査問会3
(……それでもいいか)
そんな考えがふと浮かぶ。
そうしたら今より仕事は楽だ。
うまくいけばオンコールも外してもらえるかもしれない。
細川対策にもっと時間を使うことができるから、少しは高津たちの支えになれる。
少なくとも、あちらでは彼はかなり頼りにされていた。
(……逆にこっちは、どうせ俺がいようがいまいがどうでもいいだろうし)
一人欠けるとシフトが大変なので、周術期管理は彼の肩にかかるだろうが、それまでもやってることなので村山としては特に問題ない。
今泉も森田も、言葉はかなり選んで遠回しには言っているが、結局の所は雑でいい加減というのが結論のようなので、そうなる公算は大だった。
「……そう言えば、明石先生はこの事例にある腹部大動脈瘤破裂の手術に立ち会っていらっしゃる」
院長の視線が明石に向けられる。
「その時のことをお話いただけますか?」
(そう言えば……って何だよ)
明石と彼の確執は有名だ。
(最後のとどめに置いといたくせに、白々しい……)
村山は目を伏せる。
(もうどうでもいい)
何を言われても仕方がない。
彼の力は一般の人間にはどうせわからないものだから……
「そんな回りくどいことをせず、本人に直接聞いたら如何ですか?」
明石の言葉が聞こえた。
「正直、面倒くさいです」
こんな時なのに、何故だか村山は一瞬吹き出しそうになった。
本当に明石は院長の前でも変わらない。
彼のようになりたいと少し思う……
「明石先生のおっしゃる通りかもしれません。それでは」
顔を上げると、院長がこちらを見据えていた。
いつものように、どこか軽蔑を含んだ目が彼をすくませる。
「何か言いたいことがあれば言って見ろ」
村山は全てを諦めた。
(……もう、いい)
この男と会話しなくて済むのなら、えん罪だろうが何だろうが頷いた方が楽だ。
溜息とともに、彼は詫びの言葉を発しようとした。だが、
(……あれ)
言葉が出ない。
(……なんで?)
まるで舌が凍ったように動かない。
言い慣れたはずの単語が喉の奥に引っかかる。
「何だ? 自覚もないとか言うんじゃないだろうな?」
蔑みに満ちた表情が、いつものように彼を切り刻み始めた。
「それとも言うべき言葉もないのか」
村山は彼を汚物みたいに見つめる父の瞳に唇を更に噛んだ。
(……卑怯者)
彼がずっと父に怯えていたのは、父が怖かったからではなかった。
相手の手札を見たくなかっただけ。何が描いてあるのかわからないだけに不安が増殖し、それだから父に従った。
(……でも)
既に彼は自らカードをめくってしまった。何の絵柄だったかも知っている。
だとすれば目の前にいるのは、自分が優位に立っていると思いこんでいる哀れな男でしかないはずだ。
(……お前なんかに偉そうに言われる筋合いなんてない)
醜くいびつな己の姿に吐き気がする。
(俺が真っ直ぐに成長できなかったのは誰のせいだ?)
自分の子供すらまともに育てられないようなつまらない男のくせに……
「よろしい、何も言えないなら、こっちで台詞を用意してやろう」
哀しみと悔しさで心が一杯になる。
(……こんな男の息子だなんて、最低だ)
彼がそう思った時だった。
「雑でいい加減な仕事をして申し訳ございませんでしたと皆さんに、いや患者さんに謝れ」
絶望で充満しているはずの心に、異種の冷たい息吹が奥から吹き出した。
それは同時に彼の表層を凍らせる。
(………あ)
村山は眉をひそめる。
手術室の彼、車を運転しているときの彼が、凍り付いて役目を果たせなくなったいつもの自分の代わりに前に出たのだ。
自分が今どんな表情をしているか、どうしてか村山にはわかる。
(あの女の)
彼が抜き取った写真……白いスーツ姿の女。
(あの血は俺にも流れている)
挑むように相手を見据え、決して物怖じしない……
「一時間、いただけますか?」
頭脳は既に回転を始めていた。
「一時間もお前に割くための時間の持ち合わせなどない」
「医療安全委員会活動における有害事象誘発因子の収集と分析が目的なら、事実の説明を聞くぐらいのことはすべきでしょう」
修造は彼を睨む。
「生意気なことを言いおって!」
不思議と恐怖は感じなかった。逆に手術室でのあの研ぎ澄まされた感覚がよみがえる。
「三十分やるからせいぜい言い訳をしてみろ。下らぬ内容ならこの病院からたたき出してやる」
村山は壁の時計を見た。立ち上がり、話すべき内容を構成ごとにブロックにして時間を割り振りながらホワイトボードに向かう。
「……まず、手術の時間については、同一症例であっても患者さんが違えば比較は無意味ですので、今回は本件に特化した話とさせていただきます。それでは用紙の一番上の症例をご覧下さい。患者は五十八歳男性……」
腹部大動脈瘤破裂の患者については明石が見ていてややこしいので、別の手術を事例に出す。
これがどうしてその時間内に終わり得たか。
マトリックスの方がわかりやすいとは思ったが、比較対照にするとオブザーブしている同僚が不愉快に思う可能性があるので系統図にする。
彼はホワイトボードにツリー図を書き、タスクを最小限に抑えるための必須項目を操作順序ごとに書きなぐった。
何故、そのアプローチを選んだかの理論的説明。別の方法をとった場合にかかると思われる余分な時間、それとリスク。
それをできるだけ分割してわかりやすく説明する。
時間が少しあまりそうだったので、内臓を持ち替えずに保持できるポイントなど彼が実体験から得たこつ。ボビーの適切な使用による結紮回数の減少などについて口頭で説明し、それで得た短縮時間も別途その他としてボードの隅に書いておく。
ようやくにして時計を見ると予定より十五秒遅く、二十九分三十八秒経過していた。
「……何かご質問は?」
父は時計をちらりと見た。
「質疑応答の時間は残されておらんから端的に言うが」
彼は村山を憎悪をこめた瞳で睨む。
「極めて不愉快だ。ここにいる方たちも同じ感想を抱いたと思う」
その額に筋が入った。
「どうやらこうなることを見越して、後付の理屈を散々考えてきたようだがそんなことでは誤魔化されん」
彼は思わず心の内で笑う。もし彼が裏を読んでいたなら、今日は理由をつけて欠席していることだろう。
「ここで反省の一つもすれば、まだ更正の余地はあったものを」
父の次の台詞が手に取るように読めた。
彼が何を言い訳しようと、修造は彼の医師としての適性を問題にする。
(……ならば)
それに対して父の結論を無効化するためのフローを村山が数種考えた時だった……
「院長先生、発言してもよろしいですか?」
退屈そうな顔で、明石が院長を見ている。
村山は思わず唾を飲み込んだ。
(……まずいな)
彼とはあまり話をしたことがないので、何を言い出すのか予測がつかない。
最も可能性が高いのは、自分には関係ない、時間の無駄だから席を外したいという台詞だが、
(そうであればいい)
いやそれは、あまりに楽観的すぎる。今は最悪の事態を想定した方が……
「どうぞ、先生」
さすがに修造は村山に対するようには彼を扱わなかった。
村山は緊張してその言葉を待つ。
「……村山先生のツリー図には致命的な欠陥があります。肝心なことが欠落している」
彼はふてぶてしい表情のまま、目だけでこちらをちらりと見る。
「それはわざとか?」
村山は眉をひそめた。
相手の意図はまだ読めない。
「私はこれで完璧だと思っています。至らない点があればそれこそ遠回しに言わず、はっきりとご指導いただけませんか?」
どうしてか明石は苦笑した。




