ランチ9
「萌!」
村山の声が後ろからした。
「もういい、大丈夫だ!」
萌が気を緩めると、男が立ち上がりながら傘を掴もうとしたので、萌は振りかぶりつつひらりと下がって小手を打った。
「性懲りもなく、また悪さをしやがって」
走ってきた村山が萌と立ち上がった男の間に入り、相手に飛びかかってその腕を締め上げる。
「今度こそ、年貢の納め時だぞ」
しかし、痛そうな表情がかすかに歪みを持った笑いに変わる。
「おい、お医者さんよ、残念だったな、人が来たぞ」
男の言葉に萌は慌てて後ろを振り返る。
すると、確かに買い物袋を下げた二人連れがこちらに向かってやってくる。
「……それがどうした?」
「警察を呼んでくれって、俺が頼んだらお前は犯罪者だ」
「何で?」
「今のこの状況を客観的に見て見ろ、お前が俺を締め上げてる。暴力を振るってるのはお前だからな」
村山がわずかに笑った。
「瀬尾さんの家に防犯カメラがあった。そこにお前は写っている。そして今度は二人の友人である女の子を襲った」
「な……」
「お前の家族が可哀想だからどうしようかと悩んでいたが、心は決まった。今からビデオごと警察に突きだしてやる」
と、男の顔が真っ青になる。
「人はわからないものだ。瀬尾さんの家に乱入して二人を掠おうとし、ついでにそれを助けようとした男子高校生にナイフを突き立てようとした悪漢が、保育所で娘に甘いと評判の三歳児の父親とはね」
「ま、待て」
「可哀想に。お前の娘は明日から犯罪者の子供と呼ばれるようになるんだ」
村山は薄く笑う。
「ま……俺の知ったことじゃないがな」
萌は慌てて村山の腕を掴む。
「あ、あのもういいから。あたしは大丈夫だったから、その人を離して」
子供がいると聞いた途端、萌は動揺した。
「あたし怪我もしてないし、村山さんが助けてくれたし……」
「馬鹿言うな、こんな奴はちゃんと司法に裁かれるがいいんだ」
男が震える。
「助けてくれ」
「何だって?」
「やらないと家族に危害が及ぶから仕方なくやったんだ。頼む、見逃してくれ……」
萌はもう一度村山に頼む。
「村山さん、お願い」
「断る」
「ね、そんな悪漢を傘で地面に手を突かせた女子高生なんて新聞に載ったらあたし、明日から学校に行けなくなる」
「格好いいじゃないか」
「絶対いや」
村山が溜息をついた。
「……命拾いしたな、お前。この子に感謝しろよ」
そしてその手を離すと、男は転げまろびつその場から走って逃げる。
遠巻きにしていた夫婦らしい買い物客がびっくりしたような顔で逃げていく男とこちらを交互に見た。
「あの、何かあったんですか?」
「車上荒らしです」
「ええっ!」
「未遂でしたが」
村山は再び溜息をついて、高津に渡すはずだった手提げ袋を拾い上げた。
「で、萌、お前は怪我、なかったか?」
「うん」
だが、顔を上げた村山の顔色が変わった。
「そ、それ……」
「え?」
あっと思う間もなく、彼は萌の腕を取る。
「切れてるじゃないかっ!」
「そうなの。妙のセーター借りたのに、どうしよう、怒られちゃう……」
「服じゃなくて、腕だ!」
確かに血は出ていたが、大したことはない。
「こんなの、舐めたら治るって」
村山は眉をひそめて傷を見る。
「……あいつ、やっぱり逃がすんじゃなかった。」
「でもビデオカメラに写ってるんだったら、いつでも何とかできるんでしょ? 何も今やらなくても」
「あれは嘘。暁の家で防犯カメラなんて見たことないだろ?」
「あ、そうか……あ」
不意に萌は村山に手首を握られていることに気が付いて、慌てて腕を振りほどく。
「と、とりあえず傷は、だ、大丈夫。大丈夫じゃないとしたら、あの男からセーター代を巻き上げなかった自分の至らなさよ」
緊張のあまりろれつも回らず、顔から火が出るほど恥ずかしい。
「ごめんな」
村山は形のいい唇を噛んだ。
「お前だけは怪我させないつもりだったんだけど」
その一言で、萌は幸せのあまり気を失いそうになった。
「だから怪我なんてしてないって」
後になったら家から出られないくらい怖くなるのかもしれないが、今は村山がいるので恐怖は遠い。
「村山さんの言いつけ守らずに車から出ちゃったし、怒られて当然のところだから」
「……ま、大の男の手を地面に付かせたんだ、大活躍だよ」
ようやく村山は表情を和らげた。
「傘でどこ突いた?」
「みぞおちを二回」
「凄いよな。そこの一点狙いなんて」
「バカの一つ覚えなの」
かつて経験したロールプレイングゲームで、人型のモンスターが出たときに有効だった技だ。
「……謙遜するなよ。俺、萌のそういうとこ、尊敬してるんだから」
村山は車に荷物を置くと、再び出口の方に歩き出した。
「どこ行くの?」
「バンソウコウと、圭介の見舞いを買いに。ゼリーが穴だらけになってしまったから」
「バンソウコウはいらないよ」
少し走って村山の横に並ぶ。
「服が汚れる」
「……もう、汚れるとかそんな問題じゃなくなってるし」
「そうだな、妙ちゃんの服、弁償しなきゃな」
「村山さんのせいじゃないから」
死への恐怖も、妹への弁解に対する困惑も全て消える。
恋は偉大だと萌は改めて感じた。




