑舌の悪さのせいでもありそうだった。蔵のおぼろげな照明に当てられ、微かに開いた口元の歯列矯正器具が光っていた。

「なんでもいいけど、雀とか」

 言うと、奏は小さく頷き、蔵の隅へと下がっていく。そこには大小様々な木の端材が打ち捨てられるように積まれていた。

 奏は迷いのない手つきで、ある一片を選び取る。不格好に角ばった何の変哲もない木片。

 それを万力のような固定具に挟み込んだ。ナイフを手にした途端、奏を纏う空気が一変した。

 最初の一刀が入り、木くずが薄く舞い落ちる。

 息を呑む。奏は色んな角度にナイフを傾けながら、迷わず刃を進めていく。角が落ち、丸みが生まれ、やがて、ふっと輪郭が現れる瞬間がおとずれた。

 まだ翼も足も彫られていないのに、もうそれは雀だと分かった。余分なものが取り払われ、木の中に隠れていたものが表に出てきたように見えた。

「しるしとか付けなくても、掘れるんだ?」

 そう訊かずにはいられなかった。

 奏は手を止めない。

「木の中に最初から、いるから」

 言いながら小刀を動かしつづけている。

 最初からいる。分かるようで微妙に分からなかった。しかもその微妙な分からなさには、かえって途方もない距離を感じた。

 削り終えた雀を、奏は無言で手渡してくる。羽の一枚一枚まで、木目に沿ってちゃんと血が通っていると感じた。緻密でよく出来ているというだけじゃない。これは生きている。今にも小首を傾げてきそうな雀を見つめながら、俺は本気でそう思った。

「なあ、俺にも作れるかな」

 気づけばそう口にしていた。

 奏は顔を上げ、初めてまともに俺の目を見た。

「明日から通うからさ、教えてくれよ」

 奏はもとの気弱な少年然として、もじもじしながら頷いた。


 あれから奏と過ごした少年期は、確実に今の俺を形作ったと言える。

 奏の蔵に毎日のように通い詰め、木目や年輪と睨めっこをし、その中にあるはずの何かを洗い出そうとする作業は、俺に物事へ真摯に向き合う歩み寄りを教えてくれた。

 またそんな行為を通じて奏の見ている世界、あるいはその片鱗に触れていくと、奏という血も繋がらない赤の他人と心を通じ合わせているというような、自他の共通認識を鋭敏に養う学びともなった。

 結果として、俺は奏のように肌感覚で本質を見抜けるようにはならなかった。

 それはそういう才覚が自分になかったというだけの話で、それが自認できたのも大きな糧であった。

 人には出来ることと出来ないことがある。そこに折り合いをつけ、出来ることにのみ焦点を当て、そこをひたすらに伸ばしていく。

 奏のように元からそこにある本質を感覚で抜き出すことは、俺には出来そうもない。俺の場合、木に刻まれた情報を一つずつかき集め、計算ずくで本質を洗い出すという工程が必要だった。これは一見姉妹クイズの攻略法と似ているようだが、性質がまるで違う。暴くことと洗い出すことは似て非なるものである。暴きには対立があり、洗い出しには寄り添いがあるのだ。


「学校に行けって、いっつも親から怒られる」

 ふと、奏がそんなことを話した。

 木彫りに使える良い木材がないとき、俺たちは屋敷から少し山を登ったところにある山林会社の作業所へ赴き、端材を分けてもらっていた。その会社は奏の祖父が所有しているもので、奏が顔を出せばいくらでも融通してもらえた。

 作業所から屋敷に戻る途中、山の斜面が一箇所だけ平坦になっているところがある。斜面からはややせり出すようにして大きな岩が突き出しており、俺たちはそこに座って休憩をとっていた。端材をもらい過ぎて、一息には持ち運べなかったのだ。

 岩に登って下を見下ろせば、そこには最近廃校になったという小学校が見えた。この岩の上は、俺たちのお気に入りの場所だった。

 あまり自分のことを喋らない奏がそんなことを呟き出したのは、そんなときだった。

「学校に行かないと、まともな大人になれないぞって、怒られる。とくに、お前はダメな子なんだからって」

 歯列矯正中の滑舌の悪い発音で言い切って、奏はうつむく。

 奏が学校に行けないのは、彼の気弱な性格のせいでひどいいじめに遭ってしまったからだ。人をいじめるなんて、自分の人生に集中していない下らない連中だと、俺はつねづね思う。

「学校なんて、行きたきゃ行けばいいし、行きたくなかったら行かなくていいだろ」

 俺は憤るように吐き捨てた。

「奏には立派な特技があるんだ。なんでそれを見てくれないんだろう。なんでそれを伸ばしてやらないんだろうな。そんなのも分かんない親や先生なんかより、奏の方がずっとずっとすげえって、俺は思う」

 奏はうつむいたまま頷いて、ぽつぽつと涙を落とした。

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