一話・前 日野咲子
新幹線のホームには七月下旬の生ぬるい風が吹いていた。
制服のスカートのポケットに手を入れると、プラ包装紙のかしゃりとした音が鳴った。何が入っているのか、もう見なくても分かる。どうせ沖縄黒飴だ。
あたしはノールックで一個取り出し、包装紙をやぶって口に放りこむ。うん、やっぱそう、と予想的中した沖縄黒飴の気だるい甘みに、思わず顔をしかめる。
最近、こういうことがとても多い。
あたしの信条のひとつに『口は災いの元』というのがある。知らぬが仏、触らぬ神に祟りなし、と言い換えてもいい。その大切にしてきた信条に、このところ疑いが生じかけている。つまり、言わなくて後悔したこと、言わなかったことで損した出来事が、最近やたら多い気がするのだ。
この飴にしたってそう。
二ヶ月ほど前、兄貴と大喧嘩した夜のこと。泥酔して帰ってきた兄貴が玄関先で戻しやがって、お気に入りのニューバランスのスニーカーに吐しゃ物がかかってしまった。当然あたしはガチギレ。「あーうるせえ、弁償すりゃいいんだろ」と最初は憮然としていた兄貴だったが、あたしが「もう日本じゃ手に入らない限定モデルなんだよ」と涙ながらに訴えたところ、流石のヤツもしょんぼりと謝罪してきた。
その翌朝、まだ怒り冷めやらぬあたしに、「そういやこれ、こないだの出張土産」と兄貴が手渡してきたのが、沖縄の黒糖飴だったのだ。
「う、美味すぎる……」
口に含んだ瞬間、沖縄離島の青空と見渡す限りのサトウキビ畑の幻覚を見た気がした。雑味のない黒糖特有の豊かな風味が口内に満ちあふれ、三線の伝統的な調べまで聞こえてくるようだった。
兄貴も一個、沖縄黒飴を口にする。
「ぜんぜん普通だけどな」
飴シロウトにこの商品の素晴らしさは理解できまい。
とにかくあたしは機嫌を取り戻し、お土産のその飴を一袋、たった一日で消費してしまったのである。
そこまでは良かった。
それからというもの、兄貴は外出時、アンテナショップやデパ地下の沖縄フェアなんかを見かけるたび、沖縄黒飴を四袋も五袋もまとめ買いして持ち帰ってくるようになった。「うちの妹は沖縄黒飴さえ舐めさせときゃ大人しくなる」とでも思っているのかもしれない。
彼に悪意はない。沖縄も、サトウキビも、商品メーカーにも一切罪はない。それは重々承知している。だけど、物事には限度ってものがあるだろう。
あたしには手持ちの飴を五日以内に消費するというポリシーがある。次から次へとバカみたいに増えていく沖縄黒飴に、いや、最初はたしかに嬉しかったんだけど、だんだん兄貴のあまりの思考停止ぶりに恐怖を覚えるようになってくる。また、己のポリシーを遵守しなければというプレッシャーからあんなに美味しかったはずの沖縄黒飴の風味が徐々に色褪せ、次第に無感動へ、ついにはその甘味に吐き気さえ覚えるようになったのである。
そう、兄貴に一言告げれば済む話だった。
「この飴は飽きたからもういらない」と。
あたしは考えるのを止め、二個目の沖縄黒飴を口に放る。未だ一人もやってこない部活仲間を待ちながら、こういうことばっかりなんだよな、と改めて思う。
たとえば人気のアサイーボウル専門店で、あたしはクラシックスタイルが好きだから定番の看板メニューを注文したのに、何故かピーナッツとヨーグルトベースのアサイーボウルが来て、まぁでも間違えちゃったもんはしょうがないかと遠慮して言えなかったり。
またあるときは知り合いの図書委員の女子に「どうしても彼氏と用事ができちゃって、さっきぃ、図書室の受付代わってくれない?」と頼まれて、本当は嫌だったけど断れなかったり。
そして極めつけは今回、あたしが所属する文芸部の件についてである。
来たる十月の高校文化祭に向け、文芸部もいくつかの催しに参画することになっている。その中での目玉はなんといっても、絵本担当部員・小峰真由が原作を担当する『紙芝居ミュージカル』だった。
これは文芸部と演劇部と吹奏楽部とダンス部の四部活コラボ企画で、文化祭の舞台で披露することになっている。
まず、ミュージカルの原作となる紙芝居を舞台奥のモニターに拡大表示させつつ、紙芝居の内容に添った演劇部の芝居、および吹奏楽部の演奏とダンス部の踊りを融合させるという一大プロジェクトだ。
六月。
言い出しっぺの演劇部にこの話を持ちかけられたとき、文芸部部長であるあたしは長考し、『あまり時間もないし、今から他の部活と上手く連携取れるかも分からないし、せめて規模を抑えるとか、もっと慎重に考えた方がいいんじゃないかな?』と返答しようと考え、ゆっくりと口を開いた。
「あまり時間も──」
「やります!」
あたしを押し退け、勢いよく手を上げたのが真由だった。勢いが良すぎて、椅子から飛び跳ねていた。
「マユ、紙芝居書きますっ! いいよね咲子さんっ!?」
栗色のゆるふわボブを揺らし、持ち前の小動物フェイスできらきらと目を輝かせる真由に、あたしはついぞ口を挟むことができなかった。
それからあっという間に一ヶ月が経つ。部室にはスケッチブックに顔を埋めてメソメソする真由の姿があった。彼女の足元には書き損じ丸められた画用紙が山と積まれていた。
「またボツ食らったよぉ……」
真由はこれまで誰からも指摘を受けることなく、自分の描きたい絵本しか作ってこなかった。他者との連携を前提とする脚本制作の経験も無く、総合芸術であるミュージカルの原作は荷が重いのだろう。
そんな真由を尻目に、あたしはあたしで真由のせいで丸投げされた文化祭用の部誌編集のために余裕がなかった。
そこで重い腰を上げたのが、いつも部室の隅で公募用小説をしこしこ書いている堤信吾だった。芥川の生まれ変わりを自称する彼は、インテリジェンスに過ぎる眼鏡を光らせながら真由へと歩み寄り、彼女の脇に放られたネタ帳をパラパラとめくった。
「テーマ、だな」
堤くんは重々しい口調で言い放つ。
「四つの部活、各顧問、そして一番は観客陣を納得させるようなテーマ性が必要だ。それが欠落していたら、どんなに良いストーリーも一気に陳腐なものへと成り下がる」
何か格調高く言っているけど、なるほどな、とあたしは思う。この紙芝居ミュージカルが一大プロジェクトとされるのには、もう一つ理由がある。
来客の存在だ。
企画が始動した段階で、学校側の取りはからいで近所の小学生、幼稚園生を招き入れる手配がなされた。紙芝居ミュージカルを子どもたちに鑑賞してもらおうというのである。子どもとはいえ校外の者に見せる以上は下手な演目には出来ないし、必然、各部活の顧問の目も厳しくなる。テーマやログラインの薄いストーリーは中々認めてもらえないし、真由がここまで用意してきた紙芝居ラフも、一体何度ボツを食らったか分からない。
「テーマ……なるほど、さすが堤さん」
分かりやすく生気を取り戻す真由に、本当に分かってんのかよとあたしは思う。堤くんは真由の隣に掛け、ネタ帳を挟んであれやこれやと檄を飛ばしていく。真由は小刻みに頷き、いちいち彼の言葉をメモに取っていった。
まぁ、堤くんが手伝ってくれるみたいだし何とかなるか。そうあたしは独りごち、黙って自分の作業へと戻るのだった。
そして七月の中旬。
ミュージカル原作の締め切りは夏休みに入るまで、と前々から言われていた。そしてようやく、堤くんの協力のもと真由渾身の一作が仕上がる。まだラフ段階ではあるけど、ストーリーさえ確定すれば各部活も動き出せるのだ。現在七月中旬ということを考えれば、ほとんどラストチャンスに近い。
勢い勇んでラフを職員室に持って行こうとする真由に、嫌な予感を覚えて引き止める。
真由のスケッチブックを最後までめくり終えると、あたしはしばらく椅子から動けず、ロダンの『考える人』状態になってしまった。
「これって、子ども向けだよね……?」
紙芝居の登場人物はポップな絵柄の動物たちで、いかにも児童や幼児向けという風に見える。問題はストーリーのほう。
紙芝居の内容はこんな感じ。
一匹のオオカミが、見た目が恐いからという理由で森の仲間たちから避けられていた。やがて人里に降りることを余儀なくされ、最終的には猟師に撃たれて亡くなってしまう。その後、オオカミの人柄を知る小鳥が森の仲間たちに訴えかける。彼は良いやつだったんだと知ると、森の仲間たちは自らの行いを悔い、オオカミのお墓を作るというものだった。
「堤くん、前に言ってたじゃん。一番大事なのは来客陣にあったテーマとストーリーにすることだって」
「言ったが」
堤くんは怪訝に眼鏡のブリッジを上げた。
このお話のテーマはなんだろう。『偏見はやめよう』、『人を見た目で判断してはいけない』とか、そんなところか。テーマそのものは許容範囲なのかもしれない。問題は伝え方な気がする。
「なんかこう、話がもの悲し過ぎるというか……子ども向けにしては、文学的余白? が過ぎるというか……」
堤くんは佇立したまま腕を組み、槍で貫くみたいな眼光であたしを見据えた。
「何故、今なんだ」
「え?」
「そう思っていたなら何故今言うんだ。締め切り間近で、ラフも完成していて、それでなんで今なんだ?」
部室内の空気が明らかにピリつき、脳天気な真由も流石におろおろし出す。
あたしはぐっと唇を噛む。返す言葉もなかった。真由と堤くんは今までずっと同じ部室で、ずっとあたしの隣でラフを描いてきた。当然、ストーリーの内容を話し合う二人の声も耳に入ってきていた。『銃で撃たれるとかエグくない?』とか、『え、お墓?』とか、引っかかるワードをことごとく無視し続けてきたのは、あたしだ。
「だが、まあ日野のせいではないな。俺の監修不足だ。夢中になるうちに、観客層を配慮しそこねた」
らしくもなく自信家の堤くんがそうやってそっぽを向くので、あたしはますます自責の念に駆られる。いくら自分の作業で忙しかったからって、三人の文芸部なのに、あたしだけが面倒がって部員との関わりを放棄していた。
あたしは改心し、真由を伴って各部活と顧問へ頭を下げに行った。原作ラフの提出を七月いっぱいまで待ってほしいというお願いだった。
そのあと三人で話し合い、夏休み開始直後に紙芝居制作のための合宿をしようという運びになった。それも、ただ三人で作業部屋に籠もるような合宿では意味がない。ターゲットである子どもと触れあえるような宿泊施設が理想だった。
そこで選んだのが、隣県の静岡にある『かざみの里』というフリースクールだ。
普段は小学生中心の不登校児などを入所させているスクールだけど、夏休みや冬休みは高校生や大学生ボランティア、保護者向けの宿泊型自然体験教室として施設を開放しているらしい。夏休み目前ではあったが電話で問い合わせ、事情を話したところすんなりと十日間の宿泊体験を予約することが出来た。
「うちは八月に入ってからが繁忙期なんです。七月中はお部屋もがら空きだから、きっとのびのびできると思いますよ」
電話口で、若い女性らしきスタッフがそう言ってくれた。




