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第7話 一緒に行きたかった

第7話 一緒に行きたかった


 翌朝、千鶴は日本舞踊の扇子を食卓へ置いたまま、庭の鉢へ水をやった。夜の間に風が吹いたらしく、青じその小さな葉には、隣の木瓜から落ちた赤い花びらが一枚貼りついている。千鶴は指先で花びらを取り、土の上へそっと置いた。


 台所へ戻ると、浩司が焦がしたフライパンは流しに残っていた。重曹を入れた湯は冷え、黒い焦げがところどころ浮いている。浩司は二階で眠っており、閉めた襖の向こうから規則正しいいびきが聞こえた。


 千鶴は自分のために味噌汁を温めた。昨夜の残りなので、わかめは膨らみすぎ、豆腐の角も崩れている。庭から切った分葱を浮かべ、冷凍していた筍ご飯を電子レンジへ入れた。


 椅子へ座ると、向かい側の席に浩司の空になったビール缶が置かれていた。飲み口には乾いた泡の跡がつき、缶の底から麦の匂いが残っている。千鶴は片づけず、自分の味噌汁へ箸を入れた。


「どうして、こんなに胸が重いのかしら」


 口にしてから、千鶴は窓の外を見た。教習所へ相談の予約を入れ、日本舞踊の扇子も三十五年ぶりに開いた。浩司の食事や荷造りを断り、自分の好きな味も少しずつ取り戻している。


 それなのに、胸の内側には、濡れた毛布を詰められたような重さがあった。昨夜は布団へ入っても眠れず、時計が一時、二時と進むのを見ていた。隣の布団で眠る浩司の背中へ何度か目を向けたが、声はかけなかった。


「自由になれるのに、どうして眠れなかったの」


 千鶴は味噌汁を一口飲んだ。温め直した汁は少し煮詰まり、いつもより塩辛い。水を足しに立つ気になれず、豆腐だけを箸ですくった。


 食後、千鶴は食器棚の下から家事ノートを出した。旅行に必要な持ち物だけではなく、家族の予定や、いつか行きたい場所も余白へ書き込んでいた。頁をめくると、間から一枚の色褪せたパンフレットが落ちた。


 表紙には、春の房総半島を走る列車が写っていた。菜の花畑の向こうを二両編成の電車が走り、窓際には年配の夫婦が並んで座っている。角には、千鶴の字で「浩司さん退職後」と小さく書かれていた。


「これだったのね」


 千鶴はパンフレットを食卓へ広げた。日帰りなら一人一万円ほどで、昼食には海鮮料理がついている。歩く距離が短く、坂道も少ないことを赤い鉛筆で囲んであった。


 別の頁には、川越、鎌倉、熱海、秩父の小旅行が挟まれていた。浩司は長く歩くと膝が痛むため、駅から送迎バスのある宿を選んでいた。朝食がバイキングではなく和定食の宿、部屋に椅子がある宿、露天風呂まで階段の少ない宿には丸がついている。


 千鶴は旅先で自分が何をしたいかを書いていなかった。浩司が食べられる料理、浩司が歩ける距離、浩司が退屈しない観光地ばかりを調べていた。それでも二人で電車へ乗り、窓の外を見ながら駅弁を食べる場面を、何度も思い浮かべていた。


 三十五年間、浩司は会社の休暇を自分の都合で使った。接待ゴルフ、同僚との旅行、実家の用事が優先され、夫婦だけで出かけたのは数えるほどしかない。子どもが小さいころは家族旅行へ行ったが、千鶴は着替えと薬と菓子を鞄へ詰め、旅先でも洗濯物を干していた。


「定年になったら、時間ができるものね」


 十年前、千鶴は浩司へそう言ったことがある。食卓には鯵の開きと冷ややっこがあり、テレビでは夫婦で巡る温泉旅行が紹介されていた。浩司は大根おろしへ醤油をかけながら、画面を一度見ただけだった。


「毎日顔を合わせることになるな」


「たまには、二人で旅行へ行きましょう。遠くでなくていいの。日帰りでも、一泊でも」


「退職してから考えればいいだろう。今から予定を立てても仕方がない」


「では、行きたいところだけ考えておくわ」


「お前が決めると、寺や花ばかりになるからな。俺が退屈しないところにしてくれよ」


 千鶴は笑い、鯵の小骨を皿の端へよけた。花だけでは浩司が退屈すると思い、酒蔵見学や海鮮市場のある場所を探した。自分が見たかった美術館は、浩司が興味を示さないため候補から外した。


 五年前には、台所の引き出しへ小さな封筒を作った。表に「退職後の旅行」と書き、食費が余った月に千円、二千円と入れた。スーパーで見切り品の魚を買った日も、庭の青じそを使って薬味を買わずに済ませた日も、小銭を封筒へ移した。


 千鶴は立ち上がり、食器棚の引き出しを開けた。輪ゴム、乾電池、使いかけの蝋燭の下から、薄茶色の封筒が出てきた。角は油で少し透け、「退職後の旅行」という文字も薄くなっている。


 中には、千円札が二十八枚と五千円札が四枚入っていた。全部で四万八千円だった。日帰りなら二人で一度、一泊なら足りない分を少し加えれば出かけられると思っていた。


「こんなところに、何を隠しているんだ」


 背後から浩司の声がした。千鶴は封筒を閉じず、中身を食卓へ並べた。浩司は灰色のスウェット姿で、寝癖のついた髪を手で押さえていた。


「旅行のお金です」


「へそくりか」


「家計の残りを少しずつ貯めました」


「夫に隠して金を貯めるなんて、感心しないな」


「あなたと旅行するためでした」


 浩司は食卓のパンフレットを手に取った。房総、川越、鎌倉、熱海と順番に眺め、鼻を鳴らした。頁の端にある千鶴の小さな書き込みには、気づかなかった。


「こんな近場ばかりか」


「最初は日帰りでいいと思っていました。疲れたら、すぐ帰れますから」


「せっかく自由になったのに、日帰り旅行なんかで満足できるか。俺は北海道から九州まで回りたいんだ」


「私も一緒に行くことは、考えなかったの?」


「また、その話か。俺は一人で自由に動きたいと言っただろう」


「あなたが一人で行きたいことは分かっています」


「なら、何が言いたいんだ」


 千鶴は房総のパンフレットを浩司から受け取った。表紙の夫婦は、列車の同じ窓から菜の花畑を見ている。浩司と同じ灰色の髪をした男性が、妻へ紙のカップを渡していた。


「私は、退職したあなたと旅行へ行きたかったのです」


「今までだって、旅行へ行ったことはあるだろう」


「子どもたちと一緒にね。あなたと二人で、これからの話をしながら出かけたかったの」


「これからの話なんて、家でもできる」


「家にいると、あなたはテレビを見ます。食事が終われば二階へ上がります。私が話しかけると、明日も仕事だからとおっしゃいました」


「実際、仕事があったんだから仕方がないだろう」


「だから、退職する日を待っていました」


 千鶴は封筒の中の札を揃えた。上下を同じ向きにし、千円札と五千円札を分ける。三十五年間、家計簿の残高が合わない夜には、十円単位まで数え直してきた指だった。


「退職したら時間ができます。朝早く起きなくてもいい。帰る時刻を気にしなくてもいい。日帰りで房総へ行って、菜の花を見て、お昼にお刺身を食べるだけでもよかったのです」


「花を見るだけでは、俺は退屈だ」


「酒蔵のあるコースも探しました」


「そんなに行きたかったなら、もっと早く言えばよかっただろう」


「言いました。何度も」


「覚えていないな」


「そうでしょうね。あなたには、その場で断れば終わる話でしたから」


 浩司は冷蔵庫を開け、朝食になるものを探した。昨夜自分で焼いた卵の残りが皿に載っていたが、縁は黒く焦げ、冷えて硬くなっている。浩司は皿を一度持ち上げ、すぐ棚へ戻した。


「味噌汁はないのか」


「鍋に残っています」


「温めてくれ」


「ご自分でどうぞ」


「話をしていたら腹が減ったんだ」


「私も、話をしながら何度も夕食を作りました」


 浩司は鍋へ火をつけた。強火にしたため、冷めていた味噌汁がすぐに沸騰し、蓋の隙間から茶色い汁が吹きこぼれた。慌てて火を止めたが、豆腐はさらに崩れ、わかめが鍋肌へ張りついた。


「なんだ、これは。煮詰まっているじゃないか」


「水を少し足せば飲めます」


「こんなものを俺に食べさせるのか」


「今朝、私はそれを食べました」


 浩司は鍋を見下ろし、食パンを焼くことにした。袋から一枚取り出し、トースターへ入れる。千鶴は封筒を閉じ、パンフレットと一緒に自分の鞄へ入れた。


「その四万八千円、どうするんだ」


「私のために使います」


「教習所か?」


「それも考えています」


「俺と旅行するために貯めた金だろう」


「あなたは私と旅行したくないのでしょう」


「だからといって、勝手に目的を変えるなよ」


「私が食費を節約して貯めたお金です。あなたへ返す必要がありますか」


 浩司は答えず、トースターの中を見た。焼き時間を長くしすぎたのか、パンの表面から細い煙が出ている。千鶴が教えなければ、そのまま焦がすところだったが、今度も黙っていた。


 煙の匂いに気づき、浩司は慌ててつまみを戻した。パンを取り出すと片面が黒くなり、耳の端が崩れて床へ落ちた。浩司はナイフで黒いところを削りながら、口を曲げた。


「お前は、俺が一人で旅行することが気に入らないだけだろう」


「そうかもしれません」


「卒婚に同意したくせに、今さら被害者みたいな顔をするな」


「同意したのではありません。あなたが何を望んでいるのか、分かっただけです」


「だったら、自由にさせてくれ」


「させています。荷造りも、食事も、旅行の予約も、ご自分でできるようにしました」


「そういう嫌みを言うところが、つまらないんだ」


 浩司は焦げたパンへ厚くバターを塗った。冷蔵庫から出したばかりのバターは硬く、力を入れるたびにパンが裂けた。千鶴は落ちたパン屑を見たが、布巾を取らなかった。


「浩司さん。私がなぜ、あなたの言葉にこんなに引っかかっているのか、やっと分かりました」


「まだ何かあるのか」


「退屈だと言われたからではありません」


「では、何だ」


「私は、あなたが退職するのを待っていたのです」


 千鶴は窓辺の再生蕪へ目を向けた。白い切り口の中心から、緑の葉が三枚に増えている。水が少し濁っていたため、あとで替えようと思った。


「子どもたちが独立しても、親の介護がありました。介護が終わっても、あなたには仕事がありました。いつか二人とも何も急がなくていい日が来たら、一緒に小旅行をしたかったのです」


「そんなものが夢だったのか」


「ええ。ずいぶん小さな夢ですね」


「別に、俺が旅行から戻ってから行けばいいだろう」


「あなたは、私との三十五年が退屈だったとおっしゃいました」


「それと旅行は別だ」


「別ではありません。あなたは私と過ごす時間から自由になりたいのでしょう。そのあなたを待ちながら、私はどんな顔で切符を二枚買えばいいのですか」


 浩司は焦げたパンを噛み、味噌汁を温め直そうと鍋へ水を足した。多く入れすぎたらしく、一口飲んでから味噌を追加した。味噌は溶けきらず、椀の底へ茶色い塊になって沈んだ。


 千鶴は日本舞踊の扇子と教習所の案内を鞄へ入れた。大型バイクに乗りたい気持ちは嘘ではない。しかし夫と同じことをして勝ちたいだけではなかった。


 風を受けて一人で遠くへ行く自分と、列車の窓際で浩司と弁当を分ける自分が、胸の中に並んでいた。どちらか一方が偽物なのではない。自分の自由が欲しいことも、夫と一緒に年を取りたかったことも、どちらも千鶴の本音だった。


「今日は、どこへ行くんだ」


「地域活動センターです」


「教習所ではないのか」


「邦楽の集まりがあると聞きました。見学だけしてきます」


「夕飯までには帰るんだろうな」


「帰ります。でも、あなたの夕食は作りません」


 千鶴は山吹色のスカーフを首へ巻き、玄関へ向かった。靴箱の上では、退職祝いの百合が花びらを一枚落としていた。水を替えると、茎の切り口から青い匂いが立った。


「千鶴」


 浩司が珍しく名前を呼んだ。千鶴は靴を履いたまま振り返った。浩司は食卓に立ち、冷めた味噌汁の椀を両手で持っていた。


「日帰りなら、そのうち行ってもいいぞ」


「私が行きたかったのは、退屈しのぎにつきあってくださる旅行ではありません」


「では、どうしろと言うんだ」


「今は、私にも分かりません」


 千鶴は玄関の扉を開けた。外には春の光が広がり、近所の庭では雪柳の白い花がこぼれるように咲いている。自転車の籠には、房総の旅行パンフレットと、三十五年前の扇子を入れた。


 地域活動センターへ向かう途中、駅前の旅行代理店で足を止めた。窓には、房総の菜の花、秩父の芝桜、熱海の海を写した広告が並んでいる。千鶴は二人分の代金を計算する癖で数字を見たあと、一人参加の欄を探した。


「一人でも、行けるのよね」


 ガラスに映った千鶴は、山吹色のスカーフを巻き、古い自転車を押していた。その隣に浩司の姿はない。千鶴はすぐに旅行を申し込まず、パンフレットを一部だけ持ち帰ることにした。


 自分が欲しかったものを知ったからといって、すぐ手に入るわけではなかった。三十五年待った時間も、二人で行くつもりだった旅行も、なかったことにはできない。それでも、欲しかったと言葉にしたことで、胸の中の重いものには、ようやく名前がついた。


「私は、あなたと一緒に行きたかったのよ」


 千鶴は誰も座っていない駅前のベンチへ向かって、小さく言った。ベンチの下には、誰かが落とした桜色のハンカチが風に揺れている。千鶴はそれを拾って駅員へ届けてから、地域活動センターへ向かって自転車を押し始めた。


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