写真3
(……何でこうなるんだろ)
袋に入ったリンツの赤いリンドールを取って口に入れると、甘いチョコレートが舌を癒やす。
包み紙を畳んでポケットに入れ、そうして彼は道の真ん中で立ち止まった。
目の前には老舗の和菓子屋がある。
そうしてここの京風の優しい甘さのきんとんを、家政婦の千代が好きだったことを不意に思い出す。
(……昼飯時だし、家に帰ろう、か)
それとも……
彼は深呼吸をする。
ずっと今まで避けて通っていたことを、今日なら勢いでやれるのではないか?
父は今日、出張でいない。
(……逃げるな)
多分、今しかないことはわかっていた。
村山はほんのわずかの間逡巡したが、生菓子を三つ買ってそのまま足を実家に向けた。
「どうかなさったのですか、坊ちゃま?」
焼香を済ませ、座敷机の座布団の上に座り直した彼に、茶を出しながら千代が不思議そうな顔で聞く。
「実家に帰るのに、どうかなさったはないんじゃないかな」
「でも、お珍しいんですもの」
彼は千代に一個包みのきんとんを渡した。
「これを見たらなんだか千代さんを思い出して」
「そんなお気遣いをなさってはいけません」
つっけんどんだが顔が笑っているので、これで良かったのだと知る。
笑っているのに機嫌が悪いという外科部長などは、何を考えているのかちっともわからないのでいつも困るのだが……
「実はさっき姉さんに会ったとき、仏壇にお参りしておけって言われちゃって」
「真夏に雪が降るぐらいお珍しいことですよ、坊ちゃまがお線香を上げに来られるなんて」
「そう、それと先に言っておくけど、お供えの方の生菓子二つはお下がりで持って帰ってもいいかな。詩織へのお土産だから」
「まさか目的はそちらじゃないでしょうね?」
千代の入れた玉露をしばらく堪能する。
そして、度胸を決めて村山はゆっくりと顔を上げた。
「千代さんに頼みがあるんだけど」
「なんでございましょう」
「……アルバム、見たいんだ。母さんの」
千代は目を丸くした。
「え?」
驚くのも無理はない。この三十年間、彼はその言葉を一度も口にしたことがなかった。
「あ、駄目ならいいんだけど……」
「駄目なことがあるものですか」
千代はすっくと立ち上がり、旦那様のお部屋にあるのでと断ってから数冊のアルバムを抱えて戻ってきた。
村山は慌てて側に駆け寄る。
「ごめん、重かったよね」
村山の父よりも八歳年上の老婆は、しっかりしてはいたがさすがに年だ。
アルバムを受け取って彼は畳に座り直す。
そしてゆっくりとそれを開いた。
「……でも、本当に急にどうされたんですか」
「彼岸、お墓参りも行かなかったし」
村山は小さな姉と二人で写る、すました顔の母親の写真を見つめる。
(……同じとは、思えない)
いつも夢に現れる正体不明の若い女。
恐らく交通事故で死んだ母だと思って調べに来たが、これも仏壇の遺影と同じだ。とてもあの血まみれの女と同一人物とは思えない。
小さな卵形の顔など骨格は確かに類似しているが、眼球も脳漿も飛びだし、血糊がべったりとついたあの顔は、絶対にこの可憐な写真の主ではなかった。
「そんな殊勝なことをおっしゃる坊ちゃまが、どうして論文だの患者さんだのと理由をつけて、春秋どっちのお彼岸にもずっと帰ってこられなかったんでしょうね」
千代は小さく怨じた。
「お墓参りもお盆とお正月だけ。しかもそれすら京都に行ってからは時々すっぽかしたりなさって」
「ごめんなさい。でも、こっちに帰ってきてからはお盆も秋もお正月もお参りに行ったよ」
「当たり前のことを自慢なさらないでください。それにこちらに戻ってこられたらさすがにお逃げになる理由が見つからないと思っていたのに、この春いきなり裏切られて……」
小さく舌を出し、村山は再び写真に目をおとす。
(そういえば、中学時代って鏡見るのがすごく嫌だったよな)
彼の顔の話をされるのも未だに大嫌いだ。
そしてその理由がようやくわかる。
眉、唇の形、目鼻立ちは母親譲りで、一目で親子だと分かるほど彼は彼女に似ていた。
中学の頃の彼などは似ていると言うよりも、この写真そのものと言った方がいいほどだ。
「ほんと、お懐かしいお姿ですねえ」
「……だけどなんだか、あんまり嬉しそうな写真がないな」
その傾向は年を追う毎に強くなっていく。もともと母の笑顔の写真は少なかったが、彼が生まれた頃から彼女が他界するまでの二年間に撮ったものには笑顔どころか優しい表情のものすらない。
それらは全て美しくはあるが厳しく冴え冴えとしている。
(……俺がこの女の腹から生まれたとは思えない)
だが、そう思った瞬間去来したのは手術室の自分。
怜悧で、極めて自己中心的な存在と化したあの時の……
自分の隠された本質を垣間見たように思い、彼はしばしそれを眺める。




