二話 後藤仁
着ぐるみを恐いと感じはじめたのは、いつ頃からだっただろう。俺は女の首を絞めながら考えた。
額に浮かんだ汗が頬を伝い、青筋立った両手の甲に落ちる。次第に増えていく滴を眺めながら、あぁそうだ、あの日だ、と思い至る。
あれは確か四歳のとき。両親に連れられ、とあるテーマパークを訪れた。
当時好んで観ていた幼児向けアニメ。俺はその中でも『トラ丸』というキャラクターが好きだった。一通りアトラクションを楽しんだあと、「トラ丸に会いたい」と俺は両親にせがんだ。母がテーマパークアプリでキャラクターグリーティングの場所と待ち時間を調べる。「一時間も並ぶのかぁ」と両親がげんなりしていたのを覚えている。
太陽光がじりじりと肌を焦がすような、きつい残暑だった。
長蛇の列に並ぶ。トラ丸が刻印された青色のアイスキャンディーを舐めながら口元とTシャツを汚す。ようやく順番が巡ってくると、汗で湿った俺の背中を父が押した。トラ丸が明るく両手を振って俺を迎え入れてくれる。俺はうれしくて、黄色く長い毛の生えたお腹に抱きついた。
その瞬間、鼻腔をついたのは夢の世界にあるまじき異臭だった。
「はーい、トラ丸と同じポーズで写真撮ろうー!」
トラ丸のお腹にしがみついたまま動けない俺の肩を、女性スタッフが優しく叩いた。
振り返ると、父が俺たちに向けて一眼レフを構えていた。その横では、母が両腕の力こぶを強調するポーズを取っている。それはトラ丸の決めポーズ、『パワーもりもり』だった。俺は背後を見ることができなかったが、きっと後ろのトラ丸も『パワーもりもり』をやっていたのだろう。
「はい、もりもりー!」
女性スタッフの合言葉で、父が何度かシャッターを切った。
あのときの写真を見返したのは、結婚式で生い立ちムービーを作るときだった。実家のパソコンから発掘して、思わず苦笑いしてしまった。『パワーもりもり』をするトラ丸の隣に、棒立ちの俺。顔を青ざめさせ、なのに口元とTシャツの襟はアイスの跡で青く汚れていて、ひどく滑稽な画だった。
あの写真を撮ったあとは、どうしたんだったか。
そうだ、俺はそのあと一度もトラ丸を見ずに立ち去ろうとしたのだ。だがトラ丸は律儀にも俺の正面に回り込み、屈んで俺と視線を合わせてきた。別れ際にもう一度ハグをすることになっているのだろう。
あの光景だけは、頭から離れない。
トラ丸は口角を三日月型に上げている。その奥から、獣じみた荒い呼吸音が聞こえた。太陽光が、笑顔に固定された口元に入り込む。その細かいメッシュの奥を俺は見てしまった。
ぶ厚い唇と、その周りをくまなく覆う無精髭。酸素を求めるようにだらしなく開いた口腔内では唾液が光っていた。鼻頭には細かい玉の汗がびっしりと浮かんでいる。密着してくるトラ丸から目を逸らせない。生乾きの雑巾のような生臭い吐息が眼球にかかった。
「クソが」
それは流石に、空耳か記憶違いだったと信じたい。
手元を見下ろす。女は目を見開いていた。舌がだらりと唇の端からこぼれている。人間の舌ってこんなに長いのか、と逃避的に思う。しかし現実を見なければと俺は頭を冷やした。
女の口元に手のひらを当てたり、手首を握って脈を測ったりしてみる。恐らく、もう死んでいるものと思われた。だが、生存確認というのは素人には案外難しいらしい。あとで息を吹き返す可能性もなくはない。念入りに、さらに首を絞めなおしてみたが、やがて両腕が疲れてやめてしまった。
女は芽愛にそっくりな外見をしていた。そっくりというか、瓜二つだった。しかし俺は彼女が偽物であることを確信している。
だって芽愛は俺の妻で、幼少期からの幼馴染なのだ。見間違うはずがない。
どこがどう違うのか。そう問われてしまうと今すぐ言語化して答えるのは厳しいのだが、ともかく間違いはない、ということだけは言える。
女は、最後まで自分が芽愛であると主張して譲らなかった。ここ数日間、俺は彼女に詰問を重ねつづけた。女はときに涙し、ときに激高しながら「わたしは芽愛」と言い張った。それこそ身の危険を感じるほどの迫真ぶりで。あまり強く責めて、暴れられたり叫ばれたりされても困るので、無理に追い出すようなことはしなかった。警察に突き出してもよかったが、前回そうしようとしたときに玄関先で泣き叫ばれ、強く抵抗されてしまい、近隣の目を考えて断念した。
だが、ここまで疑われて白状しないというのもどうかと思う。一体何を企んでいたのかは知らないが、夫かつ幼馴染である俺を騙しおおせる勝算でもあったのだろうか。
お前の思惑は外れたな、と俺は女を見下ろしてほくそ笑む。
それにしても結局、この女は何者だったのだろう?
あまりに精巧に芽愛を再現している。今どきの整形技術が俺の想像以上に進んでいるのか、もしくは顔の上から覆っても違和感のない先進的なマスクを着けているのか、あるいは、もともと目鼻立ちや顔骨格の似ている人物がメイク技術で芽愛に寄せているだけ、ということも考えられる。体つきの方もそうだ。本物の芽愛との違いは、一見しただけでは分からない。
ほんの一瞬だけ、不安に駆られる。
胸に手を当てて深呼吸をする。落ち着け、こいつは偽物に違いないのだから。
俺がすべきことは、この女が一体何者であるのかを丹念に調べていくことだ。
しかし、女の身体をあちこち弄って調べるのは躊躇われた。いくら悪者の可能性が高い人物とはいえ、死して抵抗もできず他人の男から身体をいじられるのは可哀想じゃないだろうか。なにより、俺がそんなことをしたと本物の芽愛に知られてしまえば軽蔑されてしまうだろう。まずは女の周辺状況を調べていくのが先決だ。
リビングのソファには女の手提げ鞄が放ってある。芽愛が愛用していた鞄と同一ブランド、同一商品であるようだった。
手提げ鞄の中から、これまた芽愛が使っていたのと同じ財布を取り出し、免許証やマイナンバーカードを確認していく。残念ながら、芽愛であることを示す身分証であるようだった。マイナンバーカードを裏に表に返しながら、リビングの照明に当てて目を凝らす。とても偽物には見えないが、例えば昨今の犯罪グループが作るような偽造身分証とは素人目には判断がつかないほど精緻なものなのだろうか。
財布には、芽愛が通っていた美容室のポイントカードが入っていた。彼女は二、三ヶ月に一度髪を切っていたように記憶している。確か先月の今ごろ、髪色をちょっと変えてみたの、と嬉しそうに言っていたはずだ。
ポイントカードには、その日付のハンコが押してあった。あの女はこのポイントカードさえ偽造するために、芽愛と同じ日に、同じ美容室に行ったというのか?
そこまで考えて俺は財布を置く。
簡単な話だった。この鞄や財布ごと芽愛から盗み出し、我が物として所持していればいいだけのことだ。持ち物による身分確認など意味はないのかもしれない。
ふと、俺は冷蔵庫の方を見やる。
「仁ちゃん……カレー、作り置きしといたから。よかったら食べて」
今日仕事から帰ってきたとき、女はそんなことを言っていた。彼女はひどく疲れた顔で、そのまま寝室に入っていった。
誰が偽物の作った料理なんか食うか、と俺は思った。どんな毒が入ってるか分かったもんじゃない。実際俺はここ数日間女の料理には手をつけず、コンビニ弁当か出前で済ませるようにしていた。
だが冷静に考えてみると、これも一つのヒントになるのかもしれない。
芽愛は料理には相当こだわるタイプだった。暮らし紹介系のYouTube動画を投稿しているのもあり、創作料理にもかなり気合いを入れていたのだ。
「遠慮なんかいらないから、マズいならマズいって言ってね、仁ちゃん。わたしの料理を真似した視聴者さんにクレーム入れられたくないし」
彼女のそんな言葉は、自分の腕に自信があるという裏返しでもあった。事実芽愛の料理はどれも絶品で、それでいてオリジナリティもあるのだから毎回驚かされていた。
冷蔵庫を開け、ラップのかかったカレーの皿を取る。電子レンジで温まるのを待ちながら、俺は笑いを堪えるのに必死だった。
お前みたいな悪人に、芽愛の味が再現できるか?
芽愛のカレーはカルダモンやクミンを調合し、一から作る特製スパイスだ。味は言わずもがな最高級である(愛妻家フィルターがかかってるかもしれないが)。これで市販のカレールウの味でもしようものなら噴飯ものだ。
温まったカレーをキッチンに置き、匂いを嗅ぐ。どうやら市販ルウではないらしい。流石にそこまで間抜けじゃないか。
スプーンで一さじ掬い、口に含む。
口の中でしばらく転がし、嚥下する。そして俺は顎をさすり、しばらく考え込んでしまった。何度か掬い、味を確認していく。
「これは……いやでも、うん」
そんな独り言を呟きながら。
よく出来たカレーだった。よく出来たというのは、単純に美味いというだけでなく、芽愛の味によく寄せられた美味しいカレーであるということだった。ということはつまり、どういうことだ。
思考が停止し、何も考えられなくなる。
ハッとして、自分に喝を入れた。
まだまだ俺は動揺していたらしい。芽愛はYouTubeで自分の創作料理を紹介していたのだ。動画内でもレシピを公開していたはず。偽物が動画を参考に芽愛のカレーを真似たというのは充分あり得る話だ。ただ、いくらレシピがあるからとはいえこれほど彼女の味を再現してくるとは、そこに関しては偽物の努力に賞賛の拍手を送りたい。
寝室に入り、電気を点ける。女は相変わらず死んでおり、息を吹き返す様子もない。
SNSかテレビだったか、最先端AIを積んでいるという人間そっくりのロボットを見た。画面越しでは本物の人間と見分けがつかないほど精巧だが、いざロボットが動き出してみると、唇や眉の動き、関節可動のぎこちなさにはまだまだ作り物感が拭えないようだ。
ただ、まだメディアには出ていない最先端科学の、完全に人間を模すことに成功したアンドロイドロボットが、世界のどこかには存在しているのではないか?
馬鹿馬鹿しい、と俺は頭を振った。
仮にそんなSFじみた超技術のアンドロイドが存在するとして、どうして俺みたいな平均年収と平均資産、平凡な出自の男を騙くらかす必要がある。現実逃避もいい加減にしろ。
こいつは人間だ。
さっきこの手のひらで感じ取ったはずだ。人としての温もり、汗の湿り、鬱血していく血管の感触を。
俺はベッドに腰掛ける。女に向け、合掌して頭を下げた。
許してくれ。
パジャマのボタンに指をかけ、上を脱がせていく。女の白い上半身と下着が照明の下で露わになり、やはり申し訳ない気持ちになる。だがもうこれしか調べる方法が残っていない。
確か、芽愛は鎖骨の下、左胸の上あたりにホクロがあったはずだ。顔を近づけてみると、俺の記憶と同じような箇所にホクロがあった。
怖気がしてくる。一体どこまで再現するつもりなのだろう。
試しに、そのホクロを指で擦ってみた。描きボクロというメイクがあることくらいは男の俺でも知っている。
だがホクロに触れてすぐに、そこに固さというか、手ごたえのようなものを感じて指を離した。斜めから眺めてみると、ホクロはやや立体的に膨らんでいるように見えた。まるで本物であるかのように。
ホクロの除去、というのは聞いたことがあるが、ホクロの形成という美容施術はあるのだろうか。あるかもしれない。特定の位置、例えば目の下や唇の端の下にホクロがあるのを羨ましがる人もいる。きっとあるのだろう。
次はどこを調べるか、と女の身体を見回していると、手っ取り早く重要な部位があるのにようやく気づいた。指紋だ。
枕元に置かれた女のスマホを取り、女の指を拝借して指紋認証を試みる。難なくロックは外れた。
これは女が今まで使っていたスマホ(芽愛と同じ世代のiPhoneだ)である。女本人のスマホであればロックが解除できるのは当然として、問題は中身の方。
女が何らかの組織とやりとりしている記録を盗み見られるのではないか、そう俺は考えた。これは重要な手がかりとなりそうだ。
俺は、芽愛が何者かに誘拐されたという可能性を考えている。女もその誘拐犯の一味であり、何らかの事情で時間を稼ぐ必要があって、それで俺を騙していたのではないか。何のためにそんなことをするのかは知れないが、女の素性を暴くことで、もしかしたら芽愛を取り戻すきっかけを掴めるかもしれない。
ホーム画面にあるLINEアプリをタップしようとして考え直す。テレビのニュースで、闇バイトのような犯罪組織がよく使うメッセージアプリが紹介されていなかったか。たしか、テレグラムとかシグナルってやつだ。会話ログが自動削除される、暗号化されるなど、通信の秘匿性が高いとされるメッセージアプリだ。
しかし、女のスマホにそれらしいアプリは入っていないようだった。犯罪グループがLINEやメールで普通にやりとりするとは思えないが。
一応、LINEを開いてみる。
一番上に、俺のLINEアカウントのメッセージ履歴が表示された。
『やっぱり今度の土曜日、病院いってみない? 口コミで調べたんだ。そこの先生、親身にお話聞いてくれるんだって』
今朝、女が俺に送ってきたメッセージだ。当然俺は既読スルーした。どうやったのかは知らないが、この女は芽愛のLINEアカウントまで乗っ取っているらしいのだ。
他のメッセージ履歴も眺める。聞き覚えのある本名らしきアカウント名が散見された。芽愛がよく話していた会社の同僚の名前だったり、地元の共通の友人だったり。ざっと見た限り、犯罪の匂いがしそうな怪しいメッセージ履歴は見られない。
電話帳を開く。芽愛の両親、妹、俺、友人らのアドレスが並ぶ。
写真フォルダを開く。三週間前、俺と芽愛で行った真白ヶ丘森林公園の写真であふれている。
メモ帳を開く。YouTube動画のネタ出しとアイデアがこまめに整理されている。
そこで俺はスマホを放り投げた。ベッドの下に落ち、フローリングにぶつかる固い音が響く。
いかにも芽愛のスマホであるかのようだ。
指紋の整形手術、なんてものは流石に存在しないだろう。では何故、女の指紋で開いたスマホが、まるで芽愛のスマホそのもののようであったか?
考えられるのは、芽愛の端末データを女のスマホに複製、移転させたということだ。一体どんな手法を使えば他者の端末データをまるごと盗用できるのかは分からないし、知りたいとも思わないが、ともかく、女の擬態性の高さはもはや怨念じみた執着心すら感じる。
ここまでして、お前は何がしたい?
ふつふつと怒りが湧いてくる。
俺はもうほとんど遠慮せずに女の身体をまさぐっていた。歯並びは、髪の生え際は、二重瞼の皺の間隔は。一つずつ調べていくごとに腹の底から憎悪が立ち上がってくる。
この女は、そして一味は、完璧に芽愛を乗っ取ったつもりでいるのだろう。身分証も、料理の味も、スマホデータも、芽愛の肉体さえも執拗に模倣して。しかしたった一つ、やつらにも真似できないものがある。
俺たちの愛だ。
瞼を強引に開き、その裏側を観察する。耳の穴や口を目一杯こじ開け、中に入っているはずの偽物を探す。俺の脳裏に蘇るのは、あのメッシュの向こう、無精髭と汗にまみれた臭い息を吐く不粋な影。
女の身体を動かし、背中や関節部を隅々まで確認する。
どこかにあるはずの縫い目やジッパーを、俺は探しつづけた。




