第6話 梅は咲いても、私は踊らなかった
第6話 梅は咲いても、私は踊らなかった
浩司が焦がしたフライパンを流しへ残したまま二階へ上がると、千鶴は食卓に古い料理ノートを置いて、一人で洗い物を始めた。卵の焦げは黒く固まり、スポンジでこすっても簡単には落ちなかった。窓際では再生蕪の中心から新しい葉が二枚のぞき、庭の木瓜には夕方の雨粒が残っていた。
千鶴は焦げたフライパンへ重曹と湯を入れ、そのまま一晩置くことにした。以前なら浩司が寝ている間に新品のように磨き、朝には何もなかったことにしていただろう。失敗の痕跡を消してもらえば、失敗した本人は、自分が何も失敗していないと思う。
「これも明日、自分で洗ってもらいましょう」
千鶴は自分の食器だけを洗い、赤い椿の深鉢を柔らかな布巾で拭いた。鯛の蕪蒸しに使った蒸し器は、水気を残さないよう火にかけて乾かした。鍋底が温まる匂いに混じって、二階から浩司が缶ビールを開ける音が聞こえた。
食器棚の下へ料理ノートを戻そうとすると、その奥に薄い文庫本が挟まっていた。表紙は日に焼け、背の文字がところどころ薄くなっている。千鶴が引き出すと、細かな埃が舞い、鼻の奥へ乾いた紙の匂いが入った。
山本周五郎の短編連作集『日本婦道記』だった。若いころに何度も読み、結婚後も台所の隅へ置いていた本である。途中には、梅の花を印刷した古い栞が挟まっていた。
「『梅咲きぬ』……」
千鶴は椅子へ座り、栞のある頁を開いた。何事にも優れた力を示す加代が、一つの芸を極める手前で、姑からやめるよう言われる話だった。若い千鶴は、家を守り夫を支えるためには、自分の才能を極めず、平凡な妻になることも必要なのだと受け取った。
頁の端には、鉛筆で細い線が引かれていた。線の横には、若い千鶴の字で「家庭を持ったら心を散らさない」と書いてある。その文字の上には、味噌汁をこぼしたらしい薄茶色の染みが広がっていた。
千鶴は本を膝へ置き、押し入れからもう一つの箱を出した。中には日本舞踊の発表会の筋書き、長唄の譜本、舞台写真が入っている。薄紙に包まれた扇子を開くと、金地に描かれた藤の花が、三十五年ぶりに光を受けた。
千鶴が日本舞踊を始めたのは、まだ小学校へ入る前だった。母に手を引かれて稽古場へ行き、白足袋の履き方から習った。畳には師匠が焚いた白檀の香りが染み、冬でも稽古が始まると、襦袢の背中へ汗がにじんだ。
「千鶴ちゃん、首だけ先へ向けてはいけません。目を送り、それから顔を向けるのですよ」
師匠は扇子の先で、千鶴の顎の位置を直した。幼い千鶴は言われた意味が分からず、何度も顔だけを動かした。できるまで繰り返すうちに、やがて音が鳴れば考えなくても身体が動くようになった。
小学生になると琴とピアノも習った。少し大きくなってからは、民謡、長唄、常磐津、清元、鳴り物にも通った。曜日ごとに稽古鞄が違い、玄関には譜本、扇子、琴爪、撥を入れた袋が並んだ。
「今日は何のお稽古?」
料理屋の仲居から尋ねられるたび、千鶴は指を折って予定を確かめた。月曜日は日本舞踊、火曜日はピアノ、木曜日は琴、土曜日は長唄だった。発表会が近づけば、日曜日にも師匠の家へ通った。
「今日は鳴り物。明日は清元よ」
「千鶴ちゃんの一週間は、板場の献立より詰まっているねえ」
「でも、どれも好きなの」
稽古は嫌ではなかった。三味線の音へ声を重ねることも、扇子の角度一つで娘の年齢や身分を表すことも面白かった。鼓の革へ指が正しく当たり、乾いた音が稽古場に響いた日は、帰り道でも何度も指を動かした。
ただし、月謝は一つでは済まなかった。通常の月謝のほかに、師匠への季節の挨拶、発表会の参加費、衣装、鬘、顔師、地方への謝礼がかかる。母が帳場で封筒を並べているところを見ても、幼い千鶴には金額の重さが分からなかった。
「お母さん、お稽古ってお金がかかるの?」
千鶴が尋ねると、母は帳面から顔を上げた。算盤の横には、仕入れ先から届いた請求書と、師匠へ渡す月謝袋が積まれていた。母は赤鉛筆を耳へ挟み、少し考えてから笑った。
「すさまじくかかります」
「すさまじく?」
「ええ。でも、千鶴が好きで続けているうちは、お父さんも私も働きます」
「では、私は一生懸命お稽古する」
「そうしなさい。ただし、芸はお金をかけた分だけ上手になるわけではありませんよ」
母はそう言い、帳場の奥から蜜柑を一つ出した。皮には少し傷があり、店の客へは出せないものだった。千鶴は母と半分ずつ食べ、月謝袋の多さを見ながら、酸っぱい房を口の中で噛んだ。
二十代になると、千鶴は国立小劇場で行われる発表会へ出ないかと声をかけられた。演目の候補に挙がったのは『藤娘』だった。衣装、鬘、顔師、地方、舞台の費用を合わせると、六十万円ほど必要だと言われた。
「六十万円……」
稽古場の控室で金額を聞き、千鶴は膝の上の手拭いを握った。隣では先輩の弟子が帯を締め直し、廊下には新しく届いた胡蝶蘭が並んでいた。師匠は煙草盆の灰を整えながら、千鶴の返事を待っていた。
「国立小劇場へ立てる機会は、何度もあるものではありません。あなたなら、きちんと勤められますよ」
「少し考えさせてください」
「もちろんです。でも、あなた一人が出ないとなると、ほかのお弟子さんとの釣り合いもあります。地方の先生方にも、すでに声をかけ始めていますからね」
発表会は、本人が出たいかどうかだけでは決められなかった。同じ師匠につく弟子たちが順番に大きな役を勤め、互いの舞台を手伝う付き合いがある。自分だけ費用を理由に断れば、師匠の顔を潰し、先輩や後輩との関係にも影響した。
さらに大きな舞台で『鷺娘』や『八百屋お七』を踊るなら、三百万円ほどかかることもあると聞いた。『道成寺』や『藤娘』でも六十万円ほどは必要になる。千鶴は舞台の白い照明を思い浮かべたあと、帰宅して預金通帳を開いた。
結婚後の千鶴には、その金額を自分だけで決めることはできなかった。家賃、食費、浩司の小遣い、将来の住宅資金を差し引けば、発表会へ出る余裕はほとんどない。台所では煮物の鍋が弱火にかかり、里芋のぬめりが蓋の隙間から吹きこぼれていた。
「浩司さん、来年の発表会のことで相談があるの」
夕食のとき、千鶴は費用を書いた紙を差し出した。浩司は鯵の開きから骨を外しながら、紙へ目を落とした。味噌汁は話を切り出す時機を待つうちに冷め、豆腐が椀の底へ沈んでいた。
「六十万円? 踊るだけで?」
「衣装や鬘、地方の先生方への謝礼も含まれているの。国立小劇場で踊れる機会は、なかなかないから」
「踊ったら、六十万円もらえるのか」
「もらうのではなくて、こちらが払うの」
「それなら、何の役に立つんだ」
「役に立つかどうかではなくて、ずっと続けてきたお稽古だから」
「結婚した女が、そんなことに六十万円も使うのか。これから家も買うし、子どもだって生まれるかもしれないんだぞ」
浩司は紙を食卓へ戻し、鯵の小骨を皿の端へ並べた。千鶴は冷めた味噌汁を一口飲み、表面に浮いた葱を箸で集めた。六十万円で何か月分の食費を賄えるかを計算すると、それ以上言葉を続けられなかった。
「今回は、断ります」
「今回はではなく、もうやめたらどうだ。趣味にしては金がかかりすぎる」
「発表会へ出なくても、お稽古だけなら続けられるわ」
「自分だけ発表会へ出ないで、稽古場へ通えるのか?」
浩司に言われなくても、それが難しいことは分かっていた。師匠から役を勧められ、先輩や後輩が舞台へ立つ中で、自分だけ月謝だけを払い続けることはできない。手伝いだけに行けば、なぜ出ないのかと何度も尋ねられる。
「少し考えます」
「考えるほどのことではないだろう。家庭を持ったら、家庭を優先するのが普通だ」
「普通……」
「俺は仕事をしている。お前は家を守る。それでいいじゃないか」
その夜、千鶴は布団へ入ってから『日本婦道記』を開いた。浩司は隣でいびきをかき、枕元には飲みかけの水が置かれていた。千鶴は小さな灯りの下で「梅咲きぬ」を読み、途中の頁へ鉛筆で線を引いた。
一つの芸を極めることより、家を守り、夫を支えることへ心を向ける。自分もそうするべきなのだと思えば、国立小劇場へ立たない理由を受け入れられた。千鶴は余白へ「家庭を持ったら心を散らさない」と書いた。
翌週、千鶴は稽古場へ断りの電話を入れた。黒電話の受話器を両手で持ち、発表会へ出られないことと、しばらく稽古を休みたいことを伝えた。台所では味噌汁が煮立ち、何度も鍋の蓋が鳴ったが、火を止めに行くことはできなかった。
「ご主人が反対なさったの?」
師匠の声は、いつもの稽古より低かった。千鶴は受話器のコードを指へ巻き、ほどいてから答えた。窓際には水仙が一輪飾られ、細い茎が暖房の風で揺れていた。
「家庭を優先したいと思います」
「あなた自身が、そう決めたのですね」
「はい」
「では、私から申し上げることはありません。ただ、舞台へ出なければ、お稽古だけ続けるのも難しくなりますよ」
「分かっています」
「あなたは『藤娘』を踊れる人でした。稽古した身体は、簡単にはなくなりません。扇子だけは捨てないでおきなさい」
電話を切ると、味噌汁は煮詰まり、鍋底へわかめが張りついていた。千鶴は水を足し、味噌を少し加えて味を直した。浩司が帰るころには、失敗したことが分からない味になった。
その後、琴も長唄も常磐津も清元も、少しずつ遠ざかった。月謝を家計から出すたびに、住宅資金が減ると思うようになった。子どもが生まれると、稽古へ行く時刻に熱を出したり、昼寝から起きて泣いたりした。
発表会へ出ない選択を重ねるうち、師匠から声がかからなくなった。最初は封書で届いていた案内も、数年後には年賀状だけになった。千鶴は扇子と譜本を押し入れへしまい、空いた場所へ子どものおむつと浩司の背広を入れた。
三十五年後の夜、千鶴は古い扇子を手に持った。右へ開き、左手へ渡し、胸元で返す。足は畳の上へ座ったままだったが、指は順番を覚えていた。
「お前、何をしているんだ」
風呂から上がった浩司が、濡れた髪をタオルで拭きながら居間へ入ってきた。灰色のスウェットの膝には、旅先でつけたらしい泥の跡が残っている。千鶴は扇子を閉じず、金地の藤を浩司へ向けた。
「日本舞踊の扇子です」
「まだ取ってあったのか。使わないものを、いつまでも置いておくなよ」
「使っています」
「今、開いただけだろう」
「三十五年ぶりに開きました」
浩司は食卓の上の文庫本を見つけ、題名を読んだ。頁の間には、梅の花を印刷した栞が挟まっている。浩司は興味を失ったように本を置き、冷蔵庫を開けた。
「ビールが一本しかないぞ」
「ご自分で買ってください」
「明日でいい。ところで、夕飯は蕪蒸しだけでは足りなかった。何か作ってくれ」
「食パンと卵があります」
「また卵か。普通のものはないのか」
「あなたの普通は、私には分かりません」
浩司は冷蔵庫の扉を開けたまま、千鶴を見た。冷気が床へ流れ、窓際のミントの葉がかすかに揺れた。千鶴は立ち上がらず、扇子を胸元へ引いた。
「昔、国立小劇場の発表会へ出る話があったのを覚えていますか」
「何の話だ」
「『藤娘』です。六十万円かかると言ったら、何の役に立つのかと聞きました」
「六十万円もするなら、やめて正解だっただろう」
「『鷺娘』や『八百屋お七』なら、三百万円かかることもありました。私も高すぎると思いました」
「ほら、やっぱり無駄だったんだ」
「そうですね。お月謝も、すさまじかったです」
千鶴が笑うと、浩司は話が通じたと思ったのか、冷蔵庫からビールを取り出した。栓を開け、缶のまま飲みながら、テレビの電源を入れた。千鶴は笑った口元を戻し、扇子の藤を指でなぞった。
「でも、好きでした」
「何が?」
「日本舞踊も琴もピアノも、民謡も長唄も常磐津も清元も鳴り物も、全部です」
「そんなにやっていたのか」
「ええ」
「初めて聞いたぞ」
「あなたが尋ねなかったからです」
浩司は缶を口元へ運んだまま止まった。千鶴が趣味一つない女ではなかったことを、今になって初めて知った顔だった。テレビでは旅番組が始まり、若い女性が海辺の温泉を紹介していた。
「でも、結婚してから何もしていなかったじゃないか」
「家庭を守る妻は、一つの芸を極めるべきではないと思っていました」
「誰に言われたんだ」
「本で読みました。あなたにも、家庭を優先するのが普通だと言われました」
「俺は、全部やめろとまでは言っていない」
「発表会へ出ずに、付き合いだけ続けることは難しかったのです。それを説明しても、あなたには六十万円の話しか聞こえなかったでしょう」
千鶴は『日本婦道記』を閉じた。昔は、好きなことを諦めて家庭へ尽くす女性の姿を、自分が進むべき道だと思った。今は、誰が家を守り、誰が芸事を続けるかを、なぜ妻だけが決められずにいたのかと考えた。
「それで、今さら踊るのか」
「まだ分かりません」
「六十歳から舞台に立てるわけがないだろう」
「舞台に立つかどうかではありません。好きだったことを、好きだったと認めるところから始めます」
「そんなことをして、何になる」
「また、役に立つかと聞くのですね」
浩司は返事をせず、ビールを飲んだ。千鶴は扇子を閉じ、古い文庫本の上へ置いた。扇子の骨が重なる音は小さかったが、テレビの音よりはっきり耳へ届いた。
翌朝、千鶴は庭の梅の枝を見に行った。小さな庭に梅の木はなかったが、隣家から伸びた枝の先に、白い花が三輪残っていた。夜の雨で花びらは少し透け、中心の黄色い蕊に水滴がついていた。
台所へ戻ると、前夜のフライパンが流しに残っていた。重曹を入れた湯は茶色く濁り、卵の焦げが少し浮いている。千鶴はそれを洗わず、窓際の再生蕪へ新しい水を足した。
机の上へ教習所の案内と、日本舞踊の扇子を並べた。どちらを選ぶか、今すぐ決める必要はない。誰かの予定に合わせて一つを捨てる必要もなかった。
「全部やり直したら、お月謝で破産してしまうわね」
千鶴は一人で笑い、赤い椿のカップへ紅茶を注いだ。外では白い梅の花が風に揺れ、窓際では捨てるはずだった蕪から新しい葉が伸びていた。かつて平凡な妻になるために閉じた扇子は、朝の光の中で、もう一度開かれるのを待っていた。




