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第8話 憧れのお七

第8話 憧れのお七


 地域活動センターの邦楽サークルを見学した翌朝、千鶴は食卓へ文京区の案内図を広げた。赤い椿のカップにはミルクティーが入り、隣には蜂蜜を塗った厚切りトーストが載っている。窓際のミントは朝日に向かって葉を広げ、植え替えたばかりのにんにくスプラウトから細い芽が伸びていた。


 案内図の中央には、都営三田線の白山駅が記されていた。駅から歩いて一分ほどのところに、天台宗の寺院である円乗寺がある。その境内に、八百屋お七の墓があると書かれていた。


「こんなに近かったのね」


 千鶴は食べかけのトーストを皿へ戻した。八百屋お七は、遠い時代の物語の中にしかいないと思っていた。自分が何度も通った三田線の駅から、少し歩けば会いに行ける場所に眠っているとは知らなかった。


 若いころ、千鶴は日本舞踊の師匠から、『八百屋お七』を人形振りで踊る舞台の話を聞いた。人形振りでは、踊り手が人形遣いに操られる人形のように、首や腕を決められた角度で動かす。生身の人間が自分の意思を隠し、糸で引かれているように見せるため、通常の踊りとは違う身体の使い方が必要だった。


「お七を踊るなら、人形振りをしてみたいです」


 二十代の千鶴は、稽古場で師匠へそう言った。藤色の稽古着へ白い帯を締め、右手には赤い稽古扇を持っていた。汗で足袋の裏が湿り、畳には白檀と鬢付け油の匂いが染みついていた。


「あなたは、お七が好きなのですか」


 師匠は三味線の撥を膝へ置いた。床の間には、弟子から届いた牡丹の花が飾られている。千鶴は扇子を閉じ、両手を畳へついた。


「火の見櫓の場面を踊ってみたいんです。振袖を着て、黒塗りの梯子を上がって、半鐘を打つところを」


「人形振りは、ただ動きを固くすればいいものではありませんよ。自分で動いているのに、自分では動けないように見せるのです」


「難しいから、やってみたいです」


「お七を勤めるなら、衣装も鬘も人形振りの後見も必要です。国立小劇場で出すとなれば、簡単な金額では済みません」


「どれくらいですか」


「『藤娘』や通常の発表会とは桁が変わります。三百万円を見ておかなければならないでしょう」


 千鶴は返事をせず、扇子の骨を一本ずつ指で確かめた。三百万円は、習いたいという気持ちだけで払える金額ではない。師匠との付き合いがあれば、舞台へ出ないと言うことも簡単ではなかった。


「お月謝もすさまじいと思っていましたけれど、舞台はもっとすさまじいですね」


 千鶴が言うと、師匠は口元を緩めた。隣室では、年下の弟子が足袋を履き替え、留め金を床へ落とした。小さな金属音が響き、師匠はそちらを一度見てから千鶴へ向き直った。


「だから、よく考えておきなさい。ただし、踊りたいと思った役を、値段だけで忘れる必要はありません」


「いつか、踊れるでしょうか」


「芸事の『いつか』は、待っているだけでは来ませんよ」


 千鶴は、その言葉を長く覚えていた。しかし結婚すると、『藤娘』の六十万円さえ浩司に認めてもらえなかった。三百万円かかる『八百屋お七』を踊りたいとは、一度も口にできなかった。


 千鶴は案内図を畳み、固定電話の横へ置いた。玄関から浩司の靴を磨く音が聞こえている。浩司は旅行で汚れた革靴へ、古い靴墨を厚く塗っていた。


「今日は、どこへ行くんだ」


 浩司が居間へ入ってきた。灰色のポロシャツに紺色のズボンをはき、片手には黒く汚れた布を持っている。千鶴は皿に残ったトーストを食べ終え、椿のカップを流しへ運んだ。


「文京区の円乗寺です」


「寺へ何をしに行く」


「八百屋お七のお墓があります」


「誰かの命日か?」


「お七です。昔、踊ってみたかった役なの」


「踊ったのか」


「踊れませんでした」


「では、今さら墓へ行ってどうするんだ」


「行ってみたいから行きます」


 浩司は靴墨のついた布を、新聞紙の上へ置いた。指先にも黒い色がついていたが、食卓の布巾で拭こうとしたため、千鶴は靴磨き用の布を指さした。浩司は何か言いたそうにしたが、自分で布を取り直した。


「俺の昼飯は?」


「冷蔵庫に蕪の葉と油揚げの煮物があります。ご飯は冷凍してあります」


「寺へ行くために、夫を置いていくのか」


「あなたも北陸へ行ったでしょう」


「あれは卒婚の旅行だ」


「今日は、卒婚した妻の外出です」


 千鶴は深い赤色のブラウスに着替え、黒いパンツをはいた。首には山吹色のスカーフを巻き、鞄には文庫本の『日本婦道記』と、八百屋お七について書かれた案内を入れた。日本舞踊の扇子も持っていこうとしたが、墓参りに扇子は必要ないと思い、机へ戻した。


 玄関を出ようとすると、門の前に妙が立っていた。薄桃色のパーカーにジーンズを合わせ、肩には大きな布鞄を掛けている。中には孫の水筒と、熊の絵がついた菓子袋が見えた。


「お母さん、お父さんから電話が来たんだけど」


「何と言っていたの?」


「お母さんが家事をしなくなったって。バイクの免許を取るとか、昔の扇子を出してきたとか、様子がおかしいって言うのよ」


「私は昨日まで、おかしくない妻だったのね」


 千鶴が靴の踵を直すと、妙は口を閉じた。玄関には浩司が磨いたばかりの靴が置かれ、靴墨の匂いが残っている。花瓶の百合は最後の一輪になり、茶色くなった花びらが靴箱へ垂れていた。


「ごめん。お父さんの言い方を、そのまま言ってしまった」


「いいのよ。これから円乗寺へ行くの。八百屋お七のお墓参り」


「お七って、火事の人?」


「そう呼ばれることが多いわね」


「私も行っていい?」


「家のことは大丈夫なの?」


「夫が子どもと昼ご飯を食べるって。お母さんと違って、私は頼んできたから」


 妙はそう言って笑った。千鶴は自転車で行く予定を変え、娘と一緒に地下鉄へ乗ることにした。浩司へは説明せず、玄関の鍵を閉めた。


 都営三田線の車内は、昼前でも座席の半分ほどが埋まっていた。千鶴と妙は並んで座り、向かい側にいる白髪の夫婦を見た。夫が路線図を指さすと、妻は老眼鏡を外し、窓の外へ顔を向けた。


「お父さんと旅行へ行きたかったんだって?」


 妙は膝の上へ布鞄を置き、声を落として尋ねた。袋の中で水筒が転がり、金属の鈍い音がした。千鶴はドアの上にある停車駅の表示を見た。


「お父さんから聞いたの?」


「うん。日帰りならつきあってやると言ったのに、お母さんが断ったって」


「つきあってもらいたかったのではないの。一緒に行きたかったのよ」


「何が違うの?」


「お父さんも私と行きたいと思っていることが、私には必要だったの」


 妙はすぐには答えなかった。電車が駅へ止まると、ベビーカーを押した女性が乗ってきた。千鶴は席を譲ろうとしたが、隣が空いているから大丈夫だと言われ、もう一度座り直した。


「お母さん、日本舞踊をしていたんでしょう」


「ええ」


「お琴も?」


「ピアノも、民謡も、長唄も、常磐津も清元も鳴り物も習いました」


「そんなに?」


「お月謝が、すさまじいでしょう」


「そこ?」


 妙が吹き出し、千鶴も口元を緩めた。前に座った幼い男の子が二人を見て、一緒に笑った。母親に何がおかしいのと尋ねられ、男の子は分からないと首を振った。


 白山駅を出ると、細い道には春の日が差していた。植木鉢に咲く紫色のパンジー、店先のチューリップ、塀の上から垂れる雪柳が続いている。円乗寺までは歩いてすぐだったが、千鶴は案内図を三度確かめた。


「お母さん、こっちで合っているよ」


「初めての場所では、間違えないように何度も見る癖があるの」


「誰かに怒られるから?」


「間違えたら、家へ帰るのが遅くなるからよ」


 円乗寺の境内へ入ると、町の音が少し遠くなった。石畳の脇には椿の花が落ち、赤い花びらの上へ細かな砂がついている。線香の煙と湿った石の匂いが、風に乗って流れてきた。


 本堂の左手前には、大きな屋根をかけられた三基の墓が並んでいた。中央の墓は当時の住職が建て、右はおはお七を演じた歌舞伎役者の岩井半四郎、左は町内の人々が供養のために建てたものだと案内に記されている。千鶴は三基の前に立ち、鞄から小さな数珠を出した。


「三つもあるのね」


 妙は墓の前へ花を供えた。途中の花屋で買った白い菊と赤いカーネーションである。千鶴は赤い花を一本入れてほしいと頼んでいた。


「一人のお七を、たくさんの人が覚えていたのでしょうね」


「お母さんは、どうしてお七を踊りたかったの?」


「人形振りをしてみたかったの」


「人形振り?」


「人形遣いに操られる人形のように踊るの。自分で腕を上げているのに、自分の意思では動いていないように見せるのよ」


「難しそう」


「難しいわ。首の角度も、肘の曲げ方も、指の先まで決められています。勝手に動いてはいけないの」


 千鶴は自分の右腕を少し持ち上げた。師匠から教わった角度で肘を止め、手首から先だけを落とす。三十五年踊っていないのに、腕は人形の形を覚えていた。


「できるじゃない」


「形だけです。音も後見もないから、踊りにはなりません」


「でも、お母さんの手、さっきまでと全然違った」


 妙は母の指先を見た。千鶴は腕を下ろし、赤いブラウスの袖口を整えた。若いころより関節は太くなり、指を伸ばすと少し曲がっている。


「人形振りのお七は、誰かに動かされているように見えます。でも、踊っている人は、自分の身体を誰より細かく動かしているの」


「動かされているように見せるために、自分で動くの?」


「そうよ」


「お母さんみたいだね」


 千鶴は妙を見た。娘は墓へ向き直り、線香の煙を目で追っている。春の風が吹くたび、千鶴の山吹色のスカーフが肩からずれた。


「私みたい?」


「お父さんに合わせているように見えたけど、家の中を全部動かしていたのは、お母さんだったでしょう」


「そうだったのかしら」


「少なくとも、今のお父さんは自分の夕飯も動かせていないよ」


 妙が言うと、千鶴は声を出して笑った。墓参りの場所で笑ってはいけないと思い、慌てて口元を手で覆った。近くで掃除をしていた女性がこちらを見たが、少し笑ってから箒を動かし始めた。


 千鶴は墓の前で手を合わせた。舞台のお七が半鐘を打つ姿、黒塗りの梯子、赤い振袖、人形遣いに支えられて動く腕を思い浮かべた。三百万円を払って舞台へ立ちたかったのではなく、その役を自分の身体で生きてみたかったのだと、今になって分かった。


「踊りたかったです」


 千鶴は墓へ向かって口にした。誰にも許可を求めず、金額の説明もせず、家計に役立つかどうかも考えなかった。短い言葉だったが、三十五年間、夫にも娘にも話したことがなかった。


 墓参りを終えると、二人は白山駅近くの蕎麦屋へ入った。千鶴は鴨南蛮、妙は天ぷら蕎麦を頼んだ。卓上には七味唐辛子の容器と欠けた爪楊枝入れが置かれ、厨房から胡麻油と濃い出汁の匂いが流れてきた。


「お母さん、もう一度日本舞踊を始めるの?」


 妙は海老の天ぷらの衣を少しずつ剝がしながら尋ねた。千鶴は鴨肉を一枚食べ、葱の焦げたところを噛んだ。濃い汁が、冷えた身体へゆっくり入っていった。


「発表会へ出るには、お金がかかります」


「また、お金の話?」


「大事なことよ。『八百屋お七』なら、当時でも三百万円くらい必要でした」


「三百万円?」


「衣装、鬘、顔師、地方の先生方への謝礼、後見、会場費。人形振りなら、一人では舞台を作れませんから」


「それは確かに、すさまじいね」


「でしょう?」


 二人は顔を見合わせて笑った。千鶴は七味唐辛子を多めに振り、浩司が嫌うほど辛くした。鼻へ抜ける香りに目を細め、水を一口飲んだ。


「でも、舞台へ出なくても踊れるでしょう」


 妙の言葉に、千鶴は箸を止めた。稽古は舞台へ出るためのものだと、長く思っていた。付き合いを断れず、高額な発表会へ出られないなら、稽古そのものをやめるしかないと決めていた。


「誰に見せるの?」


「自分に。地域活動センターの部屋を借りてもいいし、家で手だけ動かしてもいい。私が動画を撮ってもいいよ」


「人形振りを、台所で?」


「再生大根の前で踊ればいいじゃない」


「お七が大根を背負っているみたいになるわね」


 千鶴は鴨南蛮の汁をもう一口飲んだ。完璧な衣装も、国立小劇場も、師匠や大勢の客もいない。それでも扇子を開き、音に合わせ、自分の足で立つことはできるかもしれなかった。


 帰宅すると、浩司は居間でテレビを見ていた。食卓には、冷凍ご飯を温めた容器と、蕪の葉の煮物を食べた小鉢が残っている。流しには茶碗が置かれ、蛇口から水が一滴ずつ落ちていた。


「ずいぶん遅かったな」


「お蕎麦を食べてきました」


「妙も一緒だったのか」


「ええ。お七のお墓へ行きました」


「墓を見て、面白かったのか」


「面白いかどうかで行ったのではありません」


「では、何をしに行ったんだ」


「踊りたかったと、言いに行きました」


 浩司はテレビから目を離し、千鶴を見た。何を言っているのか分からないという顔だった。千鶴はその顔を見ても、説明を足さなかった。


「六十歳になって、墓に向かって踊りたいなんて言ったのか」


「ええ」


「お前は、そんな女だったか?」


「あなたが知らなかっただけです」


 千鶴は鞄から日本舞踊の扇子を取り出した。台所の窓辺には、再生大根、再生ニンジン、ミント、にんにくスプラウトが並んでいる。その前へ立ち、赤い椿のカップを端へ移して、腕を動かす場所を作った。


「そこで何をするんだ」


「少しだけ、思い出します」


「夕飯は?」


「冷蔵庫に卵があります」


「また卵か」


「お好きなものを、ご自由に」


 千鶴は扇子を右手で開いた。金地に描かれた藤の花が、台所の蛍光灯を受けて光った。右腕を持ち上げ、肘を止め、手首から先を人形のように落とした。


 浩司は、テレビの音量を下げた。三十五年間一緒に暮らした妻が、どんな手で扇子を開き、どんな角度で首を傾けるのか、初めて見る顔をしていた。千鶴は夫の視線を確かめず、師匠から教わった順番を、自分の身体へ一つずつ尋ねた。


「人形は、動かされているように見えるのよ」


「実際は違うのか」


「ええ。踊り手が、自分で全部動かしています」


「それなら、人形ではないだろう」


「そうね。最初から、人形ではなかったのかもしれません」


 千鶴は扇子を閉じた。窓際の再生大根には、朝より小さな葉が一枚増えているように見えた。浩司は何も言わず、冷蔵庫から卵を取り出したが、今度は千鶴へ焼き方を尋ねなかった。


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