第5話 家庭料理が作れない妻
第5話 家庭料理が作れない妻
浩司が北陸から帰ると連絡してきた朝、千鶴は商店街の魚屋にいた。店先の発泡スチロール箱には、鯛、鰆、蛍烏賊が砕いた氷の上へ並べられ、潮と生姜醤油の匂いが混じっている。軒先に吊るされた燕の巣では、親鳥がくちばしに枯草をくわえ、何度も出入りしていた。
「奥さん、今日は鯛がいいよ。半身でも売るから、二人なら十分だ」
魚屋の主人は、銀色の鱗が光る鯛を持ち上げた。千鶴は生成りのブラウスに深緑色のカーディガンを重ね、山吹色の買い物袋を腕へ掛けていた。隣の箱に並んだ蕪を見ると、三十五年前に作った料理の味が舌の上へ戻ってきた。
「では、半身をください。骨は抜かずに、そのままでお願いします」
「塩焼きにするのかい」
「蕪蒸しを作ります」
「そりゃ手が込んでいるね。旦那さんが帰ってくる祝いかい」
「いいえ。私が食べたくなったんです」
魚屋の主人は一度目を瞬かせ、それから何も聞かずに鯛を包んだ。新聞紙の内側へ薄いビニールを重ね、汁が漏れないよう輪ゴムを二本かけてくれた。千鶴は代金を払い、店頭の籠から葉のついた蕪を三個選んだ。
帰り道、千鶴は教習所の前を通った。相談の予約を入れたのは来週で、まだ門の内側へ入ったことはない。コースでは若い男性が小型のバイクを押し、指導員から何度もハンドルの持ち方を直されていた。
「最初は、押すところからなのね」
千鶴は自転車を止め、柵の外から少しだけ眺めた。大型バイクへ乗る自分の姿はまだ想像できないが、乗れないと決まったわけでもない。足元では、舗装の割れ目から伸びた蒲公英が、黄色い花を風に揺らしていた。
家へ戻ると、庭の青じそへ水をやった。パセリの鉢からは細い雑草が三本生え、抜こうとすると根に土がまとまってついてきた。千鶴は土を指で戻し、抜いた草を庭の隅へ置いた。
台所では鯛の包みを開き、骨抜きで小さな骨を一本ずつ取り除いた。蕪をすりおろして水気を加減し、泡立てた卵白と合わせる。鯛の上へ白い蕪をふんわり載せ、蒸し器の蓋を閉じると、ほどなく出汁と魚の匂いが立ち始めた。
千鶴が初めて鯛の蕪蒸しを作ったのは、結婚して三か月ほどたった冬だった。あの日も、八百屋の蕪には青々とした葉がついていた。新居の窓辺には浩司が会社からもらった卓上カレンダーがあり、赤い字で給料日と書き込まれていた。
千鶴は淡い水色のセーターに、白い割烹着を着ていた。袖口を濡らさないよう二度折り返し、鯛の骨を抜いた。実家の料理屋では母が蒸し物を担当し、千鶴は横で蕪をすりおろしたり、銀餡を練ったりしていた。
夕方、昆布と鰹節で出汁を取り始めると、狭い台所に湯気が満ちた。蕪をする手が止まらず、白い汁がすり鉢の縁から少しこぼれた。千鶴は布巾で拭き、味見用の小皿へ餡を一匙取った。
「少し薄いかしら」
実家の母なら、客へ出す直前にもう一度味を調えただろう。浩司の好みはまだよく分からなかったが、塩辛いものは身体によくないと思い、出汁を強くして塩を控えた。柚子の皮を細く刻みながら、帰宅する夫の顔を思い浮かべた。
午後七時を少し過ぎて、玄関の鍵が開いた。浩司は鼠色の背広に紺色のネクタイを締め、黒い鞄を脇へ抱えていた。外では冷たい雨が降り始め、背広の肩に細かな水滴がついていた。
「お帰りなさい。今日は寒かったでしょう」
千鶴は浩司の鞄を受け取り、濡れた背広をハンガーへ掛けた。ポケットには丸めた煙草の箱が入っており、濡れた紙と整髪料の匂いがした。浩司は靴下を脱ぎ、炬燵へ足を入れた。
「腹が減った。今日の飯は何だ」
「鯛の蕪蒸しです。いま餡を温めるから、着替えてきて」
「鯛か。それはいいな」
千鶴は夫の返事を聞き、鍋の火を少し強くした。餡に透明な艶が出たところで火を止め、蒸し上がった鯛へかけた。白い蕪の上へ柚子を載せ、蓋つきの椀へ収めた。
食卓には蕪蒸し、菜飯、ほうれん草の白和え、豆腐と三つ葉の吸い物を並べた。浩司は着替えを済ませ、茶色いセーター姿で席へ着いた。椀の蓋を開けた瞬間、柚子と出汁の香りが二人の間へ広がった。
「これは何だ」
浩司は蕪の上から鯛を探すように、箸の先で表面を崩した。とろみのある餡が箸へ絡み、白い湯気が眼鏡を曇らせた。千鶴は自分の椀へ手をつけず、夫が一口食べるのを待った。
「蕪蒸しです。下に鯛が入っています」
「これが晩飯のおかずか」
「鯛を一切れずつ入れました。足りなければ、ご飯をお代わりして」
「そうではなくて、もっと普通のものはないのか」
「普通のもの?」
浩司はもう一口食べたが、うまいともまずいとも言わなかった。菜飯をかき込み、白和えを箸でつついた。千鶴は割烹着の胸元を指先で押さえ、何が足りないのかを考えた。
「肉じゃがとか、焼き魚とか、生姜焼きとかあるだろう。仕事から帰ってきて、毎日こういう面倒なものを食べたいわけではないんだ」
「でも、鯛も蕪も家で作れる料理よ」
「君は、家庭料理が作れないんだな」
千鶴は椀の蓋へ手を伸ばし、途中で止めた。鯛には骨が一本も残らないよう指先で確かめ、蕪の水分も出汁に合わせて絞った。実家なら客へ出しても恥ずかしくない出来だった。
「家庭料理って、何を作ればいいの?」
「そんなことまで俺に聞かなければ分からないのか」
「私の家では、これが普通だったの。父がお店から魚を持って帰ってきて、母が作っていたから」
「ここは料理屋ではない。毎日、料亭ごっこをされても疲れるよ」
「ごっこではありません。私は、習ったとおりに作っただけです」
「だから、そういうところが普通ではないと言っているんだ」
浩司は蕪蒸しを半分残し、菜飯をもう一膳よそった。千鶴が作った吸い物には手をつけず、冷蔵庫から漬物を出した。蓋を閉めずに戻したため、沢庵の匂いが冷蔵庫の中へ広がった。
「残りは明日の朝に食べる?」
「朝からこんなものはいらない。君が食べればいい」
「味は、悪くなかった?」
「味の話をしているんじゃない。普通の家庭料理を作ってくれと言っているんだ」
食後、浩司は炬燵で新聞を読み始めた。千鶴は残された蕪蒸しを小さな保存容器へ移した。冷めると餡の表面に薄い膜が張り、刻んだ柚子が端へ寄った。
翌朝、千鶴は洗濯物を干す時間を見計らい、隣家の裏口へ回った。隣に住む佐々木夫人は、赤ん坊を背負ったまま、白い布おむつを物干し竿へ掛けていた。庭の隅には霜柱が残り、踏むたびに土が小さな音を立てた。
「おはようございます。少し教えていただきたいことがあるのですが」
千鶴が垣根越しに声をかけると、佐々木夫人は洗濯ばさみを口から外した。赤ん坊の帽子が少しずれ、片方の耳だけが出ている。千鶴は直してあげたくなったが、手を伸ばさずに待った。
「あら、河原崎さん。どうしたの?」
「肉じゃがの作り方を、教えていただけませんか」
「肉じゃが? お料理屋さんのお嬢さんでしょう。私なんかより、ずっとお料理が上手ではないの」
「蕪蒸しなら作れます。でも、家庭料理が作れないと言われました」
「誰に?」
「夫にです」
佐々木夫人は布おむつを持ったまま、千鶴の顔を見た。背中の赤ん坊が身じろぎし、毛糸の帽子がさらに斜めになった。夫人は何か言いかけたが、代わりに物干し竿の端を空けた。
「肉じゃがなんて、家によって違うわよ。うちは玉ねぎを多くするの。お肉が少なくても甘くなるし、量も増えるから」
「お肉は牛ですか、豚ですか」
「うちは豚。牛肉は高いでしょう。じゃが芋が煮崩れたら、翌日に潰してコロッケにすればいいのよ」
「煮崩れたら、失敗ではないの?」
「家庭料理に失敗も成功もないわよ。食べられれば、だいたい大丈夫」
佐々木夫人は笑い、千鶴を台所へ招いた。流しには朝食で使った茶碗が重なり、冷めた味噌汁の鍋には葱が沈んでいた。食卓の端には赤ん坊のよだれかけと、夫が読みかけた競馬新聞が置かれていた。
「こんな台所でごめんなさいね」
「どうして謝るの?」
「あなたのおうちは、いつもきれいでしょう」
「散らかす前に、夫が帰ってくるのです」
「それでは、一日中片づけていないと間に合わないわね」
夫人は戸棚から使い込んだ片手鍋を出した。鍋底は黒く焦げ、取っ手には細いひびが入っている。千鶴の実家なら客へ見せない鍋だったが、その鍋からは玉ねぎと醤油の甘い匂いがした。
「昨日の残りよ。味見してみる?」
「いただいてもいいの?」
「冷たいけどね。温めると赤ん坊が起きるから、このままで勘弁して」
千鶴は小皿へ載せてもらったじゃが芋を食べた。中まで醤油が染み、少し崩れたところへ玉ねぎが絡んでいる。店で出す料理とは違ったが、ご飯をもう一口食べたくなる味だった。
「おいしい」
「砂糖を少し多めに入れたの。うちの人が甘いのを好むから」
「夫の好きな味にするのね」
「まあね。でも私しか食べない昼には、七味を山ほど振るわよ」
その日から、千鶴は小さなノートを作った。表紙には「家庭料理」と書き、最初の頁へ肉じゃがの材料を記した。豚肉、じゃが芋、玉ねぎ、人参、砂糖、醤油、酒と並べ、その横へ「玉ねぎを多くすると甘い」と赤字で加えた。
近所の奥さんたちは、頼めばそれぞれの家の料理を教えてくれた。高橋夫人からは、きんぴらごぼうへ酢を少し入れると色が黒くなりにくいことを聞いた。森夫人からは、ひじきの煮物を卵焼きへ入れ、残り物だと分からないようにする方法を習った。
鯖の味噌煮は、浩司が生臭いと言わなくなるまで四回作った。生姜を増やし、霜降りをし、味噌を入れる時間を変えた。小さなノートには「皮を上」「浩司さん、骨を嫌う」「味噌は赤より合わせ」と、細かな字が増えていった。
初めて肉じゃがを出した夜、千鶴は浩司の反応を待った。食卓には肉じゃが、豆腐の味噌汁、ほうれん草のお浸し、鯵の開きを並べた。華やかな器は使わず、白い小鉢と茶色い皿だけを選んだ。
「今日は普通のご飯にしたの」
浩司はテレビの野球中継を見ながら、肉じゃがを口へ運んだ。じゃが芋を一つ食べ、味噌汁を飲み、鯵の骨を皿の端へよけた。千鶴は自分の箸を持ったまま、夫の横顔を見ていた。
「どう?」
「こういうのでいいんだよ」
「味は?」
「普通だよ。肉じゃがなんだから、こんなものだろう」
「そう」
千鶴はノートの肉じゃがの頁へ、鉛筆で丸をつけた。褒められたわけではないが、家庭料理を一つ覚えたと思った。翌週にはきんぴら、その次には鯖の味噌煮の頁へも丸が増えた。
それから三十五年、千鶴は浩司の言う普通の料理を作り続けた。鯛は塩焼きにし、蕪は味噌汁か浅漬けにした。蕪蒸しを作ろうと思うたびに、面倒な料理はいらないと言われた夜を思い出し、蕪を別の献立へ使った。
現在の台所で、蒸し器の蓋が小さく揺れた。千鶴が火を弱めると、窓ガラスの曇りが広がり、庭の木瓜の花が見えなくなった。銀餡へ濃い出汁を加え、味見をすると、三十五年前より鰹の香りが強かった。
「これくらいが、私は好きだったのよね」
千鶴は鯛の蕪蒸しを、赤い椿を描いた深鉢へ盛った。白い蕪の上には、細く刻んだ柚子と庭の三つ葉を載せた。食卓には一人分の箸と、炊きたての白いご飯だけを用意した。
夕方六時、玄関の鍵が回った。浩司は旅行鞄を引きずり、紺色の上着を片腕へ掛けて入ってきた。数日剃らなかった髭が顎に残り、ワイシャツの襟には汗の染みができていた。
「ただいま。いやあ、ひどい目に遭った」
浩司は旅行鞄を玄関へ倒した。鞄の隙間から黒と紺の靴下が片方ずつはみ出し、濡れたタオルの匂いがした。千鶴は箸を置かず、蕪蒸しを一口食べた。
「お帰りなさい」
「薬を忘れたせいで、金沢の病院へ行ったんだぞ。診察まで二時間も待たされた。お前が連絡してくれれば、取りに戻れたのに」
「ご自分で確認するよう申し上げました」
「だからって、本当に何もしないとは思わないだろう。普通は連絡するぞ」
「あなたの普通ですね」
浩司は靴を脱ぎ、居間へ入ってきた。食卓に一人分しか用意されていないことに気づき、眉を寄せた。台所の鍋の蓋を開け、炊飯器の中も確認した。
「俺の夕飯は?」
「用意していません」
「帰ると電話しただろう」
「帰宅時刻は聞いていません。それに、私は帰宅祝いをしないと申し上げました」
「祝いでなくていい。普通の飯でいいんだよ。肉じゃがでも、焼き魚でも、あるもので作ればいい」
「鯛の蕪蒸しなら、一人分あります」
「それはお前が食べているだろう」
「私のために作りましたから」
浩司は千鶴の深鉢をのぞき込んだ。白い蕪の間から鯛の身が見え、透明な餡が照明を反射している。柚子と出汁の香りが、旅行鞄から漂う湿った衣類の匂いと混じった。
「また、こんな面倒なものを作ったのか」
「三十五年ぶりです」
「俺が帰る日に、一人分だけ?」
「ええ。私が食べたかったので」
「夫が帰ると分かっていたら、普通は二人分作るだろう」
千鶴は箸を置き、食器棚の下から古いノートを取り出した。表紙には「家庭料理」と書かれ、油と醤油の染みがついている。最初の頁には、若い千鶴の字で肉じゃがの材料が並んでいた。
「あなたは、これを覚えていますか」
「何だ、それは」
「あなたに家庭料理が作れないと言われて、近所の奥さんたちから教わった料理です」
「そんなことを言ったか?」
「鯛の蕪蒸しを作った夜に言いました」
「昔の話だろう。いちいち覚えていない」
「私は覚えています。言われるたびに、できるようになるまで練習しましたから」
千鶴はノートを開き、浩司の前へ置いた。「浩司さん、これなら食べた」「生姜を増やす」「玉ねぎは多め」と書かれた頁が続いている。文字の横には丸や三角がつき、駄目だった料理には、作り直すための注意が赤字で残っていた。
「私は実家が料理屋でした。料理ができなかったのではありません。あなたの家で食べていたものを、知らなかっただけです」
「だったら、覚えてよかったじゃないか。実際、作れるようになったんだから」
「ええ。あなたが困らないように、必死で覚えました」
「それなら今日も作ればいいだろう」
浩司は、何を拒まれているのか分からない顔をした。千鶴は残っていた蕪蒸しを一口食べ、温かい餡と柔らかな鯛をゆっくり飲み込んだ。三十五年前、半分残されたものより、少し出汁が濃く、自分の舌に合う味だった。
「あなたの普通を作る仕事は、卒業しました」
「卒婚したからといって、そんなに急に変わるものか」
「私は急に変わったのではありません。昨日まで、変わらないようにしていただけです」
浩司は食卓の前に立ったまま、古いノートと赤い椿の深鉢を見比べた。台所には食パン、卵、昨夜の筍ご飯があり、冷凍庫には鯛の切り身も入っている。しかし、それを夕食へ変えてくれる妻は、もう席を立たなかった。
「俺は何を食べればいいんだ」
「お好きなものを、ご自由に」
「それでは卒婚ではなく、ただの意地悪だろう」
「自由には、自分の夕食を決める自由も含まれます」
浩司は冷蔵庫を開け、卵を一つ取り出した。殻を割ろうとして角へ何度も打ちつけ、力を入れすぎたため、白身が床へ垂れた。千鶴は台所用の布巾が流しの横にあると教えたが、拭いてやることはしなかった。
食事を終えると、千鶴は庭へ出た。夕方の空気には土と沈丁花の匂いが混じり、青じその双葉が風に震えている。蕪の葉を刻んだ残りは捨てず、水を張った小皿へ挿して窓際に置いた。
根元を少し残した蕪は、何日かすればもう一度葉を出す。浩司は、食べ終えたものを取っておくのはけちくさいと言うだろう。しかし千鶴は、小皿の水を指先で一滴足した。
「私の普通は、これでいいのよ」
台所では浩司が卵を焼き、焦がした匂いが漂ってきた。千鶴はすぐには戻らず、暗くなり始めた庭で、風に揺れる青じそとパセリを眺めていた。窓際の蕪は白い切り口を水へ浸し、もう一度葉を伸ばす場所を与えられていた。




