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三話 日野咲子

 妻のフリをした何者か、ねえ。

 あたしはweb週刊誌を読み返しながら心の中で呟く。

 ローカル線らしい音質悪めな車内アナウンスが次の停車駅を告げる。やっと目的地の駅みたいだ。スマホから目を上げると、車窓の外いっぱいに青々とした畑が広がっていた。

「ねえ、あれ茶畑かな? すごい。静岡っぽーい!」

 真由はローファーを脱ぎ捨て座席に膝立ちになり、車窓にへばりついて喚いていた。あんた何歳なのよ。

「やめなさいってば、みっともない」あたしは真由のケツを引っぱたいた。「フリースクールの子たちに笑われるよ」

 真由はぶーっと唇を尖らせて座席に座りなおす。ボックスシートの正面では堤くんが我関せずと読書に励み、吉村くんは寝息も立てずにしれっと居眠りこいてる。「吉村くん、もうすぐ着くよ」とあたしは彼の肩を揺すった。

 みんな、全く協調性なさそうだけど大丈夫なんだろうか。


 目的駅で下車する。辺りはぽつぽつと民家があるだけで、あとは田園と遠くに山が見えるだけのさっぱりとした景観だった。

 ささやかなロータリーにはハイエースが一台停まっており、あたしたちに気づくと、ドアを開けて二人の男女が降りてきた。

 最寄駅とはいえフリースクールまで距離があるので、施設長たちが車で送り迎えしてくれることになっているのだ。

「やあ、日野さんご一行だよね? 遠いところお疲れさま」

 そう明るく手を振ってくれたのは三十歳手前ほどの長身の男性。整えられた髭にウェリントン型の黒縁眼鏡、オリーブ色のワークキャップの下からは少し伸びた無造作ヘアが覗いている。一見すると山男って感じだけど、自然に作られた笑顔は爽やかに整っている印象で、自然教室の先生というイメージにぴったりな人だった。

 男性の後ろからは、二十代後半ほどの女性がゆったりとした足取りでやってくる。

「こんにちは。今日は暑かったでしょう?」

 その声に、あ、予約するときに対応してくれた人だ、とあたしは思った。

 女性は黒髪を緩くハーフアップにまとめており、垂れ目気味の笑みはユリの花のように柔らかい。綺麗だなと思う前に『優しそう』の印象が先にやってきそうな人だ。彼女はゆったりとしたワンピースを着用していて、服の上からでも分かるほどにお腹が膨らんでいた。左手は、大事なものを支えるようにお腹へと添えられている。

 二人とも、確かに先生という感じはするけれど、あたしが今まで出会ってきた学校の先生たちとはどこかイメージが違う。もっと伸び伸びとした、何にも追われていないというような穏やかな余白を感じる。

 そこであたしは小首を傾げた。女性はあたしたち一人一人に挨拶していくが、少し目が合いづらいような、何か身体全体を確認するような視線の動かし方のように見えた。

 男性が問う。

「この辺コンビニとかなくて、生協とか小さなスーパーしかないんだけど、みんな飲み物とかお菓子とか大丈夫? 必要だったら寄っていくけど」

 大丈夫でーす、と真由を筆頭にうちらは声を揃えた。


「あ、ごめん。名乗り忘れてたね。初めまして、木下純希って言います。大きな栗の木の下の木下に、純粋な希望で純希」

 ハイエースを走らせてすぐに男性が言った。大きな栗の木の下って、久しぶりに聞いた。ちょっと可愛い。

「わたしは川和乃愛です。漢字は……予約確認メールに載せてたから知ってると思うけど」

 彼女はお淑やかに笑う。

 そう、彼女がフリースクールの代表者であり施設長なのだ。二人の雰囲気からすると、どちらかというと木下さんの方が施設長っぽい。木下さんが積極的に周りを引っ張り、川和さんは控えめな立ち位置でサポート側へ回っていそうだ。

 あたしたちも一人ずつ簡単な自己紹介をしていく。終わると、「それでね」と木下さんは改めて口を開いた。

「うちのフリースクールってね、基本的にニックネームで呼び合う空気感があるんだよね。俺はジュン兄って呼ばれてて、彼女はノア姉って呼ばれてる。できればみんなにも、俺らのことをあだ名で呼んでほしいな。あぁでも、あだ名呼びが恥ずかしかったら普通に呼んでもらってもいいし。で、俺らが歳上で先生ポジションだからって無理に敬語を使う必要もない。要は、フランクに自然体で接してほしい、ってことなんだ」

 やはり真由筆頭の「わかりましたー!」というあたしたちの元気な返事に、うんうんと木下さん改めジュン兄は満足そうに頷いた。

「あ、そういえばノア姉って何ヶ月なんですか?」

 ノア姉のすぐ後ろに座っていた真由が、ノア姉の助手席の背もたれをがっちり掴んで身を乗り出していく。何ヶ月。明らかに彼女のお腹のことを言っているんだろう。初対面早々でそんなグイグイいくなよ。

 ノア姉は明らかにびっくりした様子で、後部席側全体を見渡すように横目を送った。

「あ、えっと、六ヶ月だよ」

 すると、ジュン兄がハンドル片手にノア姉の肩に軽く触れた。

「な、経過は順調だよな、乃愛」

 真由がさらに運転席側へと身を乗り出す。「え、もしかしてもしかして」と、興奮したように人差し指で二人を交互に指している。

「そう、元気に産まれてくれるといいんだけど」ノア姉が恥ずかしそうに頬を掻いた。

「え、じゃあ無事ご出産できるようマユもお祈りしますね。お二人ともおめでとうございますっ。きゃーっ!」

「ねぇ真由ほんと止めて。二人とも困ってるから」

 あたしは真由の腰を掴んでシートに押し戻した。なんでこいつこんなテンション高いんだろう。いや、いつものことなんだけど、全員あんたの紙芝居待ちだってことを忘れないでほしい。

 運転席ではジュン兄が可笑しそうに肩を震わせていた。

「最近の高校生ってこんなにパワフルなんだねえ。こっちまで元気になっちゃうな」

「や、こいつだけなんで。ご迷惑お掛けします」

 あたしは真由を抑えつけながら言った。

 それにしても、と思う。木下純希と川和乃愛、か。

「苗字が違うなあ、って思うでしょ?」

 あたしの考えを読むようにジュン兄が言った。

「そこはね、フリースクールで掲げている理念にもちょっと関わってくることなんだ。あっちに着いたらまた色々と説明させてもらうね」

 彼の横で、ノア姉が穏やかに微笑んで頷く。

 それからあたしは、そういえばやけに後ろが静かだなあと最後部座席を振り返った。

 堤くんは相変わらず文庫本にかじりつき、吉村くんはうつらうつらと舟を漕いでいた。あたしは男子二人の顔面に拳を突き入れたくなった。


 ハイエースは山間部に入る。

 大きな車体にも関わらず、ジュン兄は慣れたハンドル捌きで狭い山道を進んでいく。

 山地の傾斜がなだらかになり、木々が開けると、古びた木造の二階建て校舎が現れた。施設、と呼ばれるものの、外観は紛うことなく学校である。

「過疎化で廃校になった小学校をリノベーションしていてね。見た目はかなり古いけど、中に入るとまた印象が変わると思うよ」

 校舎裏の駐車場へと入っていく。

「荷物はあとで運ぶから一旦車に置いといていいよ」

 と、ジュン兄の指示。

 ハイエースから降りて見ると、校舎の裏手側からは小道が続いており、その先にキャンプ場にあるような洋風のコテージが四棟ほど建っていた。やけに新築感があり、ノスタルジックな校舎のそばにあるとまた変な感じがする。

「あれが君たちが泊まる見学者棟ね。もとは三角屋根の旧職員宿舎だったんだけど、あれは外観から全面的に改修してあるんだ。コテージっぽくて格好いいでしょ?」

 きっと施設全体の改築に携わったのだろう、ジュン兄はどこか誇らしげに説明する。

「今回、女子はA棟で、男子はB棟ね。一棟あたり五人は泊まれるようになってるから、かなり広々使ってもらえると思う。他に見学者さんもいらっしゃらないしね。それじゃあ、本館の方に行ってみようか」

 校舎の表側へと回っていく(本館ってジュン兄は言ってたけど、あたし的には校舎と呼んだ方がしっくり来そう)。

 ささやかなサイズ感のグラウンドを横切ると、タイヤのアスレチックで遊んでいた子どもたちが元気よく挨拶してきたので、あたしたちもにこやかに挨拶を返す。グラウンドの隅には用具庫らしき小屋と、窯らしきものも設置されていた。

 玄関口はいかにも元生徒玄関という懐かしい作りだ。引き戸の上には手作りらしき木製看板が掛けられており、焼きごてで『かざみの里』と焼き付けられている。

 校舎内に入ると、確かに印象はがらりと変わった。

 当時から使っているであろう木製の靴箱はそのままに、その先の通路は古びた感じは一切なく、明るい色味の木材床を全面に張り直しているようだ。スリッパを履いて進むと、こまめにワックスを塗り直しているようなキュッとした音が鳴る。一部の教室を壁ごと取り払ったのか、太い梁だけを残した開けた空間は元小学校らしからぬ開放感があった。

 空間の奥には特注らしき真新しい本棚や勉強机が置かれている。しかし壁に設置された黒板だけは当時のものをあえて流用しているらしく、それが逆に勉強スペースとしての説得力を持たせているようだ。

 また、スペースの一角はギャラリーのようになっていた。コルクボードや木製ラックが並び、そこに絵や版画、木工細工など、自然体験や授業で作ったと思しき作品が飾られている。

 それから、やけに空間が明るいな、とあたしはギャラリーの上へと視線を動かす。そこには壁の上部を横へ切り取ったような広い室内窓が配されていた。たぶん、自然光を取り入れるための工夫なのだろう。

 まだ玄関入ってすぐだけど、正直あたしは圧倒されていた。

「なんということでしょう」

 リアクション担当の真由のノリにも思わず同調してしまいそうだった。あの感情死亡の堤くんでさえ施設のこだわりにいたく感心しているらしく、眼鏡の光も心なしか輝度が高い。

 あたしたちのそばを、二人の子どもがじゃれ合いながら横切っていく。「こんにちはー!」という明るい挨拶だけは忘れずに残していった。「転ばないようにね」とノア姉。

 階段横の扉をジュン兄は指した。

「ちなみにお手洗いだけど、一階にはここと、あとは職員室前にももう一つあるからね。行きたい人は今のうちに」

 扉横のプレートには、独特の人型ピクトグラムが三つ並んで描かれている。『ALL GENDER』と書かれていた。

 あたしは隣を歩く吉村くんを肘で突っつく。

「ね、相当金かかってそうじゃない? 色々とさ」

 あたしのひそひそ声に、吉村くんは呆れるように肩をすくめた。

「出た。すーぐお金の話する。咲子さんってそういうとこなんだよなぁ」

「うっさいわね」

 すると、吉村くんは少しあたしへと顔を寄せ、必要以上に声を潜めた。

「でも、資金源が気になるのは確かだね」

 あたしは懐疑的に彼を見返した。


 あたしたちは一階の応接室に通された。一転して応接室は事務的な造りだが、壁にはフリースクールのポスターや子どもたちの写真が貼られていて賑やかな感じだ。

 L字ソファにうちら四人が座り、対面ソファにジュン兄とノア姉が掛ける。

 ジュン兄が施設のパンフレットを配る。

「そこにも書いてあるけど、うちのスクールは『自分らしく』を理念に掲げているんだ。とはいえ、普通の学校の理念よりさらに柔軟に、もっと広義な意味で『自分らしく』を捉えてる。ここにいる子どもたちは様々な事情を抱えながら、学校に通えない、あるいは通わないという選択肢をとっている。俺たちは彼らの事情を汲みながら、彼らの思想や特性を決して否定せず、徹底して本人の生き方を尊重するようにしているんだ。さっき、トイレにオールジェンダーって書いてあったと思うけど、あれもスクールの理念を体現させるための設備だね。あ、メモとかは大丈夫だよ。ごめんね堅苦しくて」

 あたしたちはメモ帳やらノートにペンを走らせながら頷いていたが、それに気づいたジュン兄は照れくさそうに手を振った。

「いえ、これも勉強ですので」と吉村くんが好青年然という。

「本当に先生っぽくて変な感じだね。まぁつまり、日野さんたちも滞在中子どもたちとたくさん接すると思うけど、なるべく彼らの考え方を否定しないであげてほしい、ってことなんだ。ただね、『自分らしく』を貫くのって現実問題難しいことだと思うんだ。学校に行かないのも自由、人から反感を買いかねない思想を押し通すのも自由。だけど、選択した末に起こる結果を自分自身が引き受ける覚悟も、同時に必要になってくるよね。周囲に合わせないということは、必然、社会とぶつかることも多くなるんだ。それから、自分の生き方を常に見つめ直していくというのも大事だね。自分の気持ちを優先するあまりに、自分が不幸な結末に陥ってしまうのは本末転倒だから」

 そこで応接室の扉がノックされ、ノア姉より少し若そうな女性が入ってきた。人の良さそうな、ふくよかな人だ。手にはお茶の載ったお盆があった。

「あ、紹介するね。元中学教師で、今はここで事務員をされている小林美彩さん。たまにお勉強も見てもらってるね。みんなからはコバちゃんって呼ばれてるよ」

「ノア姉さんの一番弟子です。姉さんには頭あがんなくて」

 コバちゃんはあたしたちの前にお茶を置いていく。「もう、何言ってんの」とノア姉は恥ずかしそうにしている。ごゆっくり、と笑いながらコバちゃんは退室していった。

 みんな一旦お茶に口をつける。そこであたしは軽く挙手した。

「そういえば、ここでは子どもや職員さんも皆、名札を着けてるんですね?」

 そう、さっきのコバちゃんしかり、すれ違う子どもたちも全員胸や腰に名札を付けていたのだ。そこには手書きらしき名前が書かれていた。

「あぁそうだ、それを説明するんだった」とジュン兄は柏手を打ち、レターケースの棚を探った。

 あたしたち一人一人にプラスチックの名札ケースが配られる。

「施設ではみんなニックネームで呼び合う風習があるって言ったよね。これには二つ理由があって、一つは、スクールには自分の名前や性自認にコンプレックスを持っている子も多くいて、そういう子たちにも『自分らしさ』を表現してもらうため、自分が呼ばれたいと思う名前を決めてもらっているんだ。また生き方を常に見つめ直すという観点からも、呼び名の変更はいつでもオーケーということになっている。それから二つ目の理由は、なんだったかな、乃愛」

 ジュン兄は軽くノア姉の肘に触れる。

「あ……お察しのとおり、わたし人前でお話しするのがあまり得意じゃないので、分かりづらかったらごめんなさい。ええとね」

 ノア姉は軽くせき払いをして続けた。

「実はわたし、相貌失認っていう疾患を患っているの。数年ほど前の事故がきっかけで、発症からまだそんなに長くないんだけど」

 数年ほど前の事故、とあたしは心中で反芻する。

「相貌失認っていうのは簡単に言うと、人の顔を見てもそれが誰なのかを判別しづらくなってしまうっていう、認知機能の障がいなの。例えば、水槽の中に同じ種類の魚がたくさん泳いでいるのを想像してもらうと分かりやすいかもしれない。一匹一匹違うけれど、どれがどの子って見分けるのは難しいよね。それと似たような感じで、わたしは人を見るときに顔じゃなく、体の大きさや服装なんかでかろうじて判断するの。でもやっぱり時間がかかるし、間違えることもある。あとは、声と名前は一致することがあっても、声と顔を一致させるのは難しいって感じかな。そこで、みんなが着けている名札には助けてもらってるんだ。名札のおかげで人を判別しやすくなるから」

 ノア姉と目が合いづらい理由が分かった。彼女は初対面のあたしたちを顔ではなく、服装や体格で覚えようとしていたんだ。

「あとはもう一つ、わたしに話しかけるときにしてほしいことがあるの。さっき、声と顔が一致しづらいって言ったよね。なので、例えば後ろから話しかけられたり遠くから声を掛けられたりすると、誰が発言したのか分からなくなっちゃうのね。名札があっても、声のする方に何人かいるともう見分けがつかなくなっちゃう。なのでこうやって、」

 ノア姉はジュン兄の手をとり、軽く自分の肩に触れさせた。

「こんな感じで、一度わたしにタッチして、それから発言してもらえると助かるな。するとわたしは『あ、今触れてきた人に話しかけられたんだ。名前は何かな』って感じで名札を見るから。わたしは女だから男の子たちは触れるのに抵抗があるかもしれないけど、肩、肘、腕、手の甲あたりに触れられるのは全然慣れっこだから、遠慮しないでね」

「え、さっき何も知らないのにめっちゃノア姉に話しかけちゃいました」と真由。

「いいの。わたし引っ込み思案だし、たくさん話しかけてもらえるのは嬉しいよ。ありがとうね真由ちゃん」

 もはや声質と話し方で真由を特定しているのだろう。一人だけうるさいキャラしてるし。

「じゃ、そのやり方でいっぱい話しかけます!」

 と、真由はいそいそとメモを取っていく。ジュン兄はパンフレットを置いた。

「最後に、俺たちの苗字が違うのも、フリースクールの理念に俺たち夫婦が深く共感しているからなんだ。まだまだ模索中ではあるんだけどね。自分たちでも、新しい夫婦の形を考え直してみたいっていう思いがあるんだ」

 あたしは深く頷いてペンを取る。『事実婚』、『選択的夫婦別姓』などとメモしようとして手を止める。彼らを既存の枠に当て嵌めてしまうこと自体が失礼な気がして、『新たな夫婦の形を模索中』と素直に書き記した。

 よし、とジュン兄は自分の膝を叩いた。

「そろそろ見学者棟にみんなの荷物を運ぼうか。制服から普段着に着替えてもらって、夕食の時間まで少し時間があるからそれまでゆっくりしていてもらえるかな? 夕食前に呼び出すから、軽く子どもたちと自己紹介タイムにしよう。それまでに各自、名札も書いておいてね」

 はーい、とうちらは揃って返事をした。


 A棟の女子部屋で私服に着替え、無印のフルーツスティックキャンディを舐めながら真由とだらだら駄弁っていると、内線電話で呼び出しがかかった。

 校舎裏で男子たちと落ち合う。みんな、ちゃんと名札を胸に提げている。あたしのニックネームは『さっきぃ』、真由は『まゆまゆ』、吉村くんは『ヨッシー』。そして、堤くんの名札を見てあたしは唇の裏を噛む。堤信吾で、『しんちゃん』か。

「どうした日野」

「なんでもない」

 肩を震わせて笑いを堪える。あたしは堤くんから顔を背けながら歩いた。


 食堂で子どもたちとの自己紹介タイムを済ませる。『かざみの里』は全寮制だが、夏休み期間は実家に帰っている子が多く、在籍数十九名に対して現在施設に残っているのは八名のみで、なんとか名前も全員覚えられそう。

 夕食はカレーだった。

 給食係の職員、ユカコ姉(五十代ほどの溌剌とした女性だ)とノア姉、日替わりの給食担当の子どもたちで作ったのだという。バーモンドのルウを使った普通のカレーだけど、具材には静岡名産の折戸茄子が使われている。施設提携の農家から定期的に頂いているそうだ。

「明日は昼からホイッスル作りをするからね。みんな、動きやすい服装で十三時にグラウンド集合ね」

 夕食後、食堂全体に向けてジュン兄はそう告げた。


 その夜。

 コテージ内のツインルームにて、あたしは隣のベッドから聞こえる声を聞きながらスマホをいじっていた。

「市役所はこの角を曲がった先にあります。いえ、平日の受付時間は午後五時までです……」

 真由の寝言である。

 あたしはさっきまで何度もベッドから降り、本当にこいつ寝てんのかよと何度も真由の寝顔を確認しにいっていた。寝る前、「マユ、昔からよく人に道尋ねられるんだよねえ」と話していたが、それが頭に残っての寝言だろうか。他にもコテージには寝室が二部屋あるので移動したかったのだが、真由が一緒の部屋がいいと言って聞かなかった。翌朝あたしが部屋を移ったと知ると、きっと怒り出すだろう。

 しょうがないので、真由のデカすぎる寝言に耐えながらスマホをいじる。

 画面には、吉村くんからのメッセージが表示されていた。

『ノア姉のお姉さんのYouTubeチャンネルだよ』

 というメッセージと、一本の動画リンク。あたしは耳にワイヤレスイヤホンを装着し、リンクをタップする。


 チャンネル名『meaのおうち』。

 動画タイトルは『就寝前ナイトルーティン 夏ver』。投稿日はおよそ三年前。

 画面には、芽愛さんと思しき人物がエプロン姿でキッチンに立っていた。画角は常に、首から下を映している。背景音はアコースティックギター風のお洒落なBGM。

『今日も旦那の帰りが遅いので、作り置きをしちゃいます』

 台詞は肉声ではなく、全てテロップによるものだ。夕食は鶏肉だんごと野菜の黒酢あんかけ。レシピ紹介のテロップを挟みながら、彼女が料理をする様子が映し出されていく。

 まな板のアップ。味噌汁用のネギがリズミカルに刻まれていく。ネギを抑える左手の薬指ではプラチナの結婚指輪が控えめに輝いていた。

 料理を終え、旦那さんの分はラップをして冷蔵庫へ。

『平日はこうして、いつも一人ごはん。最初は寂しいなって思ってたけど、もう慣れちゃった(笑)』

 手元の様子。いただきますの後、芽愛さんは右手にスプーンを取る。

 入浴準備。最近使っているのだというヘアートリートメントの紹介が入る。企業案件も兼ねているのか、商品名やメーカー、値段まで詳細に表示されていた。

『夏でも、保湿は欠かせません』

 入浴後、これもまた商品名表示つきの化粧水や乳液等によるスキンケアが行われる。

『最近習慣にしている、お風呂上がりの脚ストレッチ。地味だけど、むくみにくくなった気がする』

 余計なものが一切置かれていない生活感の薄いリビング。ストレッチをする芽愛さんの後ろ姿。

 次の場面では、寝室で愛用しているらしいアロマディフューザーと、最近買い換えたという間接照明の紹介。

『就寝前の読書は癒しの時間。間接照明はつねに、試行錯誤を重ねています』

 そして寝室の照明が落とされる。

『そろそろ寝ようかな』テロップの直後、寝室の外から物音がした。『あ、旦那さん帰ってきた』

 カメラは扉側に向けられる。ドアの下の隙間から、廊下側からの白い明かりが漏れていた。

 コンコンコン、とドアがノックされる。

『この音が幸せなの』

 おやすみなさい、また来週お会いしましょう。そのテロップを最後に動画は終了する。


 うん、あたしが好きなタイプのvlogだ。めっちゃ癒される。ワイヤレスイヤホンを外し、ほどよく重くなってきた瞼の感覚に身をゆだねる。

 コテージの外ではウマオイの音がさざめいている。隣のベッドからはもう、静かな寝息しか聞こえてこない。

 芽愛さんの動画を思い返しながら、そういやあたしちゃんと保湿したっけ、と思ったが、いつの間にか寝てしまっていた。

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