第9話 画面の中のお七
第9話 画面の中のお七
円乗寺へ行った翌朝、千鶴は居間の机へ古いパソコンを置いた。電源を入れると本体の奥で低い音が鳴り、画面が明るくなるまでしばらくかかった。机の端には浩司が読みかけた新聞、乾いた蜜柑の皮、昨日の蕎麦屋でもらった小さな飴が残っていた。
千鶴は赤いブラウスの上へ、薄い灰色のカーディガンを羽織っていた。庭では青じその葉が四枚に増え、パセリの縮れた葉には細かな朝露がついている。窓際の再生ニンジンは、橙色の切り口から柔らかな緑の葉を伸ばしていた。
「義太夫、櫓のお七、花柳流……」
千鶴は検索欄へ一文字ずつ入力した。変換を間違えて「やぐら」が「矢倉」になり、何度か消して打ち直した。画面には、日本舞踊の発表会を撮影した動画がいくつも表示された。
その中に、「義太夫 櫓のお七」と題された古典舞踊会の動画があった。再生ボタンを押すと、義太夫節と三味線の太い音が、小さなパソコンのスピーカーから流れ始めた。画面の舞台には雪が降り、赤い鹿の子絞りの振袖を着たお七が現れた。
「これよ」
千鶴は椅子を少し前へ動かした。銀色の帯、重たそうな振袖、雪を表す白い舞台。若いころに譜本と写真でしか見られなかった舞台が、目の前の画面で動いていた。
踊り手の後ろには、黒衣の後見がついていた。後見はお七の手首や腰へ添うように動き、腕を上げ、首を傾け、次の形へ導いていく。お七は自分で動いているのに、自分の意思を奪われた人形のように、硬く決められた動きを続けていた。
「人形振りは、こうだったのね」
千鶴は自分の右手を持ち上げた。手首の力を抜き、指先を内側へ少し曲げる。画面のお七と同じ角度にしようとしたが、肘が下がり、肩にも余計な力が入った。
若いころ、師匠から教わったのは、人形振りの基本的な形までだった。大曲を通して稽古するには、役が決まり、後見や地方と合わせる必要があった。千鶴は国立小劇場の舞台へ立つ費用を出せず、役を習う前に稽古場を離れた。
動画を一度止め、少し戻した。雪の中でお七が木戸を見つめ、吉三郎へ短刀を届ける方法を探す場面である。夜間の木戸は閉じられ、開けてもらうには、火事を知らせる早鐘を打つしかない。
「鐘を打てば、重い罪になる。それでも登るのよね」
千鶴は誰もいない椅子へ向かって言った。画面の下には再生時間を示す赤い線があり、先へ進んでは止まり、千鶴が戻すたびに同じ場面を繰り返した。机の横では、洗ったばかりの台所用布巾が椅子の背に掛かり、まだ水を含んで重く垂れていた。
「朝から、何を鳴らしているんだ」
浩司が二階から下りてきた。紺色のジャージに白い肌着を着て、寝癖のついた髪を掻いている。義太夫の声を聞くと眉を寄せ、テレビのリモコンを探した。
「『櫓のお七』です」
「演歌か?」
「義太夫です」
「朝から唸り声を聞かせるなよ。テレビが聞こえないだろう」
「テレビは、まだついていません」
「これから見るんだ」
浩司はテレビの電源を入れ、朝の情報番組へ切り替えた。料理の特集が始まり、若い女性が作る肉じゃがを出演者が褒めている。千鶴はパソコンの音量を一つ下げたが、動画を止めなかった。
「イヤホンを使えよ」
「動きを見ながら踊るので、コードが邪魔になります」
「踊る? ここで?」
「ええ。まず手の動きだけ」
「近所に見られたら、何を言われるか分からないぞ」
浩司はカーテンを閉めようとした。千鶴はその手を止めず、パソコンを窓から見えにくい位置へ動かした。三十五年前なら、その場で動画を止め、浩司が会社へ行ってから一人で見るところだった。
「見られて困ることはしていません」
「六十歳の女が、台所で人形のまねをしているんだぞ」
「日本舞踊です」
「本物の先生に習っているわけでもないだろう。動画を見ただけで踊れると思っているのか」
「思っていません。だから学んでいるのです」
千鶴は画面を止め、台所へ向かった。朝食には昨日の蕪の葉と油揚げの煮物、焼いた厚揚げ、豆腐の味噌汁を用意している。浩司の分は作っていなかったが、煮物は多めに残っていた。
「朝飯は?」
「冷蔵庫に煮物があります」
「また自分で用意しろと言うのか」
「ええ」
「動画を見る時間があるなら、目玉焼きくらい作れるだろう」
「あなたにも、テレビを見る時間があります」
「俺は三十五年働いたんだぞ」
「私は、まだ卒業していなかったのですね」
浩司は冷蔵庫から煮物の容器を出した。蓋を外さず、そのまま電子レンジへ入れようとしたため、千鶴は破裂するとだけ教えた。浩司は面倒そうに蓋をずらし、加熱時間を三分に設定した。
容器の中で煮汁が沸騰し、蕪の葉が端へ寄った。取り出した浩司は熱さに驚き、容器をテーブルへ落とした。煮汁が少しこぼれ、昨日の新聞の天気予報欄へ丸い染みを作った。
「熱いなら、先に言ってくれ」
「温めれば熱くなります」
「お前は最近、何を言っても嫌みだな」
「普通のことを申し上げています」
千鶴は自分の厚揚げへ、おろし生姜と分葱を載せた。浩司は薬味を使わず、煮物だけを食べている。味噌汁は冷め始め、表面に薄い膜が浮いていた。
食後、千鶴は動画を最初から再生した。今度は古い稽古着を取り出し、赤い半幅帯を締めた。舞台衣装の緋鹿子には遠く及ばないが、帯を締めると背筋の位置が変わった。
「その着物、まだ持っていたのか」
浩司は食器を流しへ置きながら尋ねた。洗わずに戻ってきたため、椀の底にはわかめが一枚張りついている。千鶴は帯の結び目を背中へ回し、襟元を鏡で確かめた。
「稽古着です。母が縫ってくれました」
「黴臭いぞ」
「長くしまっていましたから。あとで陰干しします」
「そんな古いものは捨てて、新しい浴衣でも買えばいいだろう」
「これは母の縫い目が残っています」
千鶴は袖口を裏返した。細かな針目がまっすぐ並び、糸の端が一か所だけ少し飛び出している。母は店が終わったあと、厨房の隅でこの稽古着を縫ってくれた。
画面では、お七が人形振りで進み始めた。千鶴は右足を半歩出し、腰を落とした。画面へ目を向け、踊り手の腕が動く直前に動画を止めた。
「ここで、首を先に動かしてはいけないのよ」
「誰に説明しているんだ」
「自分にです」
「動画を止めていたら、音と合わないだろう」
「最初から音に合わせる必要はありません。形を覚えてからです」
浩司は文句を言いながらも、ソファへ座った。テレビは消され、リモコンは新聞の上に置かれている。千鶴は再生と停止を繰り返し、腕、首、足の順番を確認した。
後見に支えられたお七が、硬い動きで櫓へ向かう。自分の意思で走り出したいのに、人形の身体は一つずつ決められた形を通らなければ前へ進めない。千鶴は真似ようとしたが、左足を出すところでよろけ、食卓の椅子へ手をついた。
「ほら、危ない」
浩司が立ち上がり、千鶴の腕をつかんだ。千鶴は転ばずに済んだが、浩司の指が稽古着の袖を強く引いた。古い糸が小さく鳴り、袖口が二センチほど裂けた。
「離してください」
「支えてやったんだぞ」
「分かっています。でも、袖が裂けました」
「そんな古い布、少しくらいいいだろう」
「私にはよくありません」
浩司は手を離した。千鶴は針箱を出し、母が縫った糸に近い赤い糸を探した。針穴へ糸を通すため眼鏡をかけると、浩司は気まずそうに裂けた袖を見た。
「悪かったよ。転ぶと思ったから」
「ええ。支えてくれたことには、お礼を言います」
「だったら、そんな顔をするな」
「私は、どんな顔をしていますか」
「昔のことを全部、俺のせいにするような顔だ」
千鶴は糸を通し、袖口を細かく縫った。母の針目と同じ幅にはならず、新しい糸だけが少し浮いて見えた。浩司はソファへ戻ったが、テレビをつけなかった。
「全部、あなたのせいだとは思っていません」
「そうだろう。お前だって自分で稽古をやめたんだから」
「ええ。私が決めました」
「では、今さら俺を責めるな」
「責めているのではありません。なぜ、私はやめることしか考えなかったのか、確かめているのです」
「金がかかったからだろう」
「お金だけなら、舞台へ出ずに稽古を続ける方法を探せたかもしれません」
「付き合いがあるから難しいと言っていたじゃないか」
「難しいことと、できないことは同じではありません」
袖を縫い終えると、千鶴は糸を切った。小さな糸屑が畳へ落ちたため、指先で拾って針箱へ入れた。昔から、針仕事のあとは糸屑を残さないよう母に言われていた。
「動画で覚えるなら、金はかからないのか」
「見るだけなら、通信費だけです」
「後見もいないし、衣装もないだろう」
「今は、舞台へ出るために踊るのではありません」
「では、何のためだ」
「私が、お七を踊りたかったからです」
浩司は口を閉じた。千鶴はパソコンへ戻り、動画の続きを再生した。義太夫の声が居間へ流れ、画面の雪が赤い振袖へ降り続けた。
お七は木戸が開かないと知り、櫓へ向かう。鐘を打てば重い罪になる。それでも吉三郎へ短刀を届けるため、黒塗りの梯子へ手をかける。
千鶴は椅子の背を梯子に見立て、手を添えた。実際に上ることはせず、足の運びと袖の扱いだけを繰り返す。右手を上げ、左手で袖を押さえ、一段ずつ櫓へ近づく身体を作った。
「お七は、どうして鐘を鳴らすんだ」
浩司が尋ねた。千鶴は画面を一度止め、椅子の背から手を離した。台所では、浩司が流しへ置いた味噌汁椀から、冷めた出汁の匂いがしていた。
「夜の木戸を開けてもらうためです。恋人へ大切な短刀を届けなければならないの」
「鐘を鳴らしたら、どうなる」
「火事でもないのに早鐘を打てば、重い罪になります」
「そこまでして、男を助けるのか」
「ええ」
「ずいぶん馬鹿な女だな」
浩司はそう言い、鼻で笑った。千鶴はすぐには言い返さず、画面の赤い振袖を見た。自分も三十五年間、夫のために何かを差し出す女性を立派だと思ってきた。
「そうかもしれません。でも、お七は自分で鐘を鳴らすと決めました」
「人形振りなのに?」
「舞台では人形のように動きます。でも、鐘を鳴らすと決めたのは、お七自身です」
「その結果、罰を受けるんだろう」
「ええ。だから、ただの美しい恋の話ではないと思います」
千鶴は椅子の背へもう一度手を置いた。誰かのために命を差し出すことを、女の美しさとして褒めるだけでは足りない。そこまでしなければ木戸が開かなかったことも、鐘を鳴らす以外の道を誰も用意しなかったことも考えなければならなかった。
「私は、あなたのために鐘を鳴らしていたのかもしれません」
「何の話だ」
「あなたが困る前に、私が動きました。子どもが熱を出しても、親が倒れても、家計が足りなくても、家の外へ聞こえないように処理しました」
「家族なら当然だろう」
「当然だったから、あなたには聞こえなかったのですね」
千鶴は再生ボタンを押した。画面のお七が櫓を上り、半鐘を打ち鳴らす。義太夫と三味線の音が重なり、パソコンの小さなスピーカーが震えた。
浩司は音がうるさいとは言わなかった。腕を組み、画面と千鶴を交互に見ていた。妻が自分の知らない物語を知り、自分の知らない手の動きを持っていることを、ようやく確かめているようだった。
動画が終わると、居間は急に静かになった。庭から雀の声が聞こえ、冷蔵庫のモーターが低く鳴っている。千鶴は画面を最初へ戻したが、すぐには再生しなかった。
「もう一度見るのか」
「ええ。今度は、後見の手も見ます」
「お前一人では、人形振りにならないだろう」
「地域活動センターで、手伝ってくださる方を探します」
「知らない人に、後ろから身体を持たせるのか」
「稽古ですから」
「俺がやってもいいぞ」
千鶴は浩司を見た。浩司は自分でも意外なことを言ったらしく、鼻の下を指でこすった。食卓には焦げたパン屑が残り、灰色のスウェットには昨日の卵の染みがついている。
「あなたが?」
「ただ支えるだけだろう。動画を見れば、俺にもできる」
「後見は、踊り手の動きを知っていなければできません」
「では、一緒に見ればいい」
「どうして、手伝おうと思ったのですか」
「お前が転んだら、俺が困るからだ」
千鶴は返事をせず、パソコンの蓋を閉じた。浩司の申し出は、千鶴が踊りたいからではなく、自分が困らないためだった。支えると言いながら、妻の身体を自分の都合で止めるところは、三十五年前から変わっていなかった。
「今日は、ここまでにします」
「せっかく俺が手伝うと言っているのに」
「自分で立てるところまで練習してから、必要な方へお願いします」
「夫より、知らない人を頼るのか」
「私のやりたいことを、役に立つかどうかで決めない人に頼みます」
千鶴は稽古着を脱ぎ、母の針目が残る袖を丁寧に畳んだ。窓際の再生大根へ水を足し、伸びすぎたミントの先を二枚摘んだ。昼にはミントを入れた紅茶と、昨日買った桜餅を食べるつもりだった。
机の引き出しを開けると、地域活動センターでもらった生活相談の案内が入っていた。裏面には、離婚、財産分与、年金分割について相談できる窓口の電話番号が載っている。千鶴は紙を取り出し、パソコンの横へ置いた。
「今度は、何を調べるんだ」
「卒婚についてです」
「卒婚なら、もう始めているだろう」
「あなたの考える卒婚ではなく、私が妻を卒業する方法です」
「離婚するつもりか」
「それを自分で決めるために、相談します」
浩司は立ち上がった。千鶴が冗談を言っているのか確かめるように顔をのぞき込んだが、彼女は目をそらさなかった。窓の外では木瓜の赤い花が風に揺れ、一枚の花びらが湿った土へ落ちた。
「俺は離婚するなんて言っていないぞ」
「ええ。あなたは自由になり、私は家で待つように言いました」
「それでいいじゃないか。お前も好きなことを始めればいい。踊りだって、バイクだって、好きにすればいいだろう」
「夕食までに帰り、あなたの食事を作り、旅行へ出たあなたの帰りを待ちながら?」
「夫婦なんだから、それくらい当然だ」
「私は、もう当然という言葉だけでは動きません」
千鶴は相談窓口へ電話をかけた。呼び出し音が鳴る間、指先が冷たくなり、受話器を持つ手に力が入った。それでも電話を切らず、相手が出るのを待った。
「暮らしと法律の相談窓口です」
女性の落ち着いた声が聞こえた。千鶴は一度息を吸い、机の上の扇子と、画面の中で止まっているお七を見た。浩司は食卓のそばに立ち、朝の食器をまだ流しへ残していた。
「卒婚をすると夫から言われました。けれど、夫が考える卒婚と、私が望む暮らしは違います。財産分与と年金分割について、相談したいのです」
電話の向こうで、予約できる日時が読み上げられた。千鶴は家事ノートの新しい頁を開き、自分の予定として日付を書いた。これまでの頁には家族の通院や浩司の出張ばかりが並んでいたが、その日の欄には、初めて自分のためだけの相談予定が記された。
電話を切ると、千鶴はもう一度動画を再生した。画面のお七は、黒衣に支えられながら櫓へ向かっていた。千鶴は椅子の背へ触れず、自分の足で畳の上へ立った。
「今度は、誰かに動かされる練習ではありません」
「では、何の練習だ」
「自分で止まり、自分で進む練習です」
千鶴は画面に合わせ、右手をゆっくり上げた。浩司は返す言葉を見つけられず、冷めた味噌汁の椀を流しへ運んだ。窓際では、切り落とされて一度は捨てられるはずだったニンジンから、柔らかな葉が何本も伸びていた。




